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最近、肯定ペンギンの赤ちゃんと言うキャラクターがスマッシュヒットしています。
曰く、癒されるとか、救われるとか。

お昼寝したの?えらい!
ご飯食べたの?えらい!
出勤したの?はなまる!

こんな感じで、コウペンちゃんは些細な事でも肯定してくれます。
肯定されたい人が少なくないのでヒットしていると思うのですが、裏を見れば当然、いつも否定されている、否定していると思われます。
一体何が否定され、何を否定しているのでしょうか。
ざっくばらんでいいので考察などいただけると嬉しいです。

「肯定と否定と」の質問画像

質問者からの補足コメント

  • 問いを書いてる内に問う事が二つに分岐してしまったため、前の問いを削除して問うことを一つにし、投稿し直しました。
    しかし前の問いを考えてくださっていたことありがたく思います。ゆっくり拝読させていただきますね。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/07/17 17:40
  • この質問には前身がありまして、数時間ほど掲載していました。今回の質問にはないことにも触れていたので補足します。
    それは、日本のカワイイ文化と世の中の背景との関係を問うた点でした。日本人は子供に甘いと聞いた事もあります。ただ幼児性を残したまま大人になった面があるとも見れます。これらのことについて、若干の考察などをいただきたいと言う主旨の質問でした。
    2番様の回答はそう言う前回質問に応えてくださったものです。

      補足日時:2017/07/17 18:18

  • タイのCM、ありました。

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/07/18 00:13
  • 文字数足らず、ここでお礼させていただきます。
    はるばる遠くから、ご回答ありがとうございます。
    また、ご回答いただいた皆様にもここで改めてお礼申し上げます。ありがとうございます。
    この質問はいつ締め切るか決めておりません。またありましたら、どうぞお気軽にご回答よろしくお願いします。

    No.10の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/07/19 09:38

A 回答 (13件中1~10件)

言いにくいことをズバズバ言わねばならないようですが…



近頃の子供たちの「肯定」は、昭和の子育てを程度の悪いものとし、「我々は上質の
子育てをしている」という自己満足が前提の一つになっているという不自然さが存在
すると考えています。
これが、否定の始まりで、子に対する純粋な愛情の中に親の欲望が入っているだろう
ということです。
昭和の「教育ママゴン」も同じだったと思います。

また、保育園・小中学校でも「肯定教育」が基本であると思いますが、大人たちは子供
に対し「腫れ物に触るように」接しているだろうと思います。
これも、やんわりとした否定と言えると考えています。そして、イジメという否定が
あります。

街の中で人間ウォッチをしますと、大人が子供に話しかけるというごく自然な行為がまず
見られないのです。
横断歩道で子供が待っていたら車は止まります(昔は止まりませんでしたが)。子供を大事
にしようという雰囲気は感じられます。けれど皆近づこうとしません。
私も特に近づこうとしません。何かあったら嫌ですし、あまりかわいいとも思いませんし
(笑)。
これは、結構な否定じゃないでしょうか?

そんな子供たちが受験・就職という敗者には完全否定という経験をせねばならないし、よ
しんば勝者の中に入っても、冷たい世の中で「否定感」を感じないで生きることは稀だと
思います。

このことは昔から同じなのですが、子育てに厳しさがないので免疫が弱いだろうというこ
とと、人間の人間に対する愛情が弱くなっているという問題があると思います、これは実
感ですね。
ですから、知らず知らずのうちに世間からの「否定感」を心の中に蓄積させて、かわいい
ものに癒しを求めるようになっているのでしょう。

私もそうです。否定感は感じています。気が付けば動物の動画を見ていたりします。
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この回答へのお礼

ズバリ言ってくださる方が助かります。全体を通して分かりやすい回答でした。

私が聞いた話に、今の教育が歪んでいる原因に指導者の質の低下と学歴の形骸化と言うものがあります。
昭和に生きた教育者を評価しているのですね。
コウペンちゃんに言わせれば、「昭和育ちなの?えらい!」
ということになるのでしょう。勿論、コウペンちゃんですから、現代の教育も肯定しますけど。
過去を否定して現代を肯定してばかりなのはあまり良く無いですね。先の大戦に敗北し、全面的に悪者にされた事も、過去、特に昭和を悪く認識する習慣の背景になっているように思われます。

