No.6ベストアンサー
- 回答日時:
質問者の方の感想では、
すべて「本能ですね。」の一言で片付けられてしまう可能性もありますが、一応そっち系統の答えを追加しておきます。まあ、言ってみれば、本能の中身を説明しましょう。
まあ、一つの見方と思ってください。
あと、これも先に言っておきますが、
人間の心は複雑、かつ個性の強いものであり、正確に安易な言葉で言い換えなんてとてもできませんよ。もし、完備に正確に、リアルな感触から得られる効用を説明しようと思ったら、対象別、個人別にかなりすごい数の分類軸をもうけなくてはならず、評論の価値が極めて小さくなります。
なので、以下は、私が結構本質的と思う部分を抽出して論じることになります。
そもそも、生物の情報処理というのは、
もっとも単純には、生存に有利な行動をするための情報集めが目的です。
生物で一番単純な感覚器官は、
単細胞生物レベルの単純な生物において、においとかの gradient (傾き、つまりグローバルな映像とか見えないので、自分のいる場所で、どちらの方向から、どういう強さのにおいがきているのかって感じ)を感じ取り、
そちらの方向へ動いていってえさを捕食するという類のものです。
人間でさえ、映像などでも、自分の興味がある映像については、興味がありますが(トートロジーではなくて、言いたいのは「興味がある」というのが、たとえばえさがほしいなど、外生的に定まるということ)、
一般にすべての映像に興味があるというわけではないでしょう。
極端な例を挙げれば、犬にとってのテレビ。ほとんどの犬はテレビの映像に興味を示しません。人間だって、興味のないテレビ番組はつまらないのです。言葉もリアルも両方要りません。
まあ、というわけなので、興味がないほうは、それほど問題はないと思いますが、
逆になんで人は、そもそも、五感に刺激を求めるのだろう?
もし、行動の意思決定支援の情報の価値の意味でのみ情報を欲するならば、
鑑賞という行為で完結する芸術やスポーツ鑑賞はそれほど意味があるとも思えない。
でも意味を感じる。
一つの解釈としては、シミュレーション・学習があります。
つまり、脳を鍛えておくんですね。自分がもし選手の立場だったらどうするだろうか?とか鑑賞のポイントを多く有していると、興味が高まります。実際、興味の強度と、その競技に関する知識の深さには強い相関があると思います。
音楽や絵画も同様ですね。絵画の場合は自分で描く人口はかなり少ないと思いますが、音楽の場合は演奏するファンがすごく多いと思います。そして、自分で演奏するファンのほうが一般に鑑賞したときに受ける知的刺激が強いと考えられます。
まあ、もっとも、大脳新皮質が発達した人間の場合は、直接行為に及ぶことができなくても、学習自体から快感を得られるように、脳ができているんですね。なので、マニアックなファンに関して言えば、実際の演奏家とかよりも、鑑賞のポイントを抑えていたりすることもあります。手前味噌ですが、相撲ファンの私は、親方の解説連中よりはるかに力士の潜在能力や、その場所での活躍などを正確に予測することができます。自分は相撲をとらないのに、それくらい強烈に相撲に興味を持てている。これは、はっきり言ってパズルを解くのと感覚が似ています。稽古、素質、本場所での作戦などなど、複数の要素がどのように折り重なって取り組みの勝利という結果に結びつくか?という因果関係を鑑賞してるんですね。多くのマニアックなファンは、そこまで言語表現はしなくとも、似たような感覚で見ていると思います。で、直接「相撲」はしないけど、そうした知的作業自体が楽しくて、大脳新皮質を鍛え、その神経回路が、生存に有利に働くような現場でも役立つことがあると考えられるのです。
程度こそ違いますが、およそ哺乳類の子供は「遊び」が大好きです。で、遊びは、子供時代に直接生存に役立つわけではありませんし、子供がなにか目的意識を持っているわけでもない。むしろ、親から離れたりして危険。でも、子供は外界に興味を持ち、なんでも吸収してやろうと思っているんですね。
人間の場合は、そうした遊び心を大人になっても持ち続けることが、人間の生存に役立ったと思われます。これが、大脳新皮質がこれだけ肥大化した所以でしょう。
もっとも、動物でも、大人になってからも興味を持ち続けています。実際、犬は一日最低一回散歩に行かないとストレスがたまる犬が多いと思います。野生動物の大人が特別好奇心旺盛に見えないのは、部分的には外界からの刺激が十分だからだと言えると思います。飼い犬の場合は、環境が単純なので、散歩で知的好奇心を埋めてやらないと、大脳新皮質の学習意欲を満足させることができないのです。
花の映像を美しいと感じ、鑑賞したくなるのも、基本的には似たような事情によると思います。花というのは、色彩、花びらの幾何学的形状、華道のようなレイアウト、花をやり取りする文脈、花瓶など、シャノンの意味での情報量が多く、最低限知的刺激を受けます。まあ、もっとも、「花」という素材には、もっとはるかに複雑な事情があると思いますけど。その点については、
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=988017
質問:花はなぜ綺麗なのか
を参照してください。
というわけなので、イメージが重要なことはわかりました。
さて、では、言葉とリアルとの関係はどうでしょうか?
