プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

説話ですが わが子を亡くして悲しむ母親であるキサーゴータミーは それ
まで人間の《死というものを知らなかった》らしい。これをみづから知るよ
うに仕向けてかのじょを癒すゴータマ氏の《ありがたい》お話について問い
ます。

       *

あらましを掲げます。

1. ようやく歩けるようになったころそのわが子は あっけなく死んだ。

2. 母親のキサーゴータミーは 《それまで死というものを見たことがな
かった》ので 人びとがわが子を火葬に付すのをこばみ 《子どもの薬》を
手に入れようとする。

3. 或る人の助言を得て ゴータマ・ブッダのところに行って相談すると
よいと聞き 行った。

4. 死者を出したことのない家から カラシの種( または ケシの実? )
をもらって来なさいとおしえられ 探しに出かける。

5. ▼ (赤松孝章:キサーゴータミー説話の系譜) ~~~~~~~~
http://www.takamatsu-u.ac.jp/library/06_gakunais …

けれども彼女は一軒の家でも白カラシの種を得ることができず,夕刻時に考
えた。

    「ああ,重大なことに,私は『私の子供だけが死んだ』という思い
   をなしていた。しかし村全体において,実に,生きている人より死ん
   だ人の方が多いのだ」

と。このように考えた時,彼女の子供に対する愛執の弱き心は固きものにな
った。

6. ▼(同上・承前) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    
    「子供や家畜に気を奪われて,心が執着している人を死はさらって
    行く。眠れる村を大洪水が(流す)ように」

と 〔師=ゴータマブッダが〕偈を説き終わった時,キサーゴータミーは預
流果[=さとりに向かう流れに入った宗教的境地]に到達した。( p.8 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

       *

Q‐1: 母親になった人が 《人の死を知らなかった》ことがあるだろうか?

Q‐2: それでも もしそのとおりだとすれば この説話は 何を語ってい
ると受け取るのがよいか?

Q‐3: つまり 人間が死ぬということを知って さとりが得られたといった
話は そのまま受け取ることが出来るか? いったいどういう説話なのか?


☆ ちなみに漢訳経典では 母親は《老母》となっているとか。ならば Q‐1
は 《ない》と答えざるを得なくなる。・・・
 ・ 前掲 赤松孝章論文 § 4.漢訳経典の説話 ( p.13 )

A 回答 (5件)

No.5 です。



多くの人が仏教に触れて納得行かないと感じたことがあると思いますよ。

そんな経験は私にもあるので、大筋でご質問されていることに賛同しているのですが、

その憤りを少し抑えて、お時間をいただけませんか。


現実ではもっと怒りを覚えるものがあります。

単なる自分の損失ではなく、他人の身勝手な考え方に対してです。

仏教の説話が面白いのは、

こういう怒りを持ったとき、スルッと理解できてしまうものがたまにある。

そのため受けがいいんですよ。

仏陀が超人であるとは本当に思っていません。

良くぞ言ってくれたと思う気持ちから、尊敬しているだけです。

説話と言うのは、そういう特定の経験に対してヒットする場合が多いと思えます。

気が休まって、気が晴れる。

そういうものであって、理解できたから何かを得られるというものじゃないでしょう。

例えば、ある風邪薬が効いた人は、「この薬は良い薬だ」と言うでしょう?

健康な人には効果がありませんよ。

「自分はわかっていないんだろうか?」

と神秘を感じて謎を解き明かそうとする。

しかし、本人が健康であれば一生解けません。

そのせいで、余計に何か在ると思えてしまう。

これは執着を生み出しますよね。



そこで仏教そのものを、

この様な薬として捉えてはいかがでしょうか?

「人が逃れられない愚かさと苦しみ」

についての薬です。


私は仏教は、「執着」について非常に警戒していると捉えています。

例えば、「悟り」というものに執着することを注意していると聞いたことがあります。

逆転の発想で、悟り自体が大したことがないとし、

執着すると、普通の人よりも頭が回らなくなり、本来の力が出ないとしてみましょう。

そうしますと、すべてが当たり前の話で良いはずです。

執着の怖さを知っている人には有り難い話であり、

「そうそう、くわばら、くわばら。」

そうでない人には納得が行かないはずです。

「他の人が尊ぶんだから、凄いものじゃないと可笑しいでしょ?」


執着については私も経験があります。

執着すると、こんな感じになります。

「もっと何かあるはずでしょ? 