お話の中では、特に、子供に対して腫れ物に触るように、と言うのが本当に実感されますね。他所の子なんだから、と線引きをして大事な事でも踏み込んだことは言わないですね。
そういったものが全体のムードを悪くしているのかもしれません。私も言いませんもの。さっきのタイのCMの様な良い話が、作り話として揶揄されるような冷たい時代なのかもしれません。

さらには学校では、子供が教育の消費者になり、親が金を支払っているお客様と言う認識でもあるのか、〇〇してもらって当たり前みたいなところが無いでしょうか。私は良い教師に巡り合った覚えがないですが、現代の教師に同情する事もあります。

人対人の愛情が希薄になったと言うこともできますし、それを表現できる機会や場が失われたと見ることもできますね。証拠に、深く付き合ってみればどの人も見所はあるわけで、決して冷たい人では無いからです。

動物動画について。
私は猫の動画のコメント蘭が随分と盛況なのを見て嫌になり、ただの猫じゃねぇか、と発言したりしてます。だって本当のことなんですもの。

お礼日時:2017/07/18 18:22

いろいろな方の回答を読んで、考えが解きほぐされてきて、別の観点から回答を投稿したくなりました。


難しいものですね。絵に描いたペンギンによって嘘でもなんでも褒められたいか、という問題もありますが、私個人は、絵に描いたペンギンでなければ「ありがとう」を言い合う社会はあっていいと思っています。

このペンギンとは逆に、物事、感謝の気持ちを忘れようとすれば、徹底的に忘れていくことができます。
列挙してみましょう。仕事上の契約でやって当然、お金を払ったからサービスを受けて当然、社会的な立場でそれをして当然。恩を受けたことと、目下の話とは別問題。
この調子で感謝しないという選択肢を取ることができます。しかし、それはギスギスした、つまらない社会でしょうね。
恩を受けたから従属しろとは思いません。これだと「一宿一飯の恩」という任侠=ヤクザの世界になってしまいます。しかし配慮しつつ、断ることもできます。礼を尽くすことで気持ちよく生活していくこともできます。

私はよくいく食堂のランチで、思います。「安すぎる。儲けが出ていないかもしれない。もっとお金を取ってもいいはずだ。食べさせてもらってありがたい」。でも多くの人は、食べログなんかに「もっと美味いものを食わせろ」ということを書いているんですね。人の欲望とは、あなおそろしや、と思います。ランチでご馳走を食べなくてもいいし、この値段なら十分だろうと私は思うのです。

他に「いくらお金をもらってもこれは大変な仕事だろうなあ。ありがたいなあ」と思うものは多くあります。早朝に開くカフェだとか、トイレのお掃除だとか、ゴミ回収だとか。あるいは工事現場の人だとか。でも召使いとか、卑しい人であるかのように接する人もいます。人の傲慢さとは肥大させていけばきりがないと私は思います。

感謝するもしないも、人の気持ちひとつです。そしてこの点は、その人の生き方の根幹に関わっていることで、多分このペンギンのイラストを見る前の段階なんだと思います。私がペンギンに物足りなさを感じるとすれば、ペンギンがいうのではなく、人間が本来は言わなければならないことだと感じるからです。「ちゃんと起きてえらい」という幼児的な言葉ではなくて、「朝早くから、お疲れさまです」というような言葉にすることになると思いますが、意味するところは全く同じでしょう。

資本主義社会だと「やって当然」と言い、それを「相手を尊重していることだ」と考える風潮が蔓延していくのだなあと私は思いました。このペンギンは、資本主義社会の殺伐とした現実とネガとポジの関係にあるように思います。

話は変わりますが、美的な面白さという点だと、ペンギンとは逆のキャラクターを作って見るといいと思いました。ドヤ顔で「おまえのやったことは、仕事の契約上、当たり前のことだ!!」という言葉を発している憎まれキャラを創作してみてはどうか。あるいは電車の中でご老人に席を譲った若者に、「お前は今、大人として当然のことをしただけだ!」などと言葉を発しているキャラを作ってみてはどうか。シニカルな笑いととともに、感謝を忘れている人に多くのことを考えさせることでしょう。
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この回答へのお礼