実は、文脈によるんですよ。
あなたが絵を描くときの感覚っていうのはどうだかわかりませんが、
音楽のファンの多くは一流の演奏しか聴きたがりません。それはなぜか?たぶんですけど、自分の頭の仲にあるイメージを上回る刺激でないと、イメージを乱す負の効果しかもたらさないんですね。つまり、新たな経験として、学習したなあというような知的刺激を受けることができるリアルにとりわけ興味があるわけです。
小説も同様ですよ。よく、三流脚本家、演出家の演劇やドラマ、映画が原作より良くないって言う人が多いですけど、要は、自分の頭の仲に描くイメージのほうが、リアルより優れているんです。
でもね、かならず、そうした場合っていうのは、鑑賞者の「イメージ」がすごい場合に限られますよ。つまり、言葉自体はまったくリアルの代替物になりません。それは、テクストと映像の情報量がまったく違うことのアナロジーとして理解することができます。No5. の回答で言葉から連想するイメージの効用の話がありますけど、まさに「イメージ」が重要なのです。
では、逆に、刺激が新しければ良いか?っていうと、必ずしもそうでもない。だから、同じ場所で何回かは夕日を見ても感動できるんですけど。坂本隆一がうまいこと言ってるんですけど、人の感性というのは、ほとんど従来と同じものにたとえば5%の新規性を加えると、もっとも学習効果を発揮するらしい。それ以上斬新だと、新奇っていうことで、理解の範囲を超えるんですね。だから、リアルが良いっていっても、まさに自分の脳の解釈フィルターで処理可能なリアルが良いんですよ。すごく、話がつながってるでしょ?
というわけなので、
完全なイメージを描ける人か、
逆に諸法無我で本当に現実世界に執着をなくした人は、
リアルへの興味を失うことがありえます。
たとえば、変な例ですけど、
アニメオタクで、アニメの女の子に興味を持ってしまった男性の多くは、
現実の女性に興味がもてなくなるという現象が良く知られていると思います。
われわれ一般人は、
少なくとも食、セックス、その他生存と絡むところでいえば、いやおうなくリアルと関わって生きています。
そこで、リアルの対象への学習意欲を常に磨いておくべく、リアルへの興味を持ち続けていると思います。
参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=988017
No.5
- 回答日時:
図書館に#3の方があげてくださったタイトルの本がありました。
90年代半ばにあちこちに掲載された単発のエッセイをまとめた薄い本ですぐ読めたので、要旨をここにまとめておきます。
ご質問の文章は、『リアルであること』の巻頭に載っている同タイトルのエッセイ(たぶん2000字程度)です。
初出は'94年3月、朝日新聞。
ベルリンの壁崩壊をTVで見て以来、映画に対する興味は失われてしまった、と中沢は書き始めます。
現実(リアル)にふれていたい。
「リアルを厚ぼったい物語にかえる政治の神話も必要はないし、スピルバーグ的な影像の、偽善っぽい虚構も、うっとうしいばかりだ」
