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「愛」と「哀」が同音異義語である事。「悲しみ」と「哀しみ」が同音異義語である事。また、「哀」には「哀れ(あわれ)」という意味もある事。
哀れ『goo辞書引用』
1.強い心の動き
2.かわいそうな状態
3.底知れないような趣。情緒。ものがなしさ。
(以下略)

特に、この場合は「3.」の意味合いが強いように思われます。
要するに、日本における「哀」には、「愛」「悲しみ」「日本的な情緒、即ち『しみじみ?』」が含まれていると推量されます。

具体的に考えてみると、桜を見て、その見た目の美しさに「愛」を感じますが、いずれ儚く散り行く様に春の終わり、「悲しみ」を覚えるのだと思います。しかし、それは同時に夏の到来、そしてまた次の年に来る春をも意味するのではないでしょうか。

そういった「季節的流動性」に、水のような「流れ」を意識する包括的な情緒、気持ち、そして最終的にそういった気持ちを意識出来る「自己」の美意識、自然への同一観、一体感などを「哀れ」と表したのだと考えます。

また、悲しみは英語の「sad」つまり涙を流したり、否定的な感情になったりなど、比較的生理的な意味合いが強いと思います。 
一方哀しみは、悲しみという感情に悲しみを引き起こした対象に対する哀れみ、愛情など、情緒的な意味合いが含まれていると思います。「悲」という言葉に「愛」を含んだのが「哀」でしょうか。

さらに、悲しみは自らの心に雨が降るようなもので、哀しみは降った雨が土に浸み、心の土壌となって花や木を育むようなものだと思います。つまり、悲しみによって哀しみを覚え、時間をかけてより人間的な成長が促されるのだと考えます。