 私は、これに賭けてきたんだ。

 だってそんなショボイものであったら、

 他の人の選択のほうが正しいと成るじゃない?

 私の憧れ、これまでの手応えが、単なる間抜けであるという結論は酷すぎる。

 あいつらを見返そうとして、頑張ったのに・・・」

とか、良くありますよ。


例えば、質問者さんにとっての哲学や悟り、説話の価値はどのくらいなんでしょうか?

一般の人が「このくらい?」と感じる程度はどのくらいなんでしょう?

実際に寿命を投資して得られるリターンに見合う程度があるかもしれません。

そういう良い按配もあるはずです。

普通に考えてありそうに無いものを期待して取り組んでいたら、それは執着でしょう。


しかもそれが長すぎますと、投資した寿命を取り返したくて、

執拗になってしまうこともあります。

この間、その努力を他に割り当てていたら、別の良いことがあったかもしれません。

また、いまを維持するための努力が出来ておらず、もっと酷い状態になるかもしれません。

これでは損を拡大させています。

もっと時間が経てば余計に執着から逃れられなくなるはずです。



説話の母親は、嘆き哀しんで苦しんでいます。

しかし、子を死に至らせないための情報収集や予防、

親族や友人との安全面でのネットワーク作りの”努力”は嫌がったはずなんですよ。

不幸が起きない確率に賭けたんです。

これについて「死を知らないからだ。」としていますが、

全くその通りに思えます。


予防は面倒ですし、無理に取り組ませると、ありがたみが分からず”やらされ感”も強くなります。

これも苦しいですよね。

しかし、この苦しみのほうが嘆き哀しむ苦しさよりは弱い。

その上で現実的な不幸を遠ざける意味で効果も出ているはずです。

子を失って嘆き哀しく苦しみは、これよりも強いですが、

どんなに投資しても積みあがりません。

苦しみのマネージメントで失敗をしているんです。



私が時々怒りを感じる(良くは無いんですが)のは、

母としての愛を自慢し、子育ての苦労をご披露する母親が、幼児教育については学ばないことです。

面倒だからですよ。

この母親が後に「子供が勉強をしないんです。」と言って悩む。

どう思いますか?

「あなたが勉強していなかっただけではないですか?

 子供のせいにするのは如何なものか」

と思いませんか?


自分の母親や父親と話して、子供心に思ったことがあります。

「母は間違ったことを言っているのに、何故か自信に満ちている。

 最後は、『どんなに苦労をしてお前を生んだのかわかっていない。』と言う。

 父は、『女性はだめだよ。どうしても最後は道理を理解しない。』と諦める。

 いったいどうしてだろう?」

うちの叔母も自信満々で間違ったことを言っていたんですが、

被害にあった(ニートになりました)従兄弟は自分が悪いと思っています。

気の毒ですよ。

おばが間違っていることは、百年も前から学問で示されていたのにです。

つまり、叔母が考えを変えなかったため、

従兄弟はニートになる定めを持って生まれてしまったんです。

私でも彼女の子として生まれていれば、逃れられなかったでしょう。

この確定的な運命とサボりを、愛でごまかすというのは如何なものでしょうか?


女性にとって出産は普通の人が思っている以上に命懸だそうです。

「こんな苦しみを味わった人はそうそういないだろう。

 本当にやばかった。ぎりぎりだった。

 私はあのとき心のそこから自分を正した。

 そして戦い抜いたんだ。

 そうじゃない人は、知識で知っているだけだ。

 人の本当の力を知らない人が、肩を並べて対等の積りでいるんだ。

 そういう危険があるんだとやっとわかった。

 だけど口に出して言うと相手に悪いので、私はこれはいわない。

 だけど、いざと言うときは、そうした人の意見は無視しよう。

 なにせ、私はあれを乗り切れた。あいつらは出来ていない。

 この差があるからだ。」

と言う心理が働いているのかもしれません。

出産を乗り切った自分を褒めたい、見直した喜び。

これはあると思いませんか?