ところがそれから数年を経ても、世界にはリアルは立ち現れて来ない。
かつてイデオロギーが機能していたころ、人間に未知の可能性を開こう、というメッセージが語られていた。
80年代とは、そうしたイデオロギーの現実否定の呼びかけに、耳を塞いで遠ざかっていこうとする時代だった。
それは、いまある人生を犠牲にして、その未来に先送りしていこうとするような、イデオロギー的な生き方をやめたい、いまある生命を、意味とか夢とかのためではなく、リアルとして生きたい、という願望だった。
ところがそこからもうひとつの意味が派生した。
イデオロギーには現実を否定し、未知のものを出現させようという呼びかけがこめられていたけれども、80年代はその呼びかけまで捨て去ってしまった。
そのために、日本人のなかには、いまある世界とは別のところに出ていきたいという願望だけが、受け止め手もないまま宙をさまよう状況が生まれてしまった。
宗教はそうした若者に「出家」を呼びかけた。
ところが、たいていの宗教は、いまある世界を出て、別の精神的な共同体に入っておいで、と語るけれど、その共同体は、結局はもうひとつの夢、もうひとつの虚構でしかない。
生まれ育った世界を出たものの、リアルに近づくどころか、もうひとつの幻想にからめとられてしまう。
90年代は宗教の時代という人もいるが、そんなのはまやかしだ。
人間がいまほんとうに求めているものは、自分の生命とのリアルな接触だ。
いまのところ、ほんとうの意味でそれに答えられる宗教は生まれていない。
ただ、その兆しは、人々のあいだに生まれている「死」に対する深い関心に見て取ることができる。
一方で医療技術の進歩や臆病なブルジョア精神の蔓延は、「死」のリアルが侵入してくることをなんとか拒もうとしている。
イデオロギーは消えたけれど、リアルを隔てる「底」はいっそう分厚いものになろうとしている。
「人間に、自分の生命のリアルとの触れ合いを可能にしていく、別のやり方をぼくは創造したいと願っている。ぼくは、いっさいの幻想を…」(以下、#3の方の引用部分と重複するので省略します。「…真実の性交を求めているのだ」でこのエッセイは締めくくられます)
だから、この「リアル」というのは、自分の生命にリアルに触れていくということ、さらに具体的に言うと、死に向き合うということですね。
一切の幻想をはぎとって、死に直接向き合うことを通して、生をもう一度、確かなものに措定しなおしたい、そのように読めるかと思います。
おそらくこれは“最も恐るべきものであり、耐えるのに大きな力を要する死から目を逸らさず、正面から向き合うことで、人間の〈精神の生〉は目覚める”というヘーゲルの思想が遠くに響いていると思うんですが、中沢は宗教の可能性をここに見ていることがわかります。
>自分も花の絵を描いている時に思うことなのですが、
>なぜ花という言葉だけに満足できず、リアルなものに触れよう
>とするのでしょうか?
逆に、何で言葉だけで満足できるんでしょう?