ご教授の程、よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

”哀”という概念については、人の成長による感覚の変化が根底にあるのだと思います。





喜怒哀楽は、現実から生じる悩みや、その解決から生じていますが、

これを自分で解決したり、再現できない幼い頃は、

主観としての感情表現になります。

翻弄される時代ですね。

しかし、現実と向き合い、幻想を捨てて合理性を理解しだしますと、

気負わずに自在に手に入れられるようになり、

憧れを失うかわりに、実利を得ます。

全ての物事は手間により制御が可能であると知ったとき、

畏怖や恐怖、焦燥は無くなりますが、神秘も消えてしまいます。

しかし、例え合理によって作り出されたものでも、

幼い時に感じていた喜びや、実際的な良さは変わらないと知り、

心から良かったと感謝するようになります。


これらの考えが定着しますと、

翻弄されるよりも、制御しようとする自分が主体(=成長)と成ります。

しかし、あるとき、

芸術や文学に触れて、自分が幼かった時の感覚を思い出し、

その世界観を(嘘だと知っていても)素敵だと感じます。

こういうときに、思うことは、

物事を制御できても、その成果を味わう感覚が消えてしまったら、

全くの無駄であり、勿体無いということです。

苦労してでも、

翻弄されていた時代の感覚を呼び覚ましたいと思うわけです。

それが無ければ、全体で意味が薄れるという合理的な発想からです。


たまには失敗をし、悲しみや怒りを感じないと、

その感覚を生きている間に使い倒せないと、知るわけです。

ですのでこれらも制御をして、味わうようになります。

ところが無駄に失敗をすることも、無駄と感じて出来ませんから、

何らかの偶然や不注意により生じた事件を大事にして、

悲しさや怒り、解決できた喜びを味わいます。

つまり、これらも自分の機能の一つであり、忌むべきことではなく、

生きているうちに楽しまないと損であると言う考え方に変わります。


この様に成ると、本来の自分の感情は、楽しむという”楽”しかなく、

他の感覚は、意図して呼び起こしたり、他の人に共感する場合のみ

使用するものになるのです。


”悲しい”は主観としての表現です。

ですから、もっと客観的な感情、”哀しい”に変わります。


例えば、

自分の知る因果により結果が見えており、先に結果を知ってしまう。

しかし、それらを知らず未来を信じて活動する人々の様を見たとき、

未来との同時性により、哀しいと思うわけです。

また、思わぬ縁により哀しい未来を変えた人がいて、その喜ぶ姿を見て、

喜ばしいと感じます。

更に、既に知っている人の愚かさを聞き及び、

知っていはいるし、仕方のないことだと分りつつも、

許せないと言う感情が沸き起こったとき、怒りを感じるとなります。

怒るではありません。

総じて、主体としての感覚は”楽しい”しか残らなくなり、

その状態になれば、仏像の様に微笑んでいるでしょう。


愛と言うのは、これらの合理を得て、謎が少なくなり、神秘がなくなり、

欲求が減ってきても、

「では辞めようか?」

と問われたとき、躊躇無く、「それはない。」と答える強い核の様なものです。

哀と言葉が似ていても、違うものです。


合理は、存在する法則を探求し、利用するために使用する道具です。

しかし、そこに既にある物に対しては使用できません。

「だってそうなってるんだもん。」

と言うものは事実そのものであり、

事実から派生したもので説明することは出来ません。

順番が逆になるからです。


愛とは始めから存在する物です。


全ての生物、または自然界の天体であっても、

継続するという強い力が先にあります。

これに理由を求めると、謎が深まります。

疑問と言うのは、継続するためにはどうすれば良いのか?

と言う限定された目的にしか使用できないものであり、

自由に適用できるものではないのです。

何故、継続しないといけないのか? と言う疑問を持つためには、

もっと本来の目的となる継続対象が無いといけません。

xxを続けるために、○○を継続しないといけない。

と言う答えしかないからです。


人は翻弄されますと、「何かの継続が危ぶまれる」と直感し、

そのときに様々な感情が沸き起こり、悩みが生じます。

この感情を強く受け取ってしまい、付随物であるもの

(二次的に引き起こされる現象)愛として理解し、

付随物を追い続けて、本末転倒になることが多くあります。


例えば我が子と共にいて喜びを感じたとき、

これを愛だと思ったり、

仲間や恋人と時を同じくして、喜びを感じ、これを愛と思ったりします。


しかし、これでは喜びが薄れたときに、愛がなくなったと錯覚します。

悲しみが訪れたとき、愛がなくなったと錯覚します。

本来は、「では辞めるか?」と問うたとき、躊躇する僅かな核が愛なのです。


例えば、ハリーポッターを育てた叔父さん夫婦は、

目の悪いハリーにメガネを与え、

個室を与え、食事を与え、教育を与えています。

喜びが無くなり、悲しみと怒りを抱えて別れる恋人同士よりも、

ハリーを愛していた事になります。


体裁が悪いとか、辞めるほうが面倒だ?という気持ちから生じたものかもしれません。

しかし、ここに躊躇があり、「では辞めるか?」と言う問いに、

仕方なく継続を選択しています。

これが長期に続くものほど(継続が本質であるため)愛の強さであり、

我が子ではない(育てる理由にならない)ハリーを愛していたという証明になります。


可愛いと感じたり、好きだと感じる感情も、二次的なものです。

これを愛だと思ってしまえば、

憎らしいと感じたり、嫌いだと感じたら、容易に継続を断念するでしょう。


例えば、

嫌いあっている家族が、家族を半年続けて辞めてしまえば、愛が薄いでしょう。


しかし、

子供が大人に成るまで続けていたら、そこには愛があるのです。

愛とは、個々人がそのとき感じる意思や感情とは無縁であり、

主観が認知する以上に強い制約です。

本人の思考や感じ方・気持ちと言うのは、

継続に関しての不満や不安を指しているだけであり、

(既に継続が前提にあり、これがあるから生じる感覚である)

