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【死海文書】より
『キリストの信仰が少ない東の国から、救世主現る。』

という予言が、あったそうですね。
しかし、日本だとは限らない。でも、限りなく大きい確率で日本ではないかと憶測されています。

日本もまた、紀元前から全てのものに魂が宿るという八百万の神々が息づいています。神を信じる者に、行いを間違う者がいれば、正しき愛への道を歩む者もいますよね。

しかしキリスト教、聖書は、主以外のものを崇拝する『偶像崇拝』は好ましくない、悪魔の教えだということを説き、万物は神が作ったものであるが故、創造主であるものにだけ感謝すべきだと主張しています。

しかし、日本の古神道信仰は、そのような経典がないが故、思想は人の心の思うままに、キリスト教の教義や聖書にはないものを埋めるような形で存在しています。

生きるための食べ物や衣類の源を生み出す神に感謝するのは当たり前だが、その衣類や料理は人によって作られること、そして食べ物は人のために命を落とした生命が与えたものであることを忘れて、神を語ることはあってはならないと考えております。

八百万の神は、遠くにいる神に対する感謝だけではなく、自分の周りにある、自分が必要としているあらゆるもの(生物や物関係なく)にも感謝すべきだと説いています。

私はキリストを愛す者であり、同時に随神の道を歩み、日々救いと成長を求めて歩む罪人です。

神に愛されるには、周りのものを無視してはいけないと考えています。

皆さんは、キリストや八百万の神に対してどのような考えをお持ちですか?たくさんの回答をお待ちしております。

A 回答 (8件)

モンゴル帝国がイスラム帝国に侵攻したとき、ヨーロッパでは東の国から救世主が来たなんて言われましたね。


その後東欧の人々は命を代償に勘違いに気づくことになります。

本題ですが私は神が宇宙全体を見守る大きな存在だと考えています。
一惑星の出来事など気にも留めない。

八百万の神の考え方は限りある資源を奪い合う愚かな行為を避けるため工夫。
宗教は見知らぬ者同士である程度統一の価値観を保有し、無駄な対立を減らすための知恵。
これが私の考えです。
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人が信じる者は尊重する


たとえ自分に合わなくても

これを目標にしています。

あと、その予言については、いろいろな解釈ができます。
べつにパルティアでもインドでもいいですし、当時の地理感覚からすればその方がはるかに自然です。
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ほんとに死海文書にそんなこと書いてあるんですか?


まずそこが疑問なんだけど…
ましてやそれが日本だなんて
死海文書成立時には、あのへんの人々は日本のことなんて知らないでしょーし…

私は仏壇と神棚が両方ある家に育ちましたけど
基本的には八百万の神を信じてますね

私の個人的な考えなんですが
何か宇宙の全てを統括するような神さまがいて
それがキリスト教やイスラム教の神さまである

でその神さまの一部、あるいは天使的ポジションが
日本の八百万の神々なんじゃないのかなーと思ってます
古事記にも、宇宙の始まりの話がありますよね
宇宙を作った神さまがキリスト教の神かもしれない

神さまの存在は、もちろん人間に全て理解出来るわけはなく
神さまに出会ったり感じたりする人間によって、その姿性質は
違ってしまう…
とても大きなものの、一部しか見えないとしたら
目撃者の証言がまちまちになるように

だから
目指す頂上は一緒でも
違う道を歩いている、のではないかと思うのですが
まあほんとのところは神さまにしかわからないんですけどね

偶像崇拝については
神道は、むしろ偶像崇拝ですもんね
キリスト教やイスラム教からしたら
間違ってることになるんですが
でもキリスト教でもカトリックは
「像や絵があっても
別に像や絵を信仰してるわけではない」
ってことになってますよね
それをプロテスタントは批判するんだけど
イスラム教からしたら十字架に祈るのも偶像崇拝で
どちらも偶像崇拝
プロテスタントも絵本や宗教画とかはいいみたいですね
イスラム教はお皿なんかにキャラクターの絵がついてるのもダメらしいですよ

仏教では禁止はされてないけど
お釈迦さまが
「偶像崇拝は意味がないよ」
と言ってるらしくて
確かに意味はないですね(笑)
でも浄土宗開祖の法然は
「だけど、なかなか、なんにもないところに祈れないよね」
と言ってるそうで
私はそういうゆるい感じが好きです
だからキリスト教でもカトリックが好きー
異教徒からしたら、聖人とかいっぱいいるほうが楽しいし
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この回答へのお礼

死海文書については、調べてみると色々分かりますよ。やはり救世主が日本人であるかは賛否両論ありますが、伊勢かどこかにヤハウェが祀られているといった文章も、ネットで調べるとたくさん出てきますよ。

プロテスタントが聖書に忠実なのは評価するところですが、カトリックの偉業を成し遂げた人を聖人として立てたり、聖母マリア像に祈ることを良しとしているところも、闇雲には否定できません。

マリア様は神様のお母様なのですから、神道的に言えば、マリア様は神様なのです。

しかし、聖書の正しい教えは、キリストは神であり人であるというように、マリア様はキリストを妊娠するまでは神との直接の関わりを持たなかった処女であり人間だったことは、完全否定できないのです。

マリア様は、神様の妻ですが人間であるため、神道的な位置付けが微妙なのです。しかし、生きていればの話。マリア様はもう既にお亡くなりになり昇天しているから、天で神に神として迎え入れられたなら別ですが、聖書にそのような記述はありませんでした。

