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たとえ、神々の如き強い心を持ったとしても、安らぎには至れない。ただ、しなやかな直き心こそが、安らぎに届くこととなる。

以上のような感じの言を聞いたことがあるのですが、しなやかな心とはどのように獲得されるものなのでしょうか。

思うところをお寄せください。

質問者からの補足コメント

  • 交流分析について、更に少し調べてみました。人生脚本という記述があり、なるほどなと思いました。いろいろと思うフシがあり、中々に役立つ知識だということがわかりました。それだけで全てに説明がつくわけではないと前置きしてあるのも好感が持てました。役立つものを紹介して下さりありがとうございます^_^ノ

    No.15の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/08 17:59
  • 皆さまご回答ありがとうございました。
    今回のBAは、私の頭では思いつくことができなかった回答を、BAとさせていただきたいと思います。

      補足日時:2016/02/11 00:26

A 回答 (17件中1~10件)

自然の性分というものがそれぞれにあって、おのれもまわりもそれをよく聞き入れて律する。



削ぎ落してしまうとお喋りすることがなくなりますね。。。
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この回答へのお礼

ふふ、そうですね^_^
簡単な趣味の話も、ちょっとした愚痴も、削ぎ落としてしまうと話のきっかけまで失われてしまいそうな気がします。何処か完璧主義的な考えが私の中にあって、こうでなければならない、ああでなければならないと、肩に力が入っていた気がします。

でも、今回、雨合羽さんのご回答は削ぎ落とされたものですが、どんな意図が込められているのか、色々に想像するのも楽しいですよ。
自然の性分として色々に個性付けられている人の性格から世の諸現象。それをよく聞き入れるという事が簡単ではない様に思いましたが、しなやかな直き心にはそれが容易なのかもしれません。その聞き入れた事によって乱れることなく温和な世界を築けたらいいですね。

お礼日時:2016/02/05 16:11

しかし華道の草木ならともかく、


自然の性分ではないものも人間は身につけているわけですから、
置かれた環境や見識の深まり次第で、対処がとても違ってしまう。

心が乱れても不仕合せでも、
神の手で刈り込まれる庭になんてならないほうがいいのかもしれないし、
折れて挫けてしまったほうがよかったこともあるかもしれない。

自分だけが安らげばいいというものではないと思いませんか。
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この回答へのお礼

自分だけが安らげばいいというものではないと思いませんか。とのこと、本当にそうだなと思います。周りも含めての世界であり人生ですから、周りも共に安らげたならそれが最上だと思います。

自然界では、折れてくじけることも常態としてありますが、その様子を哀しみのレンズで覗けば、また人間らしい救いのある解釈も可能に思います。その時、刈り込まれた庭には宿らない生き様と言うものが確かに現れるのでしょう。

育ちによって様々な傾向を身に付けた人々が、其々異なる見解を持つことは当然です。その事によって其々の振る舞いも異なり、齟齬も生まれる。人々の人生の全てをうかがい知る事などとてもできないが、どの様に思えばその齟齬も解消されるのかと言う問題が浮上します。きっと身近に思う事が、その答えであると思うのですが。

お礼日時:2016/02/05 16:22

全ての環境は、自己が成立するための必要(原理的相補)


であり、人は本質的に自由なのです。
そうした本質を認識できず、自己認識(宇宙)を肉体に
限定する時、その低認識(物欲、自己顕示欲、虚栄心etc.)
において生じる自己矛盾によって、環境において“ぶつかる”
のです。

人の自覚は、肉体に付随した感覚器官からスタートするので、
自己中心的な傾向を持つが、その認識の深まりによって宇宙
としての自我(他我)に至る事で、自己の必要としての環境を
自覚化し得ます。
人は、肉体の奴隷として生まれ、その認識の深まりにおいて、
自由(自らに由る。自己=宇宙)となるべく生きるのです。
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この回答へのお礼

自己の相補として存在する環境には、色々の人々との出会いも含まれるのでしょうか?
サイテックスさんのお考えは、今ある自分にとっての答えは既に全て(環境の中に)存在しているものだと解釈しました。
そんな考えも素敵だと思います。人は常々自分には欠けたるところがあると思って落ち込みますが、この考えだと、そんな事はない、あなたの世界がそれを補ってくれる存在だと言われている様な気がします。