「花」という言葉は、リアルな花とはまったく関係がありません。
「花を(今度)あげるよ」という発話がなされるとき、花はどこにもありません。
けれども言語の持つ奇妙な性質によって、このどこにもない花があたかも眼前にあるかのような錯覚が生まれてしまう。
目の前に花束を差し出されたわけではないのに、なんとなくうれしくなってしまう。
言語にはこうしたまやかしを可能にする性質があるんです。
メルロ=ポンティは
「ところで芸術、とりわけ絵画は、(科学的思考の)あの活動主義(=操作主義)がおよそ知ろうとは望まないこの〈生まな意味〉の層から、すべてを汲みとるのだ。まさしくそれだけが、まったく無邪気にそれをやってのける」(『眼と精神』みすず書房)
と、絵画を媒介に、「見ること」がどういうことかを明らかにしていきます。
「画家はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える」
『眼と精神』は初期の著作に較べてずいぶんむずかしいけれど、こんな一節を見ると何かドキドキしちゃいますね。
この回答へのお礼
お礼日時:2004/08/28 16:14
ご回答ありがとうございます。
たぶん死が関係しているとはうすうす思っていました。
メルロ=ポンティの『眼と精神』を是非読みたいと思います。
No.4
- 回答日時:
ものすご~く簡単に考えれば、
自分の求めているもののイメージと
その実態が合致しているかどうかを確認したい、
言葉や五感を使って多次元的に「認識」して安心したい、
ということじゃないでしょうか。
赤ん坊は空腹があるとき、
抱き上げられ、ぬくもりを体感し、
乳房の柔らかみに触れ、温かい乳が吸えてはじめて安心します。
無重力空間に浮遊させて、
胃袋にチューブで栄養物を流し込ませるだけでは
健全な赤ん坊は育たないと想像できます。
精神的あるいは肉体的欲求からくる欲求対象を「イメージ」と呼ぶのなら、
やはり、多角的に「認識」したいと思うのが自然です。
当たり前すぎて座布団取られそうな答えですいません。
No.3
- 回答日時:
中沢新一:著「リアルであること」の一文ですよね。
正確には「幻想に幻想を重ね、夢に夢を重ね、意味に意味の厚みをふやしていくようにしてつくられている、すべての表現に、げっそりしはじめたのだ。(中略)ぼくはいっさいの幻想を、人間の意識からぬぐいさってしまいたいのかもしれない。世界の裸体は本当に美しい。その裸体を自分が所有したいとか、思い通りにしたいとか、思ったとたんに、裸の美女は消えてしまう。ぼくたちは、リアルとの、真実の性交を求めているのだ。」ですね>今、ググって調べた。
構造主義者な視点で答えれば「私たちはつねにある時代・ある地域・ある社会集団に属しており、その条件が私たちのモノの見方・感じ方・考え方を、基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど自由に、あるいは主体的にモノを見ているわけではない」わけですよね。
>なぜ花という言葉だけに満足できず、リアルなものに触れようとするのでしょうか?
私たちがモノをみるときは、自分が属している時代・地域・社会集団の規範の下に、しかも自分が習得した言語を使って(つまり、所与の言語体系の枠内で)、意味を考えます。つまり、自分と花の間には、実は物凄くたくさんのフィルターが入っているわけです。リアルなものに触れたいという願望は、フィルターを一旦全部取り除いてみたいという、本能的な欲望だと思います。
このご質問に対しては、過去の様々な知識人が回答を試みていると思うのですが、最も合致するのは精神分析学者:ジャック・ラカンの言説ではないかと考えます。ただね、ラカンものの文章ってワケわかないのが多いんですけどね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3% …
No.2
- 回答日時:
「性行」というのがよくわからないのですが、「性交」でしょうか?
いずれにしても、感覚器官を備えている人間・動物達がそういったことをするのは、自然行動であり、本能だと思います。赤ちゃんが物を口に入れてしまうのも、それが何であるのかを感覚をフルに使って確認しようとする本能によるものです。まあ、つまらない考えかもしれませんが、それが自然ってことですね。
一応、小難しい哲学的な考えも紹介すると
エドムント・フッサール著「イデーン」
19世紀ドイツ
現象学 ただ見たままを記述する哲学
客観を主観が見て知覚するというのがそれまでの現代哲学の考え方だったが、それでは、客観(客体)の存在を証明できない。幻である可能性を捨て切れない。これを解決したのがフッサールの現象学である。
エポケー=(判断停止)
なぜボールが浮いているのか?という問いをエポケーして、ただ見たままを記述する。なぜ浮いているように見えるのか?を考える。糸で吊っていないから 手から離れているから といったことが考えられる。
バラは外の世界に物体として存在することではなく、自分が色んな意味(赤いから・動かないから・花びらが大きいから・自分じゃないから…etc)をつけて作り出しているモノ。つまり世界は人間の自我によって創造されている。この考え方を超越論的主観性という。
しかし、その考え方では解決できないものがあった。それが意識であった。「他者問題」と呼ばれるもの。他人が意識を持っているかどうか考えると迷宮にはまっていく。
フッサールがこの問題を解決するために出した答えが「感情移入」。感情移入で他者に意識があることを理解できる。これを「意味の転移」と呼ぶ。
(以上は自分のノートファイルからの抜粋です)
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