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自分の絵は上手い!と思うのと、下手だと思って絵を練習するのはどちらが上達すると思いますか?

A 回答 (10件)

そんなこと考えずに


絵を描くことを楽しんだほうが上達すると思います
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画家のほとんどが、売れると思い死ぬまで頑張ります。

その後世界的評価が高く成る事がほとんどですね。ポールゴーギャンもかな?
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習字は上手いと思ったらお終いだ、というけどね。

絵もそうじゃないの?
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絵というよりはデッサンだけで言えば、ケチョンケチョンにけなされたほうが上達すると思います。


それで凹んで戻らないならば、その時には本格的な製作は出来ないと思ったほうがいい。

だからね?これ「一人じゃ無理」ってことも言ってるんだけどね。
ひとりで上手いとか下手だとか、そんなの意味ない。
上達以前の問題だ。
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どちらでも有りません。

敢えて言えば上手くなりたいと言う強い思いで練習する事です。芸術の世界はこれで満足と言う境地には一生涯掛かっても到達出来ないと言います。『眼前に山ありその向こうにまた山ありそのまた向こうにまた山あり』絵画の世界の到達出来ない難しさを表す言葉だそうです。
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自分の絵が「下手だ」と思いながら描いても、自信喪失するだけ。


「上手い」と思って練習しても良いと思います。
但し、今描いた絵が自分の「これ以上は無い最高傑作」と満足しない事。
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上手いと思ってもまだ先がある



下手なら下手でまだ先がある

どちらにしても、まだ先があると思った人の方が
上達するでしょう
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どちらでもないという意見に、私は異を唱えますね。


自己評価でも勘違いでもいいのですが、「自分は上手い」という意識がないと、絵なんてなかなか続けられませんよ。ただでさえ絵1つ完成させることは大変なことなのに、仕事のように「自分を生かしてくれる」というモチベーションでもあるなら別ですが、絵なんて殆ど生産性や利回りは悪くお金にならないです。そこで、絵や表現物への関心・情熱や、「私は上手い」「自分にしか出来ないことがある」といった思い込みが、大きなモチベーションになってきます。
「下手」だなんて思ったらそこで終わりです。「自分がこんな大変なことをあえてしなくても、他に上手い人なんてたくさんいるよね」という結論の中にどんどん埋没していってしまいます。しかもその「上手い人」達でさえ大してお金になってなかったりするのです。

どんなに自分が「上手い」と思っている作家でも、「最高に満足したから終わる」ということはまずありません。絵というのは「これが完璧」等と作者自身も判断出来ない性質のものですし、例え幸い自分の思う完璧に近い作品が出来たとしても、それはそれ。それとは別にいくらでも表現すべきものはあるのです。優れた作家ほど、その自分の才能を使って出来ることをたくさん持っているということもあると思います。
人類にとって「表現」というのは「終わりが無い」のです。

「自分の絵は上手い!と思うこと」は、絵を続ける上での最低条件です。続けないことには上達もしませんからね。
「下手だと思う」必要なんてありません。絵を描いている限り満足出来ない点は何かと出てきます。出てこなくなったら「絵描き」としての本当の終わりだと思います。
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http://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq00 …

絵を描く事が苦痛だけであれば、続きませんよ。

絵は芸術なので、どういう絵を上手いと思うかどうかは本人次第です。

こういう絵が描けたら嬉しいなと思って描いていくと、
だんだん自分の望む絵が描けるようになるのではないでしょうか。
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上達を目指すには、無駄な練習をして自分の心を折らないことです。



現状、練習をして日々自分が向上しているように感じているなら、

その様な質問はしないでしょう。


効果が上がらない練習をしていませんか?