その喜び、成功体験に執着してしまい、自分に自信をつけすぎてしまった。

母は全く勉強をしませんでしたが、何故かいつも自信を持っていました。


普通に考えれば、出産の経験は他の人の出産に対して効果があるだけであり、

それですべてが許される様なものじゃないでしょう。

「世の中の全てのものは、一つ一つそれくらい苦しいんだよ。

 今までは、一つも生み出していなかっただけじゃないかな?」

と言う発想に至らなかったんでしょう。

これを本当に言えば、女性全体がガッカリする話ではないでしょうか。

こういうものを執着と仏教が言っているならば、良くぞ言ってくれたと賛同したいですよ。


質問者さんが言うとおり、ご質問のテーマは説話としては意味不明かもしれません。

しかし、説話のテーマが当時の医学事情から見て、日常に多かったんでは?

それを聴く人は実際に身近に感じており、具体的な対象がいたかもしれません。

聴いた人は、自分の経験で補完をして、色々と納得したんでしょう。


仏陀と言う人を捉え違えると、意味が分からなくなります。

この人は、

「良く考えれば分かっただろう? それは自業自得だろ?

 起きてしまう前に何とかできたはずだ。

 不幸が起きて、あなたが苦しでいるのではない。

 あなたがもっと前に考えることをサボったために、子供を死なせたんだ。

 その子が一番の被害者じゃないか。

 その上で自分をかわいそうだと言ってしまったら、どれだけ身勝手なんだ。

 他の母親がどれだけ考えていたのか、みてきなさい。」

と何時も怒っていたんではないでしょうか?

しかし、事件が起きるまでは、いつも自信に満ちていて人の言う事を聞かない。

そのため、同じ事があちこちで繰り返し起きる。

呆れつつも、どうしてだろうと考えた。

そして、説法をするけれど、聞いてくれるのは経験者ばかり。

「つまり、私の説法は防止では効果を見出せないということか。

 経験者の心を癒す程度だ。」

と無力を感じていたんじゃないでしょうか。


仏教が説くあらゆる概念を、こうした不満の産物だとして捉える。

すると、人が愚かを犯す原因ばかりを抽出していると納得できます。

中期仏教や後期仏教は、教団の都合から物語性や世俗性をつけたしたものが多いです。


こうしたやり取りを通してやったことがあります。

仏陀の説話を理解することよりも、

「あなたがとても丁寧である。」

と言う良さのほうが現実であり、大切に思えます。


こんなに一生懸命お礼を書く人がどれくらいの確率でいるか知っていますか?

一つ一つの回答を整理し、正直に述べています。

イヅマイヲ正されましたよ。

そして、こちらに気がつくほうがメリットがあると思いますよ。

赤の他人が感心する、ほんものですから。

仏教は、”こちら”に気がつくほうが得だと説いていると思っています。




以上、ご参考になれば。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

また お褒めに預かり おそれいります。



そうですね。わたしは ぶっきらぼう派ですので 単純・簡単に
行きたいですね。


つまり:
わが子を亡くした。
かなしんだ。
気が動転してしまった。
何とか このかなしみを乗り越えることができた。

――こういう話ですよね? いったい どこに説話というような
オシヘがあるのか です。


ゴータマ氏が このキサーゴータミーにやさしく接したというと
いうのなら そのことを否定したり反対したりすることは無いわ
けですが 問題は この話のどこが オシヘの問題なのか? 

そして ゴータマ・ブッダでなければ かのじょを癒すことは出
来なかったのか? です。

そんなことはない話を いったい・なんで・どういう考えで説話
にしているのか?