キリストの位置付けで近いものが、やはり天皇。神が生んだ子孫であり、この世に降り下る。しかし、そんな天皇は地上で荒ぶり、日本の民を死なせましたがね。

お礼日時:2018/02/20 13:14

死海のほとりは、一神教が生れた地です。


当時のあのあたりの人にとって、東方とは、せいぜい現在のイラクからインドあたりでしょう。
もしかしたら、メソポタミア文明が栄えた、イラク・クエート地域かもしれません。

ヨーロッパからみた東方、オリエントも中東地域のことです。
極東の日本はあまりに遥かな地であって、古い時代のヨーロッパの眼中にはありません。
日本はせいぜい、中国にとって東方であっただけです。

そして、多神教という意味では、当時の世界のほとんどが多神教です。
一神教はギリシャ神話をはじめとする多神教の克服という意味で生まれてきたものです。
ですから、一神教にとっての邪教、異教徒というのは、多神教すべてです。

日本の八百万の神も、世界中にある多神教の一つにすぎません。
死海文書の文章を、遥か極東の日本と結び付けて考えるのは、あまりに古代の世界観を無視した、夜郎自大な発想です。
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この回答へのお礼

それが普通の人間であれば、知り得なかったかもしれません。しかし、本物の預言者がいるとするならば、遥か彼方に見える日本の存在にも気づいているかもしれません。

一神教は多神教を排除するために生まれたのではなく、人が多神教を排除するために一神教を利用しただけであり、聖書は決して多神教を迫害せよと命じた訳ではありません。

あらゆる神は、一神教であろうと多神教であろうとそれを信じる者にとっては全て真に映ります。しかし、それが人を貶め傷つけるものではあってはならないとしています。

多神教が邪教に映るのは、逆に支配を恐れた多神教を信じる者による一神教の排除が目立ったからです。これにより、多神教を信じる者は凶暴という概念がキリスト教徒の間に持ち込まれ、イエスの意図しないところで多神教の排除が行われたのです。

十二使徒はほとんど異教徒の暴君により命を落としました。しかし、十二使徒が押し付けがましくキリスト教の教えを説いたからではありません。十二使徒もイエスも布教が必ずしも上手くいくとは思っていませんでした。キリストという素晴らしい神の子がいるから是非付いてきてほしいと。それだけ。しかし、彼らを邪教と見なす異教徒たちにより、結果的に、どちらも滅ぼし滅ぼされの結末を迎えたのです。

キリスト教が分断される前の宗教であるユダヤ教のユダヤ人によって迫害され、ユダヤの罪を背負い十字架にかけられたイエスが、迫害された側の気持ちを分からない訳がないのです。ユダヤ教徒にとっては、イエスを救い主とするキリスト教は邪教であったのです。

日本にも、キリスト教=異端者とみなされ禁止令が出されたように、沢山の隠れキリシタンが追いやられ、殺害されました。その生き残った一部のキリシタンが、今日の日本のキリスト教を作り上げました。

お礼日時:2018/02/20 15:01

聖書の世界には日本どころか中国、インドあたりも認識されていません。


創世記を読むとよくわかります。
”世界”は水没し、箱舟に乗らない陸上生物は全滅したことになっていますが、アジアのほとんどの地域にはそのような跡がありません。縄文人も中国も水没していません。
つまり、聖書の”世界”とは地中海周辺の狭い地域なのです。
”東の国”とはせいぜいインドまでではないでしょうか?
また、死海文書のAD1世紀の時代は日本は弥生時代です。
まだ日本神道は成立していません。
それ以前の”土偶”信仰を部族ごとに崇拝していたのでしょう。
当時は文書も極度に少なく”八百万の神々”信仰が海を渡って外に伝わり、
大陸を横断したとは考えにくいです。
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日本人からすると


マリアさまを崇めるのは自然な感じですよね
何しろ、人間が神さまになっちゃうのもよくありますし(笑)

カトリックのほうでは
「聖母マリアに原罪があるのかないのか」
という論争があり
千年くらいかけて
「ない」ということに落ち着いたそうです
だからカトリックの考え方だと
最後の審判を待たずに天国にいらっしゃるのではないでしょうか

死海文書は肝心なところをバチカンが買って
門外不出にしてるとかいう噂がありますね

ちょっと検索したけど
日本語とヘブライ語が似てるとか…
そんなこと言ったら
それくらいの類似はいろんな言語にありそう
イタリア語の「家」が日本の「傘」と同じ発音とかね

天皇以外にも、統治者が神の子孫というのも世界各国にいくらでもあるでしょうし

カトリックでは「聖書は人間が書いたものだから間違ってる可能性もあるね」
って考えなんですよね
普通に考えたらそうだと私は思うんですけど…
でもプロテスタントのにとって
聖書は絶対的なものだし
カトリックの考え方だと、人間が勝手に神について解釈してしまう危険性もあり
それでカトリックはかつて、あれこれ間違いをおかしましたね

死海文書だけてなく
異端とされた福音書もありますしね
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キリスト教は一神教、八百万はイエスキリストは入っていない、八百万を捨てるしかない。

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この回答へのお礼

捨てられません。

お礼日時:2018/02/21 15:33

クムラン君たちのいた頃はまだ地球は真っ平らで太陽が東の端っこから湧き出てきたようなイメージだったからとりあえず東って書いとