電子書籍の厳選無料作品が豊富!

1. さとりとは 苦から解脱した境地を言う。苦とは 解脱しえず さとり
を得ていない状態を言う。――という説明のほかに ありますか?

2. 法華経で シャーリプトラが説明を乞うたときには それを明らかにす
ると 人びとは混乱に落ち入るから 言わないと語っています。

3. 人びとの生活がくるしいので よき境地があるのだということを たと
えマボロシ(大化城)であっても しめしたのだという説明 これも――これ
は 良心的ですね―― しています。

4. 二千有余年 マボロシを追っているのでしょうか?

5. ブディストは 説明をする義務があるのでは?

▼ (ゴ―タマと悪魔との対話) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 〔* ゴータマのかつて語ったことを悪魔がそのまま引用するかたちで〕

 ――悪しき者(=悪魔)よ。わが修行僧である我が弟子どもが 賢明にして
 よく身をととのえ ことがらを確かに知っていて 学識があり 法をたもち
 法に従って行ない 正しい実践をなし 適切な行ないをなし みづから知っ
 たことおよび師から教えられたことをたもって 解脱し 説明し 知らしめ 
 確立し 開明し 分析し 闡明し 

 〔* 次が 大事です〕

 異論が起こったときには 道理によってそれをよく説き伏せて 教えを反駁
 し得ないものとして説くようにならないならば 

 その間は わたしはニルワーナに入りはしないであろう。

(中村元訳『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』1980 p.69 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

A 回答 (10件)

生まれつき備わっているブッダターとは、その種(たね)の事。

発芽させることで生きてきます。意味を生じます。

誕生。
これを発芽と認識します。

まずは自己形成。
自我に依ります。

自我に依る自己形成の、その時からブッダターの”引力”が徐々に働いてきます。
ブラジュロンヌさん風に表現すれば”他者を思いやる気持ち”の目覚めです。

それによって自身の心に我、のみならず他者の心が現れます。
そこから、心に思いを馳せて釈尊は四諦八正道という理的境地にたどり着きました。

この四諦八正道の実践なくして”悟り”の世界には入れないと思っています。

思うに、悟りの世界とは理的にも情的にも”迷いのない心”と云えるのではないでしょうか。

達観。
これは凡人の境地。
喜怒哀楽は無くなりません。

悟り。
理的には宇宙の理(ことわり)を知ること。
情的には母の御胸に帰入(帰趣)すること。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 自我 
☆ は はっきり嫌いですが あとは おおむねその行き着くところ
として 分かりますし 互いに同じような場にあるのだと思います。

ただし ただしですね コメントを書くとすれば 全体的にところど
ころを わたしの自己表現としては書き直すことになります。

といった感じですかね。まづは あらましのお応えとして。





★ 生まれつき備わっているブッダターとは、その種(たね)の事。発
芽させることで生きてきます。意味を生じます。
☆ 《発芽 さ・せ・る》というところが 気にくわないですね。

思考に非ずなる庭に起きることは 人間の意志も知性をも超えたハタ
ラキに拠っていると思います。



★ 自我〔☆ わたし・おのれ〕に依る自己形成の、その時からブッ
ダターの”引力”が徐々に働いてきます。

★ ブラジュロンヌさん風に表現すれば”他者を思いやる気持ち”の目
覚めです。
☆ でも 自分がいちばんかわいいはずですよ。誰でも。

★ それによって自身の心に我、のみならず他者の心が現れます。
そこから、心に思いを馳せて釈尊は四諦八正道という理的境地にたど
り着きました。
☆ えっ。《苦》は どこから来たんですか?

★ この四諦八正道の実践なくして”悟り”の世界には入れないと思っ
ています。
☆ でも この四諦というのは さとりという家本体のまわりに組み
立てた足場であるに過ぎない・・・のでは?

★ 思うに、悟りの世界とは理的にも情的にも”迷いのない心”と云え
るのではないでしょうか。
☆ では 《迷い》を大きく広く包み込む心は どういう位置づけに
なりますか? 