目覚めること・さとることには そういうワケの分からない話か
ら 人びとが自由になることが含まれているのでは? と思いま
すね。

お礼日時:2017/10/12 21:11

No.1です。



お礼有難うございました。とても丁寧ですね。

まあ、納得行かないアニメや漫画も沢山あります。

宗教も当時の娯楽コンテンツですから、完全ではないでしょう。

当時の人にとっては、商売として成功したかどうかが大事だったはずです。

しかも、説話は製作者インタビュー記事、ブログみたいなものです。

「正しい」ではなく、「面白い」ぐらいの期待が妥当だと思いますよ。

自分の人生は、自分で責任を持つものであり、

仏陀が有名人であるからと言っても、他人でしかありませんから、

親に甘えるように甘えるわけには行かないでしょう。



更に言うならば、彼らには私たちを幸せにしたり、心地よくする義務もありません。

「俺は、貴様らは善人であり、俺を救おうとしていると勝手に思っているが、

 俺は、貴様らのいう事には納得行かない。

 俺を救いたいと上から色々言うつもりなら、俺が納得行くように説明しろ。

 そうしないと、お前らが偽善者だとあばいてやる。」

「いや、そんなつもり全く無く、私が大事にしている身内に話した話です。

 私はあなたのこと知りませんし、正直あなたの事はどうでも良いとおもっています。

 忘れてください。

 もう私は死んじゃってますし、そろそろ勘弁してくれませんか?」

と言う事になっている場合が沢山あります。


以上、ご参考になれば。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~
宗教も当時の娯楽コンテンツですから、完全ではないでしょう。

・・・

「正しい」ではなく、「面白い」ぐらいの期待が妥当だと思いますよ。
~~~~~
☆ 広く見ればですよね。でも ここでの問題は 《ブッダのオシヘ》
が 哲学として有効な理論であると唱える向きがあることです。

これについては しっかりと哲学としての白黒をつけることは 哲学
の仕事だと思います。


★ 更に言うならば、彼らには私たちを幸せにしたり、心地よくする義
務もありません。
☆ ここについても 申し訳ないですが 焦点がずれていると思います。

あくまで ブッダの哲学として たとえばこのキサーゴータミーの説話
がどうなのか? そもそも 成り立つのか? に絞って問うているわけ
ですから。



★ ~~~~
「・・・

 忘れてください。

 もう私は死んじゃってますし、そろそろ勘弁してくれませんか?」

と言う事になっている場合が沢山あります。
~~~~~~~
☆ ただ ゴータマ・ブッダは そのようにブッダをつけて呼ばれるご
とく なおも とうとばれています。おかしいではないか? と執拗に
問うています。

お礼日時:2017/10/12 08:34

当時は生産性も低く、医療も発達していません


でした。

だから、ほとんどの人は、飢えや病気、事故で死んで
いったのです。

だから、庶民は、飢えや病気にかからなければ、
事故に遭わなければ死なない
と考えていたのです。

それを、貴族の出である釈迦が、飢えや病気にならなく
ても、事故に遭わなくても
人間はいつか必ず死ぬのだ、と教えたのです。

ここから死を前提とした人生が始まりました。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 当時は生産性も低く、医療も発達していませんでした。
☆ ということは 現代はおろか その後の・医療が進み生産性の
上がった時代とは くらべることが出来ない。ゆえに ゴータマ当
時の思想が のちの時代から見ると 違っているのはもちろんのこ
と へんだ・おかしいと思っても それは 仕方がないことだ。無
理を言っている・・・というご見解ですか?

ひとことで反論しますが でしたらなぜ その後ほとんどそのまま
のオシヘが伝えられ それとしてとうといと見なされて来たのか?



★ だから、ほとんどの人は、飢えや病気、事故で死んでいったの
です。
☆ 寿命が短かったときに説かれた思想は 現代から見ておかしい
と判定するのは 行き過ぎだ・・・でしょうか? 現代でも その
ままのオシヘが とうとばれ学ばれています。よ。



★ だから、庶民は、飢えや病気にかからなければ、事故に遭わな
ければ死なない と考えていたのです。
☆ ん? 平均寿命が違うというだけではないでしょうか? 

自然の災害や病気あるいは戦争などによって死亡するというのは 
定性的には それほどの違いを強調することもないのでは?



★ ~~~~~~~~
それを、貴族の出である釈迦が、飢えや病気にならなくても、事故
に遭わなくても 人間はいつか必ず死ぬのだ、と教えたのです。

ここから死を前提とした人生が始まりました。
~~~~~~~
☆ はあ? ぢゃあ 庶民の間には 長生きした者は皆無だったと
いうのでしょうか?

そしてそのことと このキサーゴータミーの話とは・つまり死一般
の話ではなく わが子の死に接してこれを――気が動転しただけで
はなく――みとめたくなかった それをかたくなに拒んだという話
と どうつながっていますか?

さらにそして 生老病死の四苦を説いたと言っても その苦からの
解脱をも説いたのでしょう? だったら 話が違うのではないので
すか?


人びとに:
★ 人間はいつか必ず死ぬのだ、と教え
☆ る必要など さらさら無かったのではないですか?

滅茶苦茶なご議論です。

お礼日時:2017/10/09 19:57

てきとうにものがたりを想像すると



こどもをもうけた若い娘(母親)は、道端に死体が転がっていても、川に死体が漂っているのをみても、それはよくある出来事としてしかみていなかった。[若くて、大病を経験せず、元気に暮らしているほど、それ(その転がっている死体)は少し前までは自分と同じように生きていた人間である、というふうに結びついていないのではないか]

我が子は自分がはたらきかければなにかしらの反応をかえすものだったが、反応が鈍くなり、ぐったりしている、呼吸はいつもより浅くはやい、いつもより熱を帯びているようにも感じる、顔色は白っぽくなり、力づよさはなくなってきた、呼吸の力も弱まり、ついにはなんの反応もしなくなった。ただただぐったりしている。

これは自分が苦労して生んだ我が子だろうか?

すがたかたちは我が子だが、まったく反応しない、次第に冷たく硬くなるこれはなんなのか。

集まってきた人々はこれを自分から取り上げ、持ち去ろうとする。

これは我が子ではない、だけど我が子に似たこれをどうして手放せるのか。

憔悴しきった若い母親は、まるで老婆のようだった。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ こどもをもうけた若い娘(母親)は、道端に死体が転がっていても、
・・・それはよくある出来事としてしかみていなかった。
☆ 死体を見ており 人間が死ぬということは理解していた。という見
方ですね?


★ ~~~~~~
我が子は・・・ただただぐったりしている。

これは自分が苦労して生んだ我が子だろうか?

すがたかたちは我が子だが、まったく反応しない、次第に冷たく硬くな
るこれはなんなのか。

集まってきた人々はこれを自分から取り上げ、持ち去ろうとする。

これは我が子ではない、だけど我が子に似たこれをどうして手放せるの
か。

憔悴しきった若い母親は、まるで老婆のようだった。
~~~~~~~
☆ №1にもコメントしたことですが そうしますとこの場合 キサー
ゴータミーは 動かなくなって横たわるわが子を前にして 気が動転し
てしまった。ということでしょうか?

つまり 当たり前の話ですよね? それが何で説話なのか? おまけに
さとりの話にまで成っている。

おかしかないですか?

お礼日時:2017/10/09 15:36

良いお話ですね。

有難うございました。

私の解釈で良ければ、お話します。

とりあえず、仏教が提唱する考え方の概略を話します。

そこから解釈していきましょう。


仏教では、知恵と言う言葉と智慧と言う言葉を分けています。

前者は、知識として知っていると言う意味です。

後者は、当事者や経験者として知っており、それらが生じるメカニズムを知り、

改善する方法も知っていると言う事です。

もっと正確にいいますと、メカニズムを解き明かして改善する方法を考案できる

力があると言うことを指します。

ここに至って本当の安心感を得ることが出来、何があっても怖くないという心理

状態(=平安)を得られると説いています。


人の知っていると言うモノを段階的に分けてみます。

・知識としても知らない段階

・知識として知ったという段階

・改善方法を学んだ段階

・メカニズムを学んだ段階

・特定のジャンルにおいて改善方法を考案できる段階

・全てのジャンルにおいて改善方法を考案できる段階

と進むはずです。

この段階が進まないのは、個人の資質に問題があるのではなく、人間に共通する勘違い

が原因にあります。

勘違いが原因ですから、ハッと、気がつくと、

「なにやってるんだ俺は。」

という気持ちで、あっけなく解決します。

これまでの自分を振り返り、目が覚めていなかった状態であると感じるのでしょう。

ですので、覚醒するとか、悟ると言うのだと思います。


仏教でお釈迦様が教義の骨格としたものは、

「因縁果報」というそうです。

正に、これさえ理解すれば勘違いのほとんどが正されます。

非常に良く出来ている言葉です。

最初の三つは物理法則を指しています。

最初にモノ(因)があり、それには性質(これも含むという意味が因)があり、

性質を際立たせる外からの刺激(作用とかいいますが)が偶然(故意でも同じ)

おきますと、そこに何の意思がなくても、同じ結果を生み出します。

ここまでがクールに決まっており定まっているわけです。

この性質を際立たせる外からのアクションを「縁」といい、

その結果として起きる変化を「果」と呼びます。

物理法則ですね。化学反応もおなじメカニズムです。

注意すべきは、科学的な意味あいが強く、

「予習をしなかったので、授業がわからなかった。」

と言うような、日常つかう因果関係ではありません。



そしてこの「果」を観察する人が居なければ誰にも気付かれません。

さらに言うならば、観察したことを人に伝えなければ、無かった事と同じになります。

この観察と他人に伝える段階を「報」と呼ぶのだそうです。



いまでいうところの、量子力学的な話です。

観察者がいなければ、結果は定まっていないというパラドックスです。

インドは古くから数学・科学が進んでおり、当時ですら高度な数学、宇宙の外について

の論議がされていました。

最先端分野の考察は現代とあまりかわりません。

間違いなく、いまの一般の方より知能が高く、科学的であったと考えられます。

そして仏教は、科学分野の知識と捉え方をメンタル治療に用いようとしたようです。

理を説き、本人がそれを確認(実感)することで、本人が自分で自分を救えるという考え方です。

この考え方は、全ての有名な宗教や教えの中で共通しています。

偉人が残す話は、とっても実利的なんですが、解釈する人が勘違いを起こしやすいです。

何かしら不思議な力があり、それを得られるのではないかと期待して聞くからです。

現実的な話を拒否しようとする人が伝えてはいけませんよね。



そして大事な部分「報」について説明します。

例えば、

不発弾が突然爆発したとします。

さて上の一文に科学的な説明はあるでしょうか?

ありませんよね。

「不発弾」というのも、それを見た人が報告した内容です。

「突然」というのも同じで概念です。

「爆発」と言うのは現象を見て表現し、抽象化したものを概念にしたものです。

簡単に言えば、イメージが人それぞれで異なります。

実際に経験としてみたひとは少ないはずです。

しかし、意味が通りますし、知った気になれます。

この勘違いにより、本当は爆発のメカニズムを知らないのに、大丈夫な気がするんです。

こういう勘違いがあるので、こに注意しなさいと言うのが仏教が唱える本質的な部分です。


例えば、

メカニズムを知っている人が、現地の対応にあたり、皆の安全を確保するでしょう。

このとき、それらを知らない自分は何も出来ないはずです。

この無力感は不安に結びつきます。

自分が普通であると思えても、ストレスは消せません。

それらは抑え込まなければ成らず、これもストレスに成ります。

そして、ストレスを抱えた人同士が接すれば、争いも起き易いと言う事です。


「どうすれば我慢できるかを問うよりも、

 自分が誤魔化している『知らないこと』を知り、

 メカニズムから把握して自分の手で予防や対策ができることを確認し、

 本当の自信をつけて先に進む。

 こちらのほうが寿命を有効に使っているのではないか?

 なぜならば、二度と同じ不安を感じる事が無いからだ。」

という考え方ですね。


さて、この「知っている」の違いからご質問ついて解釈してみます。

この説話が示していることは、

「不幸な出来事は、確率が低いものであると感じてしまい、

 自分には生じないと思い込む勘違いがある。

 なぜかと言うと、他の人が困っていないように見えるからだ。

 『そんなに沢山起きるならば、皆が笑顔で普通に暮らしているはずが無い。』

 そう感じると言うこと。

 しかし、実際は想像より高い確率で頻発している。

 困ってないように見える人達は、

 単なる経験者であり、

 何とかしてそれらに対処した立派な人であるというだけだ。

 知識として知っているだけでは、智慧(予防や事後対処処理)を生まない。

 いままでこれだけの経験者がいたということを無視していたのに気がついただろうか?