一応、同僚間の間や友人間の間では、お疲れさまーは口癖のように出てきますが、一見さんに言う人って、あまり多くないのかもしれませんね、昨今は。
労いの言葉が使われるようになったのはいつのころからでしょう。労働というものが意識され始めてきたころからと考えるのが自然でしょうか。
言葉遣いは世相を如実に表すようです。おっしゃるところは実にその通りだと思います。

さて、憎まれキャラについてですが、なんか似たのが十年ほど前にいたような気がします。やたらとイラつき面白いキャラで、人が自分の隠したいところをオブラートに包んで作為しているのを、その薄膜を剥離してしまうようなことを言う、ニコニコ顔のキャラクターでした。
偉そうな・・・というところに注目された回答者様もおられましたね。良いことを当たり前と思ってしまうのは一種の傲慢かとあらためて思いました。

ありがとうございます。

お礼日時:2017/07/22 19:22

こんばんは、キサラギさん。



最近は毎日暑くて頭を使うこともほとんどないので、ざっとした印象を記すだけになりますが・・・

わたしはこのペンギンを初めて知りました。
ご存知のように(?)わたしは障害者で、健常者が当たり前にできていることのほとんどがままなりません。
それでも、それなりに努力をしているのかと訊かれると、そもそも何のための努力か?という反応になってしまいます(苦笑)

さて、このペンギンの印象を一言でいうと「気持ちが悪い」まるで小馬鹿にされたように感じます。
電話などで福祉関係の人と話していると、やたらと猫なで声で話す人や、相槌を連発する人がいます。
それに通じる不快感です。

これはなんとなく「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」という、ニッポンお得意の根性論と表裏一体に見えてしまいます。何事も極端から極端へ。竹やりで爆撃機をやっつけようとしたかと思うと、今度は打って変わって朝起きたから、会社へ行ったからと言ってペンギンの子供(?)に褒めてもらいたがる。(ため息)

それになにかこう、このペンギン、「上から目線」じゃありませんか?
なんでお前に偉いなどと言われなきゃならないんだと情けなくなります。
「褒める」ということは、当然ながら上の立場にいる者のすることです。部下が上司を、子供が親を「褒める」ってありませんよね。
「褒める」ということと、「肯定」「承認」とは別物だと思います。何故なら誰が「不登校」を「ずる休み」を「褒めてくれる」でしょうね?しかしそれをも受容するのが「愛情」だと個人的には思います。

最後にタイの「泣けるCM」ですか?よくありますよね(苦笑)

こういう「美談」って苦手なんですよ。万にひとつの話を取り出して基本的な人間性の醜さ、エゴイズム、生きることの過酷さに遮眼帯を被せてしまうような欺瞞は・・・

追記として、「平手」には絶対に反対です。
それは言葉で子供を納得・理解させることの出来ない無能な大人の無為・怠慢に他ならないと思うからです。

失礼しました。
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この回答へのお礼

こんにちは。
私は思いがけず夏風邪をひいてしまいました。
さて、コウペンちゃんも場合によっては割りの合わない仕事ですね。
よかれと思って言ったこと、褒めたこと、肯定したことが、否定で返されると言う。
なかなか悲しいですね。
ユーリさんでしたでしょうか、以前ブログに綴った短編を読ませていただいたのは。
あなたは出来ることがある。私はそう思います。
そのプライドが、極端にやさしく?腫れ物を触るように接して来る人に対する反感を呼んでいるのではないかと思いました。一個人間として尊厳を持って接して欲しい。これは当然の願いですね。私も思うのです。例えば老人ホームで、まるで老人を子供扱いする風潮、あれは一体何なのかと。

コウペンちゃん現象は色々読み解くことがある題材だと思いますが、こう言った反感にもまた、多くの情報が含まれていると思います。

タイのCMは、こう言った泣かせるものが少なくないですね。これは美談と言うよりは、勇気をもたらすものとして私は受け取っています。この少年は、きっかけを得て立派な大人になった。そう言う真っ当な話で、この類の話が巷に多くに存在するかどうかと言う希少性の問題ではないと思うのです。
そもそも、こう言う人間性は希少なものなので、人づてでも聞いた話で、何かしら人の胸を打つのではないかと。