段階を踏むことです。


絵を描き始めた初心者ならば、心の問題より、技術や理論の問題が先にあるはずです。

これらは一日程度学べば理解できます。

これらを上手に使うために練習が必要なんです。

この段階では、自分にはテーマがありますし、昔と違うという自信があるでしょう。


しかし、絵心が全く無い初心者の場合はここも早すぎます。

まずは、自分が好きだと思う絵を探すことです。

そこに共通しているものを、モチーフ(対象)、明るさ、色合いで識別してください。

これらはジャンルに成っています。

絵が上手いという人であっても、得意不得意があるんです。

私の父は美術の先生をしていましたが、

晩年になっても人物(モチーフが人物というジャンルがある)は苦手でした。

色に関しては、緑に対して感度が高く、その他はそうでもなかったでね。

明るさでは、コントラストが強い(強弱が強い)ものはかけませんでした。

そのせいで、私もそうなりました。


私がアニメや漫画の模写をしていると、

「それはイラストだな。イラストはやり方が全く違うから分らないんだよな。」

と何度も、自分は教えられないと、釈明していました。

其の他、水墨画もわからないと言っていました。

これらのジャンルには、技法があります。


そして、その前に自分が好きだと思う理由(目指すところ)があるんです。

一番最初は、

「自分の手で描くことが出来たら、不自由じゃないのに。」

と言う気持ちが大切です。

このためには、明確に見たいものが定まっていないといけません。

芸術は元々が日常で利用される素材でした。

絵の場合も、肖像画や壁絵などのお仕事が主流だったはずです。

ポスターとしての活用が認められたのは、ロートレック以降じゃないでしょうか。


Wikiに紹介されている絵を見れば、(他の油絵などと比較して)、

みなさんがCG(デジタルイラスト)などで馴染みがあるものに近いはずです。

さてこの中でも自分が良いと思うものは決まるはずです。

そうやって自分の好みを知っていくことが大事です。


また、芸術であるからそう簡単には出来ないとか、

好きであれば良いという意見には賛同しかねます。

芸術のジャンルに取り組んでいるからと言って、芸術を目指しているわけじゃありません。

その技法を使っているだけであり、芸術家では有りません。

うちの父が明確にここを分けておりました。

当時は、「芸術家ってなんか凄そう・・命かけるほどなんだ。」くらいに思っており、

大衆的な物と芸術の違いについて分っておりませんでした。


彼は、大衆向けの技法を使って評価されている人を上手いといっていました。

芸術域を目指している絵に関しては、「絵」と読んでいました。

結局これらの違いが何にあるかと言いますと、見たいものの違いです。

大人として見たいものの中には、幼少の頃の視覚、世界の見え方、その鮮度があります。

物心がつくと、目で見たモノをそのまま認知せず、過去の視覚記憶の断片で構成し、

実際に見たように思い込ませる(そのほうが脳は楽であるから)ようになるそうです。

そのため、見間違えが生じます。

認知が先に起きてしまい、認知にあわせて、自分の想像力で視覚情報を作り出してしまうんです。

私たちは二度と、幼少の頃の様な視覚を得られません。


しかし、稀にこの見え方を記憶している人がいます。

彼らが一生懸命技術を磨き、その見え方を絵として固定化してくれるんです。

「ああ、そういえば、こういう見え方をしていた。懐かしい。もっともっと。」

これが画家が芸術家と呼ばれる理由です。

音楽についても同様です。

芸術分野は技法の進歩、それらを学ぶ人の進歩、道具の進歩により、発展してしまい、

その役割が絞り込まれていると言う事です。


何がしかのジャンル、芸術でも同じですが、

そこに取り組んでいた歴史上の人物、

それらを蔑ろにして、上達を目指すのは虫が良いと言う事です。

彼らを上手いとか偉人であるとせず、その時代のオタクであり、仲間として捉えます。

「人生潰すほど好きだったんだねえ。」

「いやいや、仕事もしてたよ。肖像画の依頼もきたことがあるんだよ。」

こんな話があったはずです。

ここには上手いも下手も無く、

「自分の見たい物は、自分に注文した方が早い。」

と思った人が、

「とはいえ、どうやって描くんだ。実際問題、俺が描いた、これは見たくないなあ。

 でも好みはここなんだ。

 もうちょっと、共通したことが足りない。

 そこくらいは、勉強するか。」