こちらを優先すると、因果が逆転しますから、不幸になるのも当然なのです。



継続を前提に、その不安要素を取り払うように頭脳を使うことを賢いといい、

一過性の物として扱って、他に逃げようという意思が働いたまま、

頭脳を使うとズルイと表現されます。


人の本当の知能は、前者のときしか向上せず、

全ての偉人(普通の人の日常もですが)は、継続を前提に考えをめぐらしており、

全ての犯罪者は、妨害や阻止、断念や回避、攻撃と逃走を前提に考えをめぐらしております。

ここにも愛の有無が違いとして存在しています。


そして、継続を断念する他人の姿に哀を感じ、継続を断念した過去に哀を感じるわけです。

自らが継続を断念する予感や不安から生じた悲しみとは別のものです。


例えば、自分や他人が持つ、嫉妬や劣等感、優越感、ねたみは全て、

「それほどまでに自らを継続したいのだね。

 それほどまでに、善を自ら成して、他人に喜ばれる姿を求めているのだね。」

と言う強い望みがあるわけですから、

その姿を見てショックを受けずに、落ち着いて考えると、

その姿の中に愛があることが分ります。


人はこれを知ることで、愛しいと感じます。

忌むべきものの様に感じられるのは、これらの本来の感情の使い方になれておらず、

愛から生じていると考える習慣が無いからです。

一方で、恨みや憎しみは、他人を滅して継続を断念させる意思があります。

つまり本来は愛であったのに、

望みが強すぎて苦しくなり、反転してしまったことになります。

八つ当たりですね。

これらは知識として知ってはいても、

やはり有っては成らないことと感じますから、

躊躇無く、滅すると考えるべきです。

この強い炎が本来の正しい怒りです。

しかし、当人が恨みを捨てて、泣き言をいい、嫉妬の気持ちに戻ったときは、

これを愛しいと感じて、助力をする。

これを愛するといいます。



悪しき感情であっても、愛であるものと、愛とは反対になったものでは大きく違い、

ここに線を引いて考えることが、愛(継続)に対して忠実であるとなります。


また、これらの線引きが出来ていませんと、合理性に欠ける行動が多くなり、

自らの消耗が激しくなり、自らの継続が困難になります。

愛とは自らの主観ではなく、根底にある法則であり、継続を指します。

主観を優先すると、それは愛ではありません。

気持ちを無視して継続をしていれば、そこには強い愛があるのです。


幼い時は、自らの継続が不安であり、他人が頼りです。

ですので、世話を焼いてくれるときの相手の表情や感情を覚え、

それを得られるように考えて、それを大事にしてしまいます。


しかし、大人に成れば世話を焼く側になるのですから、

気持ちや感情を大事にしすぎる必要は無く、その時代の後遺症か、郷愁であるとし、

あまり深追いをせずに、継続(=愛)にのみ強いプライドを持てば良いと思います。


ですが、

そうした感情を持てる今現在は、自分の”継続”が続いており、愛が続いています。

これは是非楽しんで、使い倒したいですね。


以上、ご参考に成れば。
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この回答へのお礼

ご教授ありがとうございます。私のつまらない疑問に、ここまで丁寧に説明していただき、とても感謝しております。
まるでお坊さんの説法を受けているようなありがたいお言葉をいただきました。

今の私では、頂いたお言葉の全体を理解するのは正直難しいように感じます。その代り、一部印象に残った部分の感想をお伝えしたいです。

・”悲しい”は主観としての表現です。

ですから、もっと客観的な感情、”哀しい”に変わります。


とてもわかりやすい説明、ありがとうございます。
古代日本人が、「哀(アイ)」という文字に、「哀しい(かなしい)」という読みを当てたのは、「悲しい(かなしい)」では表現しきれない上記のような「かなしい」という言葉が持つ形容があったからでしょうね。しかし、なぜ同時に「哀れ(あわれ)」という読みも残したのか。これも、「憐れ(あわれ)」では表現しきれない「あわれ」という言葉が持つ形容があったからだと推察出来ます。
一方で、「憐」という文字を用いて、なぜ「かなしい」という言葉を表現しなかったのか。なぜ「憐」ではなく「哀」を選び「哀しい(かなしい)」という表現にしたのか。やはりそこには「哀」という文字が「愛」と同音異義であるが故に選んだのか。
また、「愛」という文字を用いて、「愛しい(かなしい)」と表現する場合もあるようです。
言葉は深いです。

ありがとうございました。

お礼日時:2016/09/28 00:06

No.1のものです。

しつこい様に思われなければと心配しつつコメントします。

No.2へのお礼の解釈には賛同するのですが、

それをもっとしっかりと捉えたいと思ったわけです。

さきほど、書いた文章が4000文字を超えてしまい、長文過ぎるので辞めました。


機械的であったり、生理的であるとして、それを無価値に捉えるのは不遜であると

言うお話です。


植物に愛が通じると主張する人がいます。

また、虫が人と駆け引きをしたり、人間に良く似た行動をとります。

実は、人の脳は、何かを複製する能力しかなく、新しいことを考え出す能力が無い

仕組みであるという事がわかってきています。


細胞と言う次元で一人の人間と同じ全ての能力が備わっており、

(言葉も話しますし、構造の中には内臓まであります)

同じように日常を過ごしており、悩んでいると考えないと、説明がつかなくなります。

長文のほうでは、これらを説明を記述しましたが、ここでは割愛します。


例えば、コンピュータのネットワークを作り、人間の日々の活動や会話を録音し、

人間と同じ入出力をする巨大な装置を作ろうとしたとします。

人の脳は、脊椎からの巨大な神経で学習し続ける、この様な装置と似ています。


このコンピュータの欠陥は、人間以上の発想が出来ないことです。

同じ仕組みをコピーする仕組みでしか無いからです。

しかも、人のすべてを捉えて複製しても、

コンソール(表示画面)に出ている部分は、ほんの一部でしょう。

このコンピューターが人の能力を全て写し取ったか心配なところですし、

そのうえで、一部を表示しているだけですから、

学習したもの全てですら活かしていません。


私たちが自覚する意識は、この表示画面です。

人間の成長とは、何時も見ているフォルダを移動して、

別のフォルダを空けただけにすぎず、

体内で活動する細胞の全ての能力を見たわけではありません。


コンピューターネットワークが自分を主と自覚しても、

もとの経緯から考えると、

その考えから派生したものは全て不遜であり、愚かとなります。

コンピューターが人間より自分を高級な物として論戦を貼る姿は愚かでしょう。



しかし、コンピューターは、人よりも早く処理が出来ます。

こうした利点では優れています。


私たち脳は、細胞に対して同じ位置づけにあり、

そこから生まれた自意識も同様なんです。

人が教えるから、コンピューターは人に似せられます。

同じように、細胞が教えるから、脳は細胞に似せられるんです。

私たちの体内には、50兆を超える、人とほぼ同じ感情と気持ちを持つ生き物が

生活をしており、これらを真似て、脳は発想をしています。


彼ら(私たちのオリジナルである細胞)は多分、

私たち自意識の存在を関知はしても、見ることが出来ません。

これらが神と言う概念なんでしょう。


50兆と言う数は、1万の地球を指すほどの人口です。

銀河に広がる大帝国をイメージしてください。

私たち一人一人は、それを統べる絶対的な神でしょう。


この神が、神同士の関係に悩み民が死ぬことを知っていながら、

それを仕方ないとして自らの心の整理のために、気晴らしのために犠牲に

無益な活動に従事を強制したり、


となりの銀河に恋をして、

自らの銀河に住む全ての人々に無理な活動を求めたり、

愛している隣の銀河が滅亡したのを悲しんで、

全ての民に自決を求めたらどうでしょうか?


これ以上の邪神はいないですよね。

まともな神であるならば、お隣の銀河について支援を呼びかけ、

無理をさせないはずですし、

お隣の銀河が滅亡したら、哀しんで、自らの戒めとして教えるでしょう。


また、民が疲弊して神の気晴らしに付き合った後、

その神が他の銀河の神に向けて、

「(実際は民が我慢をしたのに)

 自分がこんなに辛いことを我慢したのに、何で報われない?」

などと言えば、今度は民が絶望して自決をすると思います。

そうであるのに、

「自分の不摂生がたたって、病気に掛かり、

 (民が大量に死んだ)のはわかる。

 自分が悪いと分っているけど、自分だけそうなるのは酷いじゃないか。

 なんで私の体(民)は弱いのだろう?

 平気そうな銀河も他にあるんだ。ウヤラマシイ。

 私にだって、神なみの幸せを得る権利があるはずだ。

 ああ、生まれ変わったら、今度は役に立つ民に恵まれたい。」

こんな考えを持てば、民が怒るでしょう。


それを訴えたとき、

「何を言ってるの、民は自分のものだし。

 どう扱おうと私のかってでしょ。

 損をしているのは私なんだし。かわいそうなのは私だよ。」

と言えば、どれだけ神が民を馬鹿にしているのかわかります。


実際は、脳は細胞が持つ全てを再現しているだけでして、優れていません。

ましてや体が自分のものであるはずなどではありませんよ。


自分よりも優れた人格を持つ小さな同胞が、

自分の振る舞いを観察しており、

それに我慢をしていると発想したことが無ければ、

この方は人として成長しているはずがないでしょう。


私たちは、外見から、細胞を侮っており、証拠も無く自分を上だとしています。

しかし、物理的には、複製には原本が無ければ成らず、

そのうえで、私たちの意識は、劣化して複製されているのです。

脳の大きさが人間並みになって、始めて再現が出来つつあるのであり、

人間に知性が芽生えたのは、単に再現品質が実用レベルに達しただけです。


ですので、智慧や愛と言う概念は、細胞が持っており、

自ら発見するものではありません。

生理的な現象と外界との類似点を見つける行為が原典への回帰です。


人が人に対してする行動や発想を、

細胞と言う無数の人格者が自分を監視する中で、

良き神として判断しているか?

と捉えてみれば、

「50兆の民に負担を書ける理由がそれですか?」

と質問されて答えられないはずです。


これに該当するものは、自己愛であり、愛の本質ではないでしょう。

人々の関係をロマンティックに論じて、

民に負担をかけていても、悪気が無かったと言うボンボンがいたら、

その神は自分の成長を自分で論じるより先に、

民に既に判断をされているはずです。


これらを恐れて自らを戒めて、人間社会での行動を勘案すれば、

娘を守ろうとして、悪人と戦う行為は、

隣の国が危険なので、戦争をしようと呼びかける神程度に、成長した神であり、

これを望む民は被虐的です。


神が隣の銀河を愛しているので、

自らの銀河は自決を覚悟で戦わなければいけないと、

自らの銀河の民を説得したら? (いそうですが)良い神なのか?

この行為を尊いとして自画自賛していたらどうでしょう。

「そりゃ、私たちが生き物じゃなかったら、神さんは立派ですが。

 私たちは、人間扱いじゃないんですね。貴方自らがそう思うんですよねえ。

 立派って言わないと、私たちのこと罰するんでしょうね。」

と解釈されますよね。


これがあんまり続けば造反もおきるでしょう。

どんなにやりたいと思っても、やる気が起きなかったり、

ぼーっとして体が動かなくなるでしょう。

神が何を言っても無視される国になるはずです。


さて、体は自分のものですか?

心の成長のために犠牲にしても良いものでしょうか?

自らの心の成長のために、民の犠牲が必要だと、民に相談せず判断する神に

なっていませんでしょうか?


民からすれば、犠牲の無い範囲では喜ばしく、

余計なことをしてくれないほうが助かるわけです。


自分が立派だと思える行為も、それは体の中の細胞をゴミみたいに思って、

自分で勝手に犠牲にして良いという判断が先にありませんか?

銀河を統べる神皇帝としての政治としてみると、

かなり酷いもんだと言う物かもしれませんよ。


愛というのは、また別の概念だと思いますが、

人間の社会においても、人間しかいない関係での判断に、

細胞にも人格があり、50兆の銀河の民がいると想定に加え、

自分が代表者だとして、

政治として社会に参加する緊張感があれば、

その行動すべてが愛に満ちているはずです。



継続を続ける衝動と言いましたが、

実際には、細胞一つ一つは無垢であり、必死に生きようとしています。

この衝動でしょう。

ここに価値が無いという人は、どんなに物事を難しくしても、

自らを構成する細胞からは、滅亡を望まれるはずです。

ここには愛がありません。


ということで、

細胞一つ一つが人間並みの命の重みを持っていると受けいれられれば、

判断がつくのではないでしょうか。

どうしても、細胞の格を消耗品として扱いたい、

そこを尊重すると王様として都合が悪い、

自分としては我侭が出来なくなるので、嫌だと感じてしまったら、

まずはその気持ちを持つ今の自分が、

そういう成長度合いなのだとするのが宜しいでしょう。


細胞が芸術を喜ぶかどうかは自明ですから、

それは自分の楽しみでしょう。

これは、ほどほどが良いとわかりますし、

没頭したら、まずは民に謝ることから始めるのが筋であると私は思っています。



以上、ご参考になれば。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
お礼が遅くなりました。

お礼日時:2016/10/03 21:40

No.1のものです。

丁寧なお礼有難うございました。

少し分り辛かったでしょうか。

例えとしてのはなしです。

”愛”と言うものを「継続する衝動」と捉えてみたらどうか?

と言う発想です。


物は試し、こちらで少し考えて見ます。

継続する衝動が愛の本質であり、答えであるとすると、

質問者様がどちらの衝動を持つ(継続か、中断か)が大事に成ります。

何故、哀という言葉にひかれるのか?

その理由により答えが違うとなりますよね。


例えば、

「過去の人も何となく言及している。

 哀は愛だよね?

 哀っていうのは悲しいって事だから、本当は愛って悲しいこと辛いことなんだよ。

 色んな人が素敵なものだと思い込んでるよね。

 これは馬鹿だと思う。

 だって、人間がもっとも求めるものが愛であって、実はこれが悲しみなんだとしたら、

 もうそれ以上が無いってことだよ。

 だから焦って無理をする必要はないって事がいいたいの。

 頑張っても無駄なんだよ。

 だから、貴方も、もう辞めよう。

 私も辞めるから。」

と言う気持ちで語っていれば、これは先ほどの定義から愛ではないですよね。

その逆に、

「悲しいことがあっても、哀しいと人は昇華していける。

 例え字のうえでも悲しみで終わることを認めまいとしていたってことでしょ?

 凄い覇気だと思う。

 ”悲しい”で終わらせまいとした願いを皆が持っていたってこと。

 わたし、これに気がついてしまったんです。

 この願いの強さ。この涙苦しい、そして切ないくらいの理想を望む衝動。

 なんか、すごくジーンと来ました。

 どんなに辛いことも、

 そんな風に変えていける力が人には最初からあって、

 それが昔からそうであるなら、

 それがずっと続いていたんだと思ったときから、

 感動が消えないんです。

 私たちには、こういう衝動が眠っている。

 だからこそ、素晴らしいんじゃないのかな?

 悲観的に考える人は、私たちが素敵な存在であると思えてないだけ。

 思えてないだけならば、何時でも成り変れるんだよね。

 皆がそんな力を持っているのだとしたら、

 本当は最初からずっと素敵な世界だったんじゃない?

 だから、あきらめないで続けようよ。

 結果がどうとかじゃないよ。悲しいで終わらせるもんかって気持ち。

 私は、これが儚くて美しいと思えて仕方ないんですよ。」

と言っているならば、それは愛ですよね。


ですので、愛が哀であるという真偽に本質があるのではなく、

それを唱えている人が目指している衝動がどちらであるのか?

どちらの相を帯びて発言しているのか?