平手打ちについては両論ありますね。
しかし寝ぼけたことを言っていたら、平手打ちで目を覚まさせるのも、賛否は別として人間の咄嗟の行為としてあるのかなとも思えます。

日本人は、と一括りにするのも難しく、そこには色々な面がありますね。今回のご回答で改めて思いました。

お礼日時:2017/07/20 20:42

漠然とした考えですが…



子供に厳しくすると言うことはむしろ子供の存在を肯定していることなのではないでしょうか。

全てを甘やかすと言うことが逆に否定にも感じます。

根性が捻じ曲がってるんですかね(笑)

子供に厳しくすることは子供のしていることを見て必要に応じて叱り軌道修正をかける。→存在の肯定

全てを甘やかすと言うことは子供のしていることを無視してとりあえず「いいね」しておけばいい。→存在の否定

そのように感じてしまうので。

大人社会では日本は減点式が多いので「あれはだめこれはだめ」「もっとこうすればよかったああすればよかった」で確かに「これはしてよかった」「ここはちゃんとがんばった」などの肯定する場面が少ないですよね。

あと良く見たり聞いたりするのが「それは良かった、でもね」ですかね。「でも」とか「けれど」と否定で打ち消してばっかりなので肯定しているようでいて実はただの否定の前振りとして「肯定」を使っている人が多いように感じます。

肯定ペンギンちゃんに癒されている方々も周囲の人たちを肯定することによってその癒しの効果を広めていけたら素敵ですね。


因みにペンギンを使うのは反則だと思います。可愛いですからね!
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
コウペンちゃんはあざといですね(笑)
他の回答者様も仰っていますが、減点方式の評価が普通になっている、と言うのが影響しているとのことですね。
そしてさらには、現代の過酷な労働スタイルもコウペンちゃんが一部でありますが歓迎される要因かと思います。とにかく疲弊しているようです。
ただ、否定されようが肯定されようが、揺るがない自信のようなものを持てることが、根本解決になると思えます。
コウペンちゃんは痛み止めにはなりますが、抗生剤にはならないということです。

子供に対する接し方についてですが、日本人は昔より小さな子供には甘い事が多いようで、ある年齢を境に急に厳しくなるという話を聞いたことがあります。小学校から中学校へ変わる時など。
何れにせよ、時には厳しくと言うのは勿論あって肯定されることだし、何よりも子供の自発性で躾が出来たら言うことないです。

他者を否定する事で自分を肯定すると言う隠れた悪もありそうです。

お礼日時:2017/07/20 19:53

米国在住です。



現在の日本の様子を、切り取って教えてくださるご質問をありがとうございます。勉強になります。

インターネットでニュースを読もうとしても、いわゆるゴシップと、中韓米の話題ばかりで、いったい本当のところ、日本はどうなっているのか、わかりにくい状況です。ここ数日、朝のニュースをYouTubeで観ても、やはり、同じです。国民の大半が、日本の政治的・社会的ニュースに、”否定的”なのかなぁ、とご質問で、感じました。

平和な国で、ガス・電気・水道完備が当たり前であるにも関わらず、何かに不満を感じ、自分たちの現在と、行く末に否定的だから、肯定ペンギンに癒されたいのかもしれませんね。その原因は、中国の台頭でしょうか。

もう一つは、アメリカのニュースを真に受けては、絶対にいかん、ということです。移民の国であるため、例えば、米国在住のユダヤ人や、アラブ人は、教育者が何と言おうと、自分たちの教育信条を貫いていますし、貧しい人たちは、やりたくてもできません。お金持ちは、中国人やメキシコ人の乳母がいます。”こんな教育方法がベストです”と言われても、米国で実践可能なのは、10%もいないかもしれません。しかし、ニュースで拡散されると、日本では、一丸になって、褒める教育(アメリカの教育者の推奨)を実践しているように見えます。だから、弊害も、一気にやってきます。

平和な国だし、85%以上は中流家庭なのですが、お隣の子供より、自分の子供の成績が悪くても、サッカーが下手でも、そんなに悲観的にならなくてもよいように思います。周りと比べない、自分は自分、というのは、でも、日本では、とっても難しいのは、私も日本人ですから、よ~くわかります。比べてしまうと、へこみます。

もう一つの”可愛いもの好き”は、アメリカ人の”面白いもの好き”に匹敵するんでしょう。日本の女の子には、可愛らしいほうが似合うし、男性も、すこぶる付きの美人より、可愛めを好むように、私には思われます。ヨーロッパ人は、”余計なものを振り捨てた美”を好むように思います。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

否定する事をまた否定してしまうと言う負のスパイラル。この負のスパイラルと言う言葉自体も、近年なって常用されるようになった気がします。
上善水の如しと言いますが、そんな言葉はとんと巷では聞きませんね。低い事=悪い事、負=ダメな事、と言った短絡思考が隆盛です。最近では普通である事が勝ち組と言われているような気もします。普通になる事さえ難しいとされるのが現代の日本です。85%は中流と言うのも、中流の幅によりますが、現実はもっと格差が顕著にあるように感じます。中国含め東アジアの新興国の安い労働力の影響を受けて、高い賃金が必要な日本人の需要は低下しています。人を市場価値で認める事が人間の評価の前提となりつつあります。人間性なんかは持ってて当たり前、みたいな高飛車な態度を持つ者に限って、君はどうなの?と言う人が多い印象です。
いじめによる自殺が止まず、学校関係者は責任逃ればかり。世間の猛烈なバッシングを怖れて問題を隠しがちです。勇気が欠如していて、保身に走ると言う感じです。
九州の北部で最近豪雨があり、30人超えの死者と行方不明者がでて、土地も荒らされましたが他地方の人は、あまり気にしてないようです。こう言ったニュースはSNSなどであまり拡散しておらず、猫の動画ばかりが人気です。政治経済の話は炎上必至、非難の応酬で誰も問題の根本を見出そうとせず、解決は遠い彼方です。
アメリカの情報はほぼトランプ氏一色と言っても良いでしょう。冷静なアメリカンの様子など報じられる気配は微塵もないです。例えば火事ばかりが騒がれて、火の用心についての衆知がおろそかになるようなものです。まっとうな人も静かにしてるだけで多くいると思いたいのですが、声の大きいものがネットにより匿名性を得て、憂さ晴らしを兼ねて世間と言う場を荒らしていると言う印象です。お気楽な者は豪華なスイーツや旅行、買い物の話で盛り上がり、妬みを買っています。
現代の日本は歪んでいるとも見れますが、その風土は相変わらず、良い国です。ただそこに住む人々がそれに対して盲目になりがちと言う事でしょうか。だから、震災や風水害に対する準備もおろそかになる。

私は美しいものは好きですが、それよりも表に現れない美しさを貴く感じていたいです。可愛らしいものについても、緊張を緩めようとおどけたりするものを良しとしたいです。コウペンちゃん然り。

お礼日時:2017/07/19 09:35

タイ版「鶴の恩返し」といったところですか。



中国の故事にも、臣下の無作法を公の場で咎めなかった主君に対し、その
臣下が戦場で命をもって主君を助けた、というものがありました。

こういう話に私は癒される思いがするのだが、大の大人がコウペンちゃん
とは、「だみだこりゃ」。

根拠とか正当性と言ったのは、現在日本で正しいと思われている、子育て
法、「叱らないで、ひたすら肯定をしようとするもの」についてのことで
す。

その子育て法の一つの結果が「コウペンちゃん」なんじゃないでしょうか?
ああ、恐ろしや。
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この回答へのお礼

私が見るのはデビッドさんの見た構図と対称の構図です。
肯定して育てられたから肯定ペンギンが好きになるのではなく、否定を激しく受けているので、このコウペンちゃんが愛らしく感じるのでは無いかと。
この、叱らないでひたすら肯定する子育て法と言うのが、実は大人達がして欲しい事であって、だからコウペンちゃんのようなものが一部ではあるが流行ったりするのでは無いかと思います。
コウペンちゃんが大好きな大人達は一体、何に否定され、何を否定しているのでしょうね。私は、コウペンちゃんが好きな人は、お気楽か、切羽詰まっているかのどちらかだと思っています。

親自体が、子供から見て全面的に良いもんでいたい、子供にとっての絶対者でありたい、そんな都合の良い考えを持つのは、やはり何かしら歪んだ欲望やら悲しみやらが潜んでいるようにも感じます。
或いはただの勘違いで、叱らないでひたすら肯定する子育てが良いと思っているかです。浅く捉えていると言う事ですね。

コウペンちゃん現象、否定をしたいわけではありません。しかし、一抹の不安を残す世相を表しているのでは無いかとも思い質問しました。

まぁ、ツイッターでフォロワー15万人なら、有名芸能人の十分の一くらいの小さな規模です。
ただ、骰子さんの言うように、かわいいは痛み止めのようなもの、と言う事なら、コウペンちゃんも小さな癒しではあるが、根本療法では無いわけです。根本的にどこか不味いのなら、そこは明らかにしておきたいとも思うのです。

あと、タイのCMのような話は私も良いと思います。ちょっとうるっときますね。

お礼日時:2017/07/18 01:27

子供に対する教育という、現代の日本にとって一番と言えるほどの重要な


ご指摘かと思います。

私が子供であった昭和では、「厳しく躾ける」という考え方が今に比べ随分
強かったと言えるでしょう、特に男子には。
規則を破る子には容赦なく「張り手」が飛んできました。
しかし、普段はある程度の距離を保ち、麗しい教師と生徒の関係性があり、
教師のことは大抵好きでしたね。

現代から昭和を見るときにこの「体罰」というものが極悪非道、諸悪の根源
となっているようです。
本人の言うことも聞かず、暴力で処理するということが、子供に対する人間
否定であると、また、暴力は連鎖すると、そういうことなのでしょう。

子供に対しての体罰が絶対にダメだということはすでに30年位前に言う人が
いたことを覚えています。

そして今は、小さい子が悪いことをしても決して叱らず、言い分を聞いてあげ
最後はハグをしてあげること、が教育なんだそうです。

その上に、「肯定ペンギン」にいちいち誉めてもらう?(これって大人用でもあ
るんですか?)

こういう風に社会が自分らの利益のためだけ考え追随するから尚悪いのだけれど、
はっきり言って、気が遠くなるほど馬鹿々々しいです。

何が根拠になっているのでしょうか?また、その正当性の検証はされているので
しょうか?
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

子供の教育は最重要だと思って居ます。
子どもは子供の力で育っていくものでもありますが、時々躾けてやらないと、荒れた畑の様に実りの少ない結果になるでしょう。
さて、コウペンちゃんは、二、三歳位の子供に言う風に台詞が添えられて居ますが、これを喜んでるのは大人なのです。大人向けのキャラクターなんですね。遊びと言って仕舞えばそれまでですが、そこそこ人気なのは、それに相応しい精神性があるからだと感じ、皆様はどの様にお感じになるか気になって質問いたしました。ハローキティとはまた違う人気の理由があるのでは無いかなと。

ところで、タイだったかな、こんなCMがあります。
お母さんが病気のため、男の子が薬を市場で盗むのですね。おばさんに見つかって酷く叱られ、なぜやったのかとすごい剣幕で尋問されるのですが、それに圧倒されてうまく言葉が出て来ません。事情を察したおじさんが、薬を買い上げビニル袋に入れたスープと一緒に少年に与えて帰らせます。その顛末を、おじさんの娘が影で見ていました。
そして数十年後。
おじさんが心臓の病で倒れ、病院に運ばれるのですが、莫大な医療費を娘は請求されてしまいます。途方にくれる娘。ベッドに突っ伏したまま泣き腫らして眠り、目がさめると、ベッドに一枚のメモと共に〇バーツの領収証が置いてありました。メモには、料金は全額支払い済み。三十年前の、三本の鎮静剤と一袋の野菜スープにより。と書いてあるのです。

悪い事をしなければならなかった子供の気持ちや背景を知る事はとても大事だとも思うのです。その後の成長を、(このCMの様に)左右する事もあると思います。

結局、張り手も時と場合と信頼関係において正しければ良いんですよね。しかし捻じ曲がった教師もいるので、原則禁止になったのでしょう。子供の性格も時代によって変遷するのかもしれませんが、これが良い指導だというのは、一概には無いのかもしれません。


文末、根拠とおっしゃっているものが、何の根拠の事をおっしゃっておるのか分からなくてお答え出来ないのが申し訳ないのですが、宜しければ少し補足していたただけると、お返事出来るかもしれません。コウペンちゃん人気の根拠でしょうか?

お礼日時:2017/07/18 00:04

>何故そうなるのか。

端的に申しますと、自分を否定せざるを得ない生き方になっているからではないかと私は思ったんですね。

加点式ではなく、減点式で自己評価する人も多いですね。職場の評価が依然としてそうなっているケースも多いのです。例えばチームでやるような仕事だと、「できて当然」「あんたなにやってんの?」みたいな発想になりやすいですね。

第三者の立場で見ると「そんなものやめたら」と思いますが、そうはいかないのが世の中です。
可愛いものによる癒しは、ある種の「痛み止め」みたいなものなんでしょうね。

前問との説明等、お気遣いをいただきありがとうございました。
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この回答へのお礼

プロならできて当然、と言うのもありますね。勿論それはそうなのですが、例えばモンスタークレーマーは、お金払う側なんだから何言っても良いみたいな極端な立場を取る人も居ますね。仕事の範疇を超えた誤った認識が横行してる事実もあります。
そんな仕事の範疇にない仕事?で疲弊してしまう事もしばしばですね。関係性を正しく把握する事が大事なのではないかと思いました。
仰るチームプレイも、大事なのは関係性で、それによって仕事の回転率も左右されますね。

痛み止めですか。言い得て妙だなと思いました。
ありがとうございます。

お礼日時:2017/07/17 23:28

哲学すると同調圧力からも、承認欲求からも解放されますよ。


哲学する事で、自由と孤独を獲得できます。
お試しアレ。
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この回答へのお礼

自分の考えを持つことの一つに哲学があると思います。
そう言う意味で、哲学をすれば同調圧力や承認欲求からは遠ざかりますね。
もう一つは、筋道だった考え自体が、世界の事象をクリアに把握する事に役立つので、同調圧力や承認欲求の構造、構図、仕組みと言ったものが見えてくるので、それらから解放されるのだと思います。
自由は得難く、孤独が安らぎに通じる事も稀有ですね。それは、ただ自分の考えを持ったり、ただ哲学するだけでは得られず、余計なことを考えなくなり、心が整って来てこそそうなり得ますね。

自分を型にはめてある程度殺さないと生きていけないとか、他者から認められないと存在意義が失われてしまうというのは苦しい生き方ですね。
型を持っていてもそれに縛られず、自信のある人、このような人は楽しく生きれますね。
簡単では無いですが、無理でも無いと思います。社会は一つの枠組みとして機能し、一人ではできない大きな仕事を可能にしますから、社会の中で機能すると言うことは社会に合わすことでもあります。しかし、それも度がすぎると歪ですね。社会がある程度個人に合わせていく、そう言う機運も高まっていますね。

お礼日時:2017/07/17 23:18

人間存在を肯定することが必要です。

存在する事が目的であり、存在することに価値があり

存在する事に意義が有り、みんなで存在することが正義であり 存在を活かし合うのが愛だということを

理解する必要があります。永遠目指して存在を肯定して行こう。肯定ペンギンはいい話です。
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この回答へのお礼

悪人や、自分の中の悪とどうやって共存するかというのも課題なのかなと思いました。
お前は悪い奴だ、やっつけたる!では、一方的な気もするのです。人間存在の中には悪もありますから。それが見方によっては悪にならない場合と、どう見ても悪に見える場合とあって、後者のほうが厄介だとおもいますが、非の打ちどころのない人間などいないわけで、そんな存在を肯定する深い受容の精神はどこにあるのだろうと思います。仏道には最悪を最善に転じる智慧の存在が説かれていますが、私は理解できていません。

コウペンちゃんがいい話なのは、朝起きるの辛いのに、起きた。当たり前のことを肯定するのでいい話なのだと思います。なぜなら、当たり前のことは難しいことでもあるからです。夜、ぐっすり眠れて、朝、すっきり起きられる人は素晴らしいですが、そのような人だけではないですからね。食事も、歯磨きも、お風呂も、お仕事も、一日を無事終えることも、同じです。コウペンちゃんは、その容姿と、たった一言で実に多くのことを語っていますね。

永遠については話すと深くなるので今は置いておきたく思いますが、一言いうなら、永遠とは時間ではなく、存在と同義なのではないかと私は思っております。

ところで今、私が読んでいる料理漫画に、調和した皿と、素材が意外な組み合わせでぶつかり合った皿と、どちらが美味いのか、というテーマがあります。
これはつまり、みんな仲良しがいいのか、時には激しくぶつかり合うのがいいのか、という人間の世界の話でもあると思います。現実の世の中は両方ありますね。和することは素晴らしいですし、異なるものとの出会いがあるからこそ新しいものも生み出されます。どちらも必要なことかもしれませんね。

ありがとうございます。

お礼日時:2017/07/17 19:16

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