お礼日時:2016/02/05 16:28

雨合羽さん曰く、



>自然の性分というものがそれぞれにあって、

なるほどね、「さが」と「わきまえ」がある、それがしなやかな直き心ですか。「さが」は生物としての進化の賜物、「わきまえ」は集団、すなわち、社会や文化としての進化の賜物。だから、進化に逆らわず進化に従うことが、しなやかな直き心、と言うことだと。進化って運命の女神みたいなものなんですかね。だって、彼女に従う者は手を取って導き、彼女に歯向かう者は、前髪を掴んで引きずって行きますから。

まっ、神々なんて言い出して進化に逆らうと、自然淘汰で滅んじゃいますもんね。
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この回答へのお礼

自然の成り行きに任せて、、と思えば、随分と荷が軽くなります。
大きな流れに従って、海流に乗る様に生きるのも、時には必要なのかな。手漕ぎでは、海を渡れないですもんね。

神々とは、何の事を言っているのでしょうね。英雄や軍神の事かなと最初思いましたが、。

お礼日時:2016/02/05 16:34

#4の補足。



おっと、言葉は舌っ足らずでした。「進化」って「成り行き」のことです。だから、そう読んで下さい。
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この回答へのお礼

了解です^_^

お礼日時:2016/02/05 16:34

こんにちは。


海外の神様っぽいですね。

日本の神は万能でなく特化型八百万ですから
神々しいばかりは、ちょっとイメージが違う気がします。

しなやかと言えば、硬い強さは無くとも芯のある強さを感じます。
外は柔らかく芯のある感じ。

植物では柳でしょうか。
哺乳類も、しなやかさを備えているのかもしれません。


しなやかな心

優しさでしょうか。
人を許す優しさ。
これは、芯に強さが無ければ持てない優しさです。

認めるのも、しなやかさに必要と感じます。
自分を認め相手を認め、自らの内外に良し悪しがあろうとも
どれも認めていくのは、芯のある柔らかさ。

開き直りや居直りなどで無く、できれば誰しも見たくない部分を
認めるのは、芯に強さを持ち柔軟になり得ます。
相手をも、柔らかく受け止めることができるでしょう。

愛することも入りそうに思えます。
求めるでは無く(こちらだと欲しているから)
与える愛(これだと持っていると言うことだから)。

自分を十分に愛している人は、人にも分け与える愛を持ちます。
自分を十分に愛してなければ、人に求めることが強く出ます。

自分を愛するって、身近すぎて気がつかない。
故に、愛より攻撃や憎しみや恨みなどを持ち
そう言った、愛を渇望する態度として嫌味や暴言・横柄などが表に出ます。

しなやかさには、愛は必要に思えます。


今浮かんだのは、このくらいですね。
また思いついたら追加します。

あ、おまけですが頭というか心を柔らかくしたら体も柔らかくなり
関節の可動域は上がります。

しかし、毎度難しい質問しますね(^◇^;)
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この回答へのお礼

勇気の出る回答をありがとうございます^_^

ここで言われる神々は、帝釈天や軍神?のことでしょうか。少しわかりませんが、ダイヤの様に堅固な心を持っているので人間ではないのでしょう。

そうですね〜、芯のある感じ、です。
難しいです、実際にそうあって、自他を認めて生きていくのは。気に食わないこともありますからね。でも、しなやかな心を思うだけで、スッと気持ちが楽になるのは不思議ですね。それが答えである事を証している様です。