こちらが重要であり、

他のモノを題材にしても、やはり同じ概念を語るのではないかと思いますよ。



継続を目指して求めているのならば、その人は既に愛を帯びており、

愛を知っているとなります。

改めて言葉から探す事はしないでも、

誰もが喜ばしいと感じるのではないでしょうか。


しかし、二つの例があるとおり、

同じ事を言っていても、論法を変えて、中断を望んで誰かを説得できます。

こちらの相を帯びていれば、それは愛を帯びておりませんよね。



こう考えれば、継続を望む衝動を愛を言い換えて具体化すれば、

百万の嘘に騙されず、色んなものから愛を探し出すことが出来るのではないかと。

「で、最後はどっちを言いたいの?」

とすれば言い訳です。


逆に、

「色々と言ったけど、つまり私は継続を望んで、自分や他人を勇気付けたい。

 ああ、愛として定義にあってるかも。よし、今の自分は大丈夫だ。」

と自己チェックも出来ます。


そして、更に言うならば、

どっちもやった経験がありませんか?

中断を望んで理屈をこねたときもあるんではないでしょうか。

今、愛を帯びていても、すぐ変わると言う感じがしますよね。

不安定です。

漠然としたまま、良い物としていては、中々安定しません。

感銘を受けた時の気持ちを再現するために、格言を使っているひともいます。

それでも感覚は逃げていくものです。

こうしたとき、ちょっと焦りませんか?

ですので表現を変えて、具体化が必要でしょう。

例えば、こんなケースでも是非が迷わずにわかります。

・娘を傷つけられて、娘を庇って悪人と闘う父親の愛はどう評価すべきか?

継続を望む衝動が愛であるなら、

・父親は娘を愛している
・父親は自分の危険を忘れているので、自分を愛していない(このときは)
・父親は悪人を滅しようとしており、悪人を愛していない(このときは)

3人の人間がおり、一人を愛して二人を愛していないため、

一般の人より愛が少ないとなり、

この関係の中には、継続を望む衝動が、日常より希薄と成ります。

つまり、崩壊しやすく、不運に見舞われるはずです。

悪人が父親を恐れて逃走したら? これをどう解釈すべきでしょうか。

・悪人は娘を害しようとしたので愛していない。
・父親の存続を許したので、父親を愛している。
・自分の存続を望んだので、自分を愛している。

となりますから、この悪人のほうが父親より愛が多いんですよ。

このあとこの悪人が、逆恨みをして、父親への害意で行動したら?

・娘を愛していない
・父親を愛していない
・自分を愛していない

となり、間違いなくこの人が一番愛が少なくなり、存続が怪しくなります。

しかし、「あー、こわかった。馬鹿だな俺。飯でも食おう。」となれば、

・娘を愛していない
・父親を愛している
・自分を愛している

となり、先に自滅するのは父親であり、次に悪人と成ります。


感情が自分を制御できなくしたときは、

頭で考えるしかありません。

多くの存続が約束される選択(例え選べるものが少なくても)

