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時、場所、条件が違っていても、誰もが常に正しいこと、常に善いこと、常に美しいものと認めるものは存在するのか?

A 回答 (16件中1~10件)



正しさも善さも美しさも、愛に立脚しています。
愛が無ければ、それらを感じる事さえ不可能であるから正しさ・善・美のすべてが無意味になります。

正しささえ、頭で考えるのでは無く正しさを感じるところから正しさを追求しているのを理解する人は少ない。
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自然と愛でしょね。

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植物等の自然はそうですし、表には出て来ませんが聖人や修道士や修道女もそうでしょう・・・

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NO.12に言うけれど述部は馬鹿だな。


決部は貴方が賢いことを示している。
哲学者は触れてはいけないことに触れていて正しいと思える知能を持っている。
哲学者ほど妄想・あいまいを嫌う者はいない。
どなたにも理解できない。
私の、貴方の将来なぞ知らない。
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存在は証明できません(する方法がない)。


しかし、「存在する」ということにしておく方法はあり、
一般的にこの議論で持ち出されるのはそちらのほうです。

それは「人間にとって常に正しいものは存在するか」という問いをひっくり返し、
「これを正しいと認めるものだけが人間である」とすることです。

例えば我々は、残虐な殺人のニュースを見て、犯人を「こいつは人間じゃない」と批判します。
事実としては、どんな大量殺人鬼だろうが、生物としてヒトであることには違いないのですが、
殺人者を「人間」のカテゴリからどんどん外していく限り、毎日殺人のニュースが流れても、
「人間は人を殺したりしないものだ」と言い張ることができます。

同様に、「人間ならばこれを正しいと認めるものだ」と言い張ることも可能です。
このやり方ならば、大量の生物学的ヒトを「人間」のカテゴリから排除することで、
「全ての人間にとって普遍的に正しいこと」を保つことができます。
もちろん、それは思想や社会からの排除である場合も、もっと物理的な殺害による排除である
ケースもあります。


これをもう少し柔らかくしたものが、布教機能を持つ宗教のひとつの側面です。

つまり、「人間にとって常に正しいものは存在する」と仮定した上で、
しかし実際にはそれを正しいとも、美しいとも認めない人間が山ほどいる現実を、
「彼らは未だ『本当に正しいこと』に目覚めていないのだ」と考えるのです。

無限の時間があれば、やがてすべての人がそれを正しいと認めるに至るはずなのだが、
実際には人間の時間は有限であり、したがって『本当に正しいこと』を正しいと認められないまま
死んでいく人間も多数います。しかし、それは「常に正しいものは存在しないから」ではなくて、
「常に正しいものは存在するのだが、人間社会はあまりに未熟過ぎてそれを理解できない」
と考えるわけですね。

これは、ロジカルな思考の産物としては正しくありませんが、かといって「間違っている」と
断じることもできない機能を持っています。普遍的に正しいものが事実あるかどうかとは別に、
「普遍的に正しいものがあるはずだ」と考えること自体は、有用である場合が多いからです。

そういう無根拠な思い込みがなければ、科学の発達はあり得ませんでした。
本当に、「あなたと私、二人のどちらにも通じる正しさ」がないとすれば、
二人の間の異なる価値観から生じた争いを解決することは不可能になってしまいます。
共通して持てる「正しさ」があるからこそ、どちらか(あるいは両方)が非を認め、
和解することができます。


長くなりましたが、私の結論はこうなります。

普遍的な真善美が事実存在するかどうかは証明できない。
しかし「存在するはずだ」と考えることは、思考やコミュニケーションの上で重要である。
ただし、その考えは容易に「他者排除」に繋がるので、「普遍的な真善美」を自らが所有している・
理解している・代弁していると考えてはならない。常にそれは、誰からも遠いところにあり、
いかなる権力者も宗教者も触れられないものでなければならない。
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どなたにも理解できないことであるが、そは、思いやりである。

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世界を世界として在らせているものは二つ、を釈迦は縁と起、老子は道と非道、あるいは、有と無、


名にを考えているのかと言えば。在っている、起きている、在ると認識させる、今、つまりは「空間」と、在らせている能力、方向性、つまり、在るとは認識できない「時間」の二つによって、世界は存在している。との考え方です、こを老子は道(とう) もしくは道理(とおり)と考えています。
「老子」の第一章
道は道にして常の道に非らず。名は名にして常の名にあらず。、、無を天地の父に名づけ、有を大地の母に名づく、もって無はその檄(方向性)を現さんと欲し、有はその喬(姿形)を誇示せんとす。
「老子」はかって理解できた者が一人もいない、難解な哲学、といわれます。つまり、西洋思想は、それを高いものと妄信している現代の思想、知恵、は二千五百年前の、老子や釈迦の思想レベルに届いていないのです
「老子」第二章
人々は善は善であると考え、善が悪であることを知らない。美は美である考え、美が醜であることを知らない、善と悪、美と醜、愛と増・・これら相対する二つのものは、互いに否定しあい、規制し合いながらも、一つの統一体をなすものである。 と へ-ゲルの弁証法が述べられています。
また釈迦は 「好嫌戦慄 は己より発し己を去る」と言っています。
二千年前とは言いませんが、五十年ばかり前の戦後の時代。日本人改造計画?片棒を担いでか。日曜学校という、キリスト教布教活動が、田舎まで行われていましたが。神様がいるなどということを、相手にする、信じる子供はほとんどいませんでした。ただ飴玉をもらえると、クリスマスの日に行っただけ、がほとんどでした。中高生になって、神だの幽霊、だの、易占い、などと言う者は、馬鹿、考える力がない。と評価されるのが普通だったように思います。現代は漫画、雑誌、パチンコ台
などを見ると、妄想、ウソ物語、ばかりです。こんな環境で、どんな子を育てるのでしょう?
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虹ですかね

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赤子の笑顔

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存在する、というのがキリスト教文化圏の


人間です。

神は全知全能の創造神ですから、正義も美も
総て神が創ったものです。

だから、永遠不変の正義や美も存在する、という
のが整合的です。

だから彼らは延々と、何百年も正義論を戦わせて
いるのです。
現在はロールズの正義論が通説みたいになっています。

これに対して、日本は違います。

イエズス会と日本の庶民との問答が残っています。

「善だ悪だ、というが、善悪など時代や、立場に
 よって変わるものではないのか?」

善悪など、所詮は人間の都合で人間が創ったものです。

時と立場で変わるのが当然だと思います。

尚、美、ですが。
ここにいう「美」は心などの美しさのことだと
理解しました。

ビジュアル的な美は、人間の情動神経系に関係
しますので、これはある程度普遍的になります。
ある程度ですが。
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