つまり 迷いがわが心に起きているのを知っている。そしてそれをわ
が心は 大きく受け容れていて おさめている。といった状態です。

★ 達観。
これは凡人の境地。
喜怒哀楽は無くなりません。
☆ えっ? 喜怒哀楽は なくならなくてよいのでは? これをいま
言ったように やわらかく包みこんでいれば 問題ないのでは?

★ 悟り。
理的には宇宙の理(ことわり)を知ること。
情的には母の御胸に帰入(帰趣)すること。
☆ 物理学にくわしくて 能天気な状態が さとりですか?

お礼日時:2017/11/16 21:28

瞑想とは、どの様な心の状態を言うのでしょうか。

また、瞑想をすると、悟りが開けるとはどう言うことなのでしょうか。

 目覚めている時、自由自在にはこの宇宙を体験することは出来ません。五感から入ってきた刺激に基づいて、外界を心の中に再現するからです。しかし、眠っている時、貴方は五感から解放され、自分の欲求・悩み・記憶等に導かれ内界を作り出します。これが夢です。

 夢であっても、花びらの鮮明な色や、その1枚1枚の形を克明に見ることが出来ます。木々の葉っぱの1枚1枚が風に揺れている様を見ることが出来、その葉っぱの擦れ合う音を聴けます。風や太陽の光を感じます。夢の中に出て来た人の声を、はっきりと聴けます。起きている時と全く同じなので、起きているのかこれは夢なのか判断が付きません。

 しかし、眠っている間は、記憶する機能も眠っているので、それだけ鮮明な夢であっても、憶えておくことは出来ません。漠然とした断片的な印象が残っているだけです。

 瞑想とは、起きていて夢を見ることです。起きているので、その夢を自分の意思でコントロールすることが出来ます。夢は、自分の意思とは関係なく進んで行きます。しかし、瞑想では、望む人に出会い、会話を楽しみ、望むものに触ることが出来ます。その感じは、起きている時と何ら変わりありません。また、記憶する機能も働いているので、瞑想を止めてもその事を記憶しています。

 瞑想により、貴方は本当はこの宇宙そのものであったことを悟ります。貴方の心がこの宇宙を作り出していることを理解します。海の彼方を探さなくても、輝くものは私の中にあったのです。 今まで私だと思っていた存在は、私の中の小さな一人に過ぎなかったのです。

 ではどの様にしたら、起きていて夢を見ることが出来るのでしょうか。
 それには、先ず座ることです。横に寝てしまっては、本当に寝てしまうからです。そして、ほんの少しだけ目を開けます。僅かで構いません。眠ってしまうのを防ぐだけで良いのです。

 そして、臍の下10cm位の所を軽く意識します。思考している時、意識は上の方にあります。何かを考えて、意識を脳の位置に持ってくると、瞑想の状態には入れません。何も考えず、全てを捨て去ります。すると、意識は、次第に下に降りて来ます。

 悩みも欲も何かをしなければならないと言う意識も、全て捨て去ります。自分自身も捨てて下さい。何も要りません。何もしません。自分もいりません。瞑想に入らなければならないと考えてもいけません。何かを感じようとしてもいけません。すると、次第に眠くなって来ます。それを、僅かに目を開いて、ただ本当に寝てしまわない様にするだけで良いのです。

 そうしていると、後ろの頭頂部の辺りで、音が響いてきます。その音は、瞑想の都度異なります。私の場合は、ピアノの音であったり、お経の声であったりすることが多い様です。その音に耳を澄ませます。それは、次第に大きくはっきりとした音になってきます。

 すると、今度は、額の中央の辺りで、ひっきりなしに動き回っているものを感じます。大きさは一円玉位です。ウニの様に、何本もの黒い枝が伸びたり縮んだり様々な方向へ向いたりと、不規則に激しく動いています。その動きを妨げてはいけません。思考すると、その枝を操作することとなり、動きを止めてしまいます。それは、動きを止められると消えてしまいます。

 その動き回るものは、全てになります。言わば世界の種です。それに頼り切って下さい。思考することは「自力本願」です。思考を止めて、私の全てをその動き回るものに委ねます。この世界の種に頼り切ることを、「他力本願」と言います。

 その動き回るものに私を預け切っていると、それは次第に大きくなって行きます。その黒い枝の1本1本は、家や木や池や石などあらゆる存在にせわしなく絶えず変化しながら、絶えず動き回る様になります。そして、どんどん大きくなって行きます。