自己肯定も大切だと思います。不意に傷つけられた時にも、その心ない行いや言葉を否定して自己を保つのは、自己肯定です。

昔、子供の頃、兄弟喧嘩でクソミソに言われる事もありましたが、今思えばその力、つまり自己を認める力が、容易にその言葉に対処できる心を養っている様に思えます。

頭や心がリラックスすれば、もちろん身体もリラックスしますね。分かります。

この度の質問は、思春期頃から時々考えている事でした。カントアイさんや皆さんに回答頂けて助かっています。

お礼日時:2016/02/05 16:48

こんにちは、あふぉなさん。





自分の歴史と自分の今(の環境・状況) 
が交わる点 に没頭していると
自然にしなやかな心 になるんぢゃないかな。



しなやかな心の持ち主は、
どっぷり喜びどっぷり愉しみ、また
どっぷり凹みどっぷり悲しみます。



谷底がイヤだからといって
山を削って谷を埋めて平地にしたのでは
ちっとも心豊かぢゃないですから。



また、悲しみや絶望を【保留】にして
淡々と生活を送るべきときと、
新たに行動を起こして
気持ちを切り替えるべきときがあり、
その判断ができるのも
しなやかな心を持っている人です。





例によって
回答者がそれができているかどうかは
秘密です。^^;
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この回答へのお礼

ニュートラルさんから頂くご回答は何時もダイナミックですね^_^

山と谷の喩えなど思わず笑みがこぼれました(o^^o)
また、しなやかな心のクールな側面の事も述べていただき、なんと言うか、ニュートラルさんの描く良い心の状態と言うものが良く伝わった気がします。
ありがとうございます。

日常の中では、ちょっとイラついたり、ちょっとホッとしたり、惰性で進んでみたり、それなりに自制して見たり、そんな中で、想いは常に羽ばたこうとしていたり。
それで良いって思う事もあります。

お礼日時:2016/02/05 17:13

PS. 7番です。

どうでもよい追記です。



夏になると息子が毎年トノサマガエル
を捕まえてきます。

カエルがエサ(生きている昆虫)
を食うときの姿は本当に素敵です。
ご覧になったことがありますか?
きっと惚れ込みますよ。



華麗にジャンプする前に 
縮むんです。(*´▽`*)


しなやかだなあって思います。
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この回答へのお礼

カエルですかー。子供時代を思っても、あまり記憶にはありません。田んぼの無いところで育ったので、。

飛ぶ前に縮むんですね。呼吸を置くと言うのもいいかも。

お礼日時:2016/02/05 17:16

お礼ありがとうございます。



>難しいです、実際にそうあって、自他を認めて生きていくのは。気に食わないこともありますからね。

ですよね〜。
認めたくないですもんね。

それを詳細に沢山何度も書き出して「ケツの穴、っ狭!」とか
「うわっ!器小せぇ!」とか笑えたら、結構感じるものがあるかと
思います。


>でも、しなやかな心を思うだけで、スッと気持ちが楽になるのは不思議ですね。それが答えである事を証している様です。

すごいですね。
気持ちがそちらへ行きたがっているのが解るとは。

スッとなるのは、自分が真に求める方向だと私は理解しています。
行きたい方に行けば、その先がずっと楽になりますから。
泥濘でもがき続けるより、歩ける方が好きですね。
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この回答へのお礼

少し時間が経って落ち着けば、色々と自分を省みる事も可能ですね。しかし当にその時にはにちょっと燃えてしまうこともあります。動じない心、欲しいですね。別に木石の様になりたいと言う訳では無いのですが、ちゃんと落ち着いた状態を維持したいものです。

もがいているよりも、歩ける方が、私も好きです。そして出来るなら、晴れた日に歩いていたいですね。雨も嫌いでは無いですが、心は晴れてる方が良いです(o^^o)

お礼日時:2016/02/05 23:32

「さが」と「わきまえ」、猪突先生は粋なお方ですね。

それでもって自然界の進む向きの話になさるのですから、文学の女神が付いた神懸かりの物理屋さんなんですね。
数学の神が一番しなやかだと思っている物理屋さんも一杯いるんでしょうに、いやいや都々逸のほうがしなやかだなんておっしゃりそうじゃありませんか。
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この回答へのお礼

ほんとですね^_^
さがもわきまえも平易でいてしかし日本語らしい?ナイスチョイスだと思います。

数学の神が一番しなやか、、学問始め自分の何かの分野を得意に修めた人には、それぞれにお気に入りの神があるのかもですね。
それにしても文学の女神のついた物理学者ですか、、猪突さんは喜びそうですね^_^

お礼日時:2016/02/06 18:22

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