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時代劇や絵巻物などでは街中で三味線を弾く芸者さんがいますよね。
一方、東北地方では三味線は見下される立場の人たち専用の楽器であって、そこで生まれたのは津軽三味線…。
しかし「津軽三味線の誕生」という本では仁太坊は流れの女性三味線弾きから教わっています。

ここで質問なのですが、当時の三味線は東海~関東と東北では立ち位置が違ったのでしょうか?
というか実際違うと思うのですが、なぜそうなったのでしょうか?
三味線の社会的立ち位置の歴史について参考になる文献などもあればご教授願いたいです。

A 回答 (1件)

>東北地方では三味線は見下される立場の人たち専用の楽器



そんなことは聞いたことがないのですが、
なにか文献があるのでしょうか?

盲目の人たちが三味線を覚えたのは、一般的に三味線という楽器やその音色に
人気があったため、その芸を覚えれば盲目でも生活ができるからということでしょう?
またそれは必ずしも東北に限らず日本各地にいました。いわゆる旅芸人として、主に農村地区を回っていたようです。都会には芸者がいたり音曲の小屋があって三味線の音色を楽しめますが、田舎にはないので数少ない娯楽として旅芸人は歓迎されたようです。
ですから、三味線の立ち位置が地域によって異なるわけではなく、その音色の提供者が異なるだけだと思うのですが…。
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この回答へのお礼

津軽三味線を研究し出版されている唯一の本である「津軽三味線の誕生」という本によれば一般人は弾いちゃいけないくらいの風潮のある楽器で、それが一般人でも弾けるようになったのは仁太坊の人気が出てきてからなのだそうです。
それでようやく盲人でない一般人が初めて仁太坊などに弟子入りするようになったのだとか。

ただし小説スタイルで書かれており、他にまともな文献が本当にないので信憑性がどこまで高いのかは不明です。
他の地域についても触れられておりません。
そもそも仁太坊自体流れの盲人でない女性三味線弾きに教わったとも書かれております。

>盲目の人たちが三味線を覚えたのは~
これについては、当時の盲人の生きる糧は三味線芸(障子に隠れての動物の真似などを含み、演奏だけに限らず)、指圧、お祭りでの盲人同士の相撲などであり、覚えればというよりも覚えねば生きていけないからというのもあったのだとか。
そして必然的に盲人の結婚相手はイタコに限られていたのだとか。
生きる為の必須の芸である事は後の竹山辺りの時代でもそうでして、竹山自身自伝で「弾かないと生きていけないから弾いていただけ」と語っています。

お礼日時:2017/05/02 05:22

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