 もし気がついていれば、あなたは不安になって、予防についても知りたくなっただろし、

 その智慧をその人達から得られたはず。

 知識により自信を得て自分をごまかし、

 人の顔色だけを見て危険か安全かを判断しているのは危ない。

 現実を捉え違えていると、予防の機会を失うし、対処も出来ないだろう。

 実際には予防のチャンスが幾らでもあったのに、それを逸したということ。

 せめて、その後の苦しみをどうやって和らげているのかを見てきなさい。」

と言うことじゃないでしょうか。

私たちは、「因縁果」を知り、現実的に恐れている人達をあてにして、

日常生活を満喫しようと考え、

その人達(因縁果を知り恐れ観察している人達)の「報」を期待しています。

そして「報」の内容を理解できるだけで、自慢をしてしまいます。

サボった挙句に、みんなでハードルを下げてしまっていますよね。

そのうえで上だ下だとやってしまいます。

それはそれでも良いのですが、

罰として、「自分ではどうにも成らない」苦しみは減りません。

一度でも経験するとびっくりしてパニックを起こします。

実際に生じる事件の確率は変わっていません。

不安になろうと安心しようと、実際の確率を下げてはいません(上げてもいませんが)。

いずれは、それに当たってしまい、自分の無力を感じることに成ります。


それを嫌がって、

「くるなくるな、いやだいやだ」

とやれば、事件が生じていない日常も楽しめなくなります。

サボって得をした以上に損をしていると言うことです。

これも勘違いの一つですね。

「人に任せるほうが人生を満喫できない。」

と考えている人も結構います。


また、自分の手で、それまで専門家しか出来ないと思っていたものが出来ると、

幸福感を感じます。

すべてにおいて改善方法を考案できる段階と言うのは、

すべてにおいて人任せにせず、自分の手でやろうと決意することでしょう。


悟りに近い気づきですが、

「人類の安全と進歩を他人任せにしない。

 出来る出来ないではない。他人に任せて良いという論法を使わないことだ。

 考えれば、殆ど全ての人がこの論法を作り出すことで一生懸命だ。

 専担分業? 効率化? 弱者保護? 分を知る?

 せめてこれだけは人に負けたくない?

 どれも自分の責任は『すべて』だといっていないよな。

 挙句、消え去らない不安感と対処できない事件に囲まれて、

 しょぼい事で上だ下だと自分を誤魔化して、

 苦しんで死んだら? 何のための人生かわからなくなる。」

経験があると思いますが、自分の手で出来るようになると、

出来ない人同士が展開する論法が馬鹿馬鹿しく見えます。


そして人類の安全と進歩は自分の責任であると考えても、何も損をしません。

タダなんですから。


最後にある、

「子供や家畜に気を奪われて,心が執着している人を死はさらって行く。
 眠れる村を大洪水が(流す)ように」

この文章では、

本当は安全ではないのかもしれないのだから、

いまの安全の土台となっているメカニズムも知り、

それらが壊れていないか、気を配っておくべきといっています。

みんなで子供や家畜の自慢に執着すると、皆で洪水にさらわれることもあるということ。


以上、ご参考になれば。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 良いお話ですね。有難うございました。
☆ もちろん 見解は自由ですが 質問者としては 批判的です。話の成り立
ちについて おかしいとうたがっています。

★ ~~~~
仏教では、知恵と言う言葉と智慧と言う言葉を分けています。

これまでの自分を振り返り、目が覚めていなかった状態であると感じるのでし
ょう。

ですので、覚醒するとか、悟ると言うのだと思います。
~~~~~
☆ 特に反対しません。



★ 「因縁果報」というそうです。
☆ これについては ふたつの種類があると見ます。

ひとつに 自然科学としての因果関係ないし因果律が いつでも基本です。

そして それとは別の思想としては 因果応報説です。善因楽果(善果)と悪
因苦果(悪果)です。

基本の問題としては この《応報》については あくまで主観の内にとどまる
ということです。他人(ひと)と共有することは むつかしい。


★ ~~~~
理を説き、本人がそれを確認(実感)することで、本人が自分で自分を救える
という考え方です。

この考え方は、全ての有名な宗教や教えの中で共通しています。
~~~~~
☆ ですね。つまり 主観の内部で活躍しますが ほかの人とその主観内容を
同じくすることは むつかしい。原因や結果についての認識が 基本的に――
自己にとっての位置づけや意味合いにおいて――異なるはずだからです。



★ ~~~~~
「不幸な出来事は、確率が低いものであると感じてしまい、
自分には生じないと思い込む勘違いがある。
・・・
困ってないように見える人達は、単なる経験者であり、
何とかしてそれらに対処した立派な人であるというだけだ。

知識として知っているだけでは、智慧(予防や事後対処処理)を生まない。

いままでこれだけの経験者がいたということを無視していたのに気がついただ
ろうか」
と言うことじゃないでしょうか。
~~~~~~~
☆ つまり キサーゴータミーは 気が動転していたということですか?

もしそうなら 当たり前の話です。それが 何で説話になるのか? です。お
かしいと なおうたがっています。

お礼日時:2017/10/09 15:27

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