と、好みの対象をより深く味わうために、仕方なく学ぶというのが正しいのです。


音楽やイラストが物語を求めるのは、自分の見たいものが枯渇するためです。

「ちょっと休憩。誰かのイマジネーションが欲しい。」

見たい欲求の枯渇。

この苦しさが芸術の苦しさであり、技法習得の練習が苦しいのではありません。

また、基礎を躍起になって自慢する事でもありません。

上手かろうが下手であろうが、

基礎があろうと無かろうと、

良くあるパターンで素人を誤魔化そうとしていようと、無かろうと、

「あんた、自分が見たい物を描いてないだろ?」

とばれる事があります。

その場合は、「習作」として扱い、絵としては扱いません。



好きであろうと、嫌いであろうと、

上手いと思って自信をもとうと、下手だと思っていようと、

全く無関係であり、絵そのものを描いておりません。


本当に自分が見たいものは誰も描いてくれませんし、描けないはずです。

もっとも有効な手段は、

「こんな絵が見たいと思って、私は描いてみたんだ。

 誰か、これを見て、もっと描いてくれ。

 一人の生産量じゃ限界がある。私は満足できない。」

とするしかないです。

その最初の一歩は、自分でやるしかない。

ココを乗り越えて、誰かが賛同してくれれば、後は楽に成ります。


実際に、画廊やイラストサイトでは、その様な願いで絵が展示されています。

これを見て、

「俺も良いと思った。俺も描くから。」

と人が参加するようになって来ました。


ココまでは良いのですが、

「え、これが俺の絵なの? 泣きたい。 こんなだとは知らなかった。」

とか、

「俺、結構うまくなったんじゃないかと思った。自分がどの程度かわからなくなった。

 誰かに教えて欲しい。」

とか、

「人の批判でへこんでしまった。誉めて伸ばしてほしい。」

とか、

余計な思いや苦しみが混ざるようになるんです。

人に見せるに当たって、充分な技能が身についていないのですから、当たり前です。

これで落ち込むのは、そもそも自分に我慢が足りず、賢くなかったと言う事でしょう。

そうした気持ちはさっさと忘れて、

何に感化されて、自分が見たいものが生じたのか?

横道にそれず、その一枚だけを描くことです。

「どんなモチーフでも描ける画力が欲しい。」

と言うのは望みすぎです。過去にそんな画家が居たとは思えません。

「このキャラだけは、色んな確度から見たい。」

これがとても大事です。

そして、みんなで持ち寄って、自分を満たすのであり、

そのために絵は他人にも見せられる様に出来ているんです。



絵が上手になりたいという気持ちは、

世界中のお金を手に入れたいという気持ちと似ています。

とても良くあるので、普通だと思っているかもしれませんが、とても傲慢です。

「ほんの少しでも、お金が欲しいんだ。」

と言っても、誰も賛同しません。

「小さくても、自分の車が欲しいんだ。何とか金を作れないだろうか。」

と言うのならば助言が出来ます。


誰かの助言をもらうときは、

自分が好きなシーン、見たいもの、グッと来る部分をちゃんと説明して、共感を得ること。

その上で、自分の現段階の絵を見せて、どういった技法を使うと良いかクールに聞くこと。

更に、その使い方の練習方法を聞くこと。

そして、その習作を見せること。

「これをあれに入れてみた。前よりもグッときてます。」

自分の力量について、見たいモノを作り出すという目的を抜きにして、

評価をしてはいけません。

見たい物への執着が弱まります。

「んーん。あれを描ききるには、まだまだ無謀じゃないか?」

と言う話であれば、落ち込みませんよ。

共感を集めることです。

その過程で多くの人の知恵を集める。

別の人の好みを知る。サービスをしあう。


最近ですが、

老齢の父に、昨今流行のCGで作ったダンス動画を見せました。

「これは綺麗だなあ。」

と言ってうっとりとしていました。

死ぬ前にいいモノを見せてあげたかったんです。


絵が上手いとか下手とか、いったい何を言っているのか?

いったい何に使うのか?

私には分りません。


見たいモノを増やしていく。それが芸術域の練習であり、

「美味いもんを食いたいから」

と言う気持ちをなくしてはいけません。

料理の腕が上手いと思って練習をするのと、

料理が下手だと思って練習をするのと、

どっちが上達しますか?

どちらも関係ないでしょう。


以上、ご参考になれば。
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