 すると突然、広々とした空間が開けます。今までせわしなく変化していた存在の中に、私が入り込んでしまっています。私は、一瞬にしてそれに吸い込まれました。せわしなく動き回っていた1本1本の黒い枝は、実際にその空間の中で家になり、車になり、木になり、池となっています。 そして、無秩序に動き回っていたその存在は、車として規則正しく動き、木の葉として秩序通りにそよぐ様になります。 私がドアを開けると、ドアは動きます。私の行動に合わせて因果関係通りに、それは動く様になります。今まで、後頭部で鳴り響いていた音は、風の音や人の声となっています。これが瞑想状態です。

 この世界は現実の世界ではないと言う意識はまだあります。しかし、現実の世界と全く変わりません。起きていて、広い周りを見渡している時と全く同じ状態です。風が吹くと髪がゆれ涼しく感じます。車の音も聞こえます。振動も感じます。すがすがしい空気を、深呼吸することも出来ます。  会いたかった人に会うことも出来ます。その人の肌は、ぷよぷよとした感覚があり毛穴まで見えます。話もします。

 瞑想状態に入ってしまうと、もう思考しても大丈夫です。瞑想から醒めることはありません。私は、自由自在にその世界で思考し、活動することが出来ます。この世界は私そのものです。この木も家も宝石も人も、私の欲しいものは既に私のものです。私は、こんなにすばらしい世界を所有しているのです。これが本当の「あの世」です。

 瞑想から醒めるには、その世界で大きく息をし伸びをして、頭を振って眼を覚まそうとします。 そうすると、現実の世界に戻ることが出来ます。
 しかし、目の覚めたこの世界も、私の心が作り出しているのです。 実は、瞑想状態の世界と同じものです。一度、瞑想の世界を経験すると、現実の世界全体も、私の心が作り出したのであり、私自身であることを理解します。

 今まで私だと思っていた一人は、「小さな私」であったことが分かります。感じている世界全体が、大きな私です。
 生きとし生けるものは貴方自身です。ですから、それらに博愛を注ぐことが出来るのです。 他人も貴方自身です。ですから、汝の隣人を愛することが出来るのです。 敵も貴方の一部です。ですから、汝の敵を愛することが出来るのです。
 これが、悟りの内容です。 この世の全ては貴方の物です。ですから、幸福なのです。

詳細は、下記のホームページを参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/meisoutohananika.html
    • good
    • 0

お前は自分が優れていたのならば天地が逆になろうとも、その天地が逆になろうとも、良いとする。


都合が悪ければいくらでも天地を逆にする。お前は良くない。
だから、お前は聖人・君子は理解できない。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

でなくて さとりとは何か? です。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/11/11 15:53

① 憐れみ


お前が憐れみを知らないならば仏陀さんは理解できない。
② 登頂
お前は勘違いしているから登頂は理解できるが仏陀さんのものではない。
③ 慈悲
慈悲の心がないものは仏陀さんは理解できない。

お前は勘違いしている。やめた方が良い。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ① 憐れみ
お前が憐れみを知らないならば仏陀さんは理解できない。
☆ その根拠は? あなたの理解しているさとりの中身をおしえて
ください。


★ ② 登頂
お前は勘違いしているから登頂は理解できるが仏陀さんのものでは
ない。
☆ これは 意味が取れません。


★ ③ 慈悲
慈悲の心がないものは仏陀さんは理解できない。
☆ でも 誰でも 生まれつきブッダターがそなわっていますよ。

お礼日時:2017/11/11 15:44

「我本行菩薩道」「我常在此娑婆世界説法教化」



これは、久遠実成の釈尊ですが、始成正覚の釈尊と弟子たちと現世の衆生は常々久成の釈尊のがんばれという励ましを受け止めながら、化城(現実世界の目的・目標)に向かって日々歩んでいるのではないでしょうか。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 始成正覚の釈尊と弟子たちと現世の衆生は常々久成の釈尊のがんばれ
という励ましを受け止めながら、化城(現実世界の目的・目標)に向かって
日々歩んでいるのではないでしょうか。
☆ それが さとりですか?

お礼日時:2017/11/11 15:34

まだ全部読んでないので、なんとも…なんですよ


ごめんなさい

その本については、「悟りを得なくともよい『悟り』」というわけではなくて
一般の人はそこまで悟りにこだわってないですよね
マインドフルネスとかに興味がある人は。
瞑想を生活に取り入れて、心身を健康にしたいだとかストレスフリーになりたいとか、そんな感じですよね
だとしても、仏教における「悟り」について知っておいたほうがいいという本なんですが
上座部がお嫌い?でしたら関係ないかも
魚川裕司の著作はブッダの思想について詳しいのですが
初期経典を元に解説しているので
やっぱりお好きでないかも

ちなみに私は自分を仏教徒とは思ってるわけではないですし
(墓参りも法要も行くんですが)
法華経は苦手な感じです
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ その本については、「悟りを得なくともよい『悟り』」というわけ
ではなくて
☆ あぁ そうですか。でも この質問にかんするかぎり そのように
受け取りますね。そういう可能性があるということで そう進めておき
たいとは思います。



★ ~~~~~
一般の人はそこまで悟りにこだわってないですよね
マインドフルネスとかに興味がある人は。
~~~~~~~
☆まぁ いづれにしましても ここは・いまは 《さとりとは何か?》
になると思います。




★ 瞑想を生活に取り入れて、心身を健康にしたいだとかストレスフ
リーになりたいとか、そんな感じですよね
だとしても、仏教における「悟り」について知っておいたほうがいい
という本なんですが
☆ さとりの一部あるいはそれによって得られる効用 であるかも分
かりません。いづれにせよ 基本を問いたいと思います。




★ 上座部がお嫌い? でしたら関係ないかも
☆ 嫌いですが ここは好き嫌いの問題ではないことも ほんとうで
す。



★ 魚川裕司の著作はブッダの思想について詳しいのですが
初期経典を元に解説している
☆ さとり観を知りたいです。


★ ちなみに私は自分を仏教徒とは思ってるわけではないですし
(墓参りも法要も行くんですが)
法華経は苦手な感じです
☆ それは かまわないですし けっきょくあくまで哲学の質問とし
ての問題になると思います。

お礼日時:2017/11/11 13:01

全部は答えられないのですが


よろしいでしょうか?
法華経が出てくるので法華経の話とまた違うのですが…

上座部仏教では悟りに至る修行を体験できるところがありますよね
今ではマインドフルネスなんかも流行ってますけど
仏教では行学ということを言うと思うんですが
修行と勉強することと、両方必要なわけですが
その修行所によって、瞑想ばっかりしてて、あまり理論をやらないところとか、その逆とか
メソットは素晴らしいけど、指導者の人格がひどいとか、なんかいろいろみたいで
しかも、その「悟り」の概念、定義が、実は一つではないんだそうです
まだ私も途中までしか読んでないのですが
「悟らなくたっていいじゃないか 普通の人のための仏教 瞑想入門」(魚川裕司と僧侶の対談)という本にありました
もし法華経について知りたいのだと
関係ない話になってしまいますが
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 上座部仏教では悟りに至る修行を体験できるところがあります
よね
☆ 上座部は たとえさとりを得たとしても 自分独りだけの問題
だとするのでは? つまりは ほかの人や社会には つたえない。


★ 今ではマインドフルネスなんかも流行ってますけど
☆ この場合は 広告宣伝しているようですね。

《実況中継》というあれですね。

いづれにせよ 《さとり》とは何か? この問いに絞り込みたいと
考えますが どうでしょう。



★ ~~~~~~~
仏教では行学ということを言うと思うんですが
・・・中略・・・
しかも、その「悟り」の概念、定義が、実は一つではないんだそう
です
~~~~~~
☆ そのいくつかある中から よさそうなのを紹介してみてくださ
い。

みんなダメかも ではないですか? だって 二千年ですよ 肩透
かしは。



★ 「悟らなくたっていいじゃないか 普通の人のための仏教 瞑想
入門」(魚川裕司と僧侶の対談)という本
☆ なるほど。《〈さとりを得なくてもよい〉というさとり》です
か?

どうなんでしょうね。それで 一般にみとめられましょうか?

その内容に 普遍性がありましょうか?

みなさんが みとめるということでしたら 考えてみなくてはなり
ません。

お礼日時:2017/11/11 12:27

No.2です。


お礼を読んで、無駄に感じますので、お答えしません。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2017/11/11 08:26

>>5.ブディストは 説明をする義務があるのでは?



実際にはありえませんが、例えば「数学の2次方程式を18歳以上の人はすべて理解しなければならない」という法律があったとします。
となれば、2次方程式の解法を説明したり、教えることは、良いことであり、数学教師にとってはなんらかの義務が課せられるでしょう。
とはいえ、1桁の足し算、引き算を習っている小学1年生に、2次方程式の解法なんて教えても無駄ですよね?
やはり、その人が理解できる状態になるまで待たないといけません。

ゴータマ・ブッダは、悟りを得たとき、「この悟りを人々が聞いても理解するのは無理であろう」として人々に教えようとは考えませんでした。
でも、梵天に「他の人々にも伝えてほしい」と懇願されて、布教活動を始めました。

しかし、最初に伝道した人(旅の商人か?)には、バカにされて失敗しました。
でも、彼と共に修行しながらも、彼がミルク粥を口にするのを見て、「彼は堕落した」として離れていった修行仲間は、さすがにブッダの後光を見ることができたみたいで、すぐにブッタが悟りを得たことが判ったといいます。

ですので、たとえ教える義務があったとしても、その教えを受け取る側の受け入れ準備ができてない時には、説明しても無駄となります。
そして、多くの日本人は、2次方程式を学ぶのじゃあなく、1桁の足し算を学んでいるレベルと思えますから、多くの場合、説明しても無駄になりそうに思えます。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ >>5.ブディストは 説明をする義務があるのでは?
★ とはいえ、1桁の足し算、引き算を習っている小学1年生に、2次方程式
の解法なんて教えても無駄ですよね?
☆ いいですか。問題が 微妙に違うのです。その微妙の差で 天地の違いが
生じています。

いいですか? そのような数学の問題は 解ける人がわんさといるのです。あ
るいは 一人いて それが検証できる人が もう二人いたら 《答えが分かっ
ている》となるのです。

ここでの問題は 答えを知るひと・また説明できるひとが 誰もいないという
ことにあります。



★ ゴータマ・ブッダは、悟りを得たとき、「この悟りを人々が聞いても理解
するのは無理であろう」として人々に教えようとは考えませんでした。
でも、梵天に「他の人々にも伝えてほしい」と懇願されて、布教活動を始めま
した。
☆ だから? つまり 梵天は分かったという証拠がありません。



★ ブッダの後光を見ることができたみたいで、すぐにブッタが悟りを得たこ
とが判ったといいます。
☆ ですから そのときの《判った》内容をしめしてください。そういう問題
です。



★ ですので、たとえ教える義務があったとしても、その教えを受け取る側の
受け入れ準備ができてない時には、説明しても無駄となります。
☆ どういう根拠で あなたは そう言えますか? 上に述べた問いに答えて
からにしてください。

いやいや そんな面倒なことは いいですから そういう問題の側面があると
したら いままでに・あるいはいま 答えが分かっている人はいますか? い
るとしたら その人のただしさ〔と言いましょうか〕は どのように分かるの
ですか?

たとえば独覚ということが説かれています。そのさとりの中身は分かりません
し 果たしてさとっているのかどうかも 一般には分かりません。ですから
それは 独り善がりのさとりではないかと疑われても おかしくないのです。



★ そして、多くの日本人は、2次方程式を学ぶのじゃあなく、1桁の足し算
を学んでいるレベルと思えますから、多くの場合、説明しても無駄になりそう
に思えます。
☆ すでに述べたように 問題の捉え方が違うということ。そして あなたは 
どうしてそのようなことが言えますか? という問い返しを持ちます。

お礼日時:2017/11/11 07:59

祈りなさい。

    • good
    • 2
この回答へのお礼

はい 分かりました。



と受け留めますが そうしたら どうなりますか?

さとりとは何か? の答えが ほんとうに 得られますか?

つまり これまでにも 何億人もの人が そうして来たのでは
ないでしょうか?





ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/11/11 07:46

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す