愛が多いモノを選び続けることです。

愛が継続の衝動であるならば、

自分の周囲には自分を継続させる衝動が、再度満ちてくるはずです。


また、嫌な気分になっているという事は、

その場所(温度や音、空気)などに有害なものが多いだけかもしれません。

肉体が心地よいと感じるとき、存続しやすいという事であり、

そこに愛が満ちているとなります。



飢えており、寒いとき、悲しいですが、

飢えを満たし、体を暖かくした人は、悲しんでいる人を見て哀しむでしょう。

私たちは、こうしたことが間違いなく起り得るという智慧をもっており、

積極的に自分の面倒を見て、

悲しいと翻弄されるよりは、哀しいと感じるように誘わないといけません。


日常にある失敗や成功を、良いこと悪いことで捉えてしまうと、

良いことであっても愛が少ない、

悪いことであっても愛が多い、

と言う事例には対処できなくなります。

愛が多いほうが存在確率が高まりますから、結果としてすぐに現れます。


また、

恋愛を愛として捉える人も、本来の愛を満たせなければ、自滅をします。

好きであるが、愛が少ない。

嫌いであるが、愛が多い。

と言うケースには対処できません。


良いこと悪いこと、さらに強い弱い、これに付随する勇気と言う概念は、

古代の発想であり、これを用いている間は、人類は滅びを続けていました。

キリストが、哺乳類の子育て本能を強化し、

愛と言う新しい概念を育て、人類全体に感染させようと試みた後は、

人は愛を用いて物事を判断するようになり、繁栄の道を選べるようになったんです。



この愛を不思議と思い、神秘にしたててしまいますと、その恩恵を得られません。

「継続を促す衝動」

と捉え、

愛に見せかけたもの(自己犠牲)に惑わされず、

悪に見える愛(結果的な安全や損失の防止)も拾って満たすべきです。



正直モノが馬鹿を見ると良く言います。

しかし、正直であっても継続に繋がらない場合は、愛が少ないのです。

西暦の時代(皆がこぞって愛を活用する時代)では、競争力に欠けてしまいますから、

生存できなくなるのは仕方がありません。


ハリーポッターの話を出しましたが、

オジサンの家にいて居心地が悪いハリーは、

継続を断念しましたから、愛が少ないとなります。


しかし、別の愛を得て、前より逞しくなりました。

その中で、危険を顧みなかったりした部分は愛が少ないとなり未熟であり、

それでも諦めなかった部分では、愛が多く、結果が伴うとなります。

継続と言う概念だけで是非を機械的に判断するとこうなりますよね。


しかし一方で、別のハリーがいた未来を想像します。

ハリーが自分を養う叔父夫婦の経済状態を心配し続け、

配慮をし、特に健康を気遣っていたら、叔父夫婦は愛に撃たれたでしょう。

叔父夫婦との会話を継続し続け、帰省も続け、学校生活も満喫し、

悪と戦いながら身を守り、他を守り、勇気付け続けていたら、

より多くの愛が満ちたと思います。


普通の人は、そうそう理想的に行動できません。

だからこそ、物語にハラハラし、イッキイチウするんでしょう。

しかし、例え物語であっても、

継続をイメージする行動には愛を感じ、

その逆には愛を感じません。



愛とはこの様な法則に近い(イメージの)存在なのではないでしょうか?

エッセンスだけを抜き出すと、

「愛とは継続を促し望む理由の無い衝動である。」

とできませんか?


と言う趣旨のお話でした。

一時、楽しんでいただければ幸いです。


以上、ご参考に成れば。
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この回答へのお礼

仕事などで忙しく、お礼が遅くなってしまいました。申し訳ありません。

・悲しいことがあっても、哀しいと人は昇華していける。

・愛とは継続を促し望む理由の無い衝動である。


なるほど、大変分かりやすい表現ありがとうございました。
つまり、例えばある人が誰かに恋をしたとします。特定の人に愛を感じていていましたが、相手に既に彼氏がいたり、告白しても振られたりする場合も考えられます。いわゆる失恋というものですね。
しかし、失恋しても、場合によっては相手を思い慕う気持ちというのは残ります。思いが叶わなかった分、暴力的な衝動性は強くなるでしょう。衝動が悪い方向に向かえばストーカーや、自傷行為などになってしまいます。
しかし、人間はやはり賢い動物です。強い衝動を上手く操り、それを芸術や学習にまで昇華させる場合もあります。
また、失恋がきっかけで自らを見つめ直し、場合によっては反省し、より魅力的な人間になる事も考えられます。
特定の人に向かっていた思い慕う気持ちが、ベクトルの方向を変えて他の対象や自分に向かうと、それは愛が継続している、という事でしょうね。
日本人が失恋や倫理的に許されぬ愛(不倫など)の歌が好きだったり、いわゆる純文学という作品に不倫やドロドロした人間関係が多かったりするのも、思い慕う気持ちを昇華したいという気持ちが強くなり、そして出来上がった作品という事ですかね。

ありがとうございます(^-^

お礼日時:2016/10/01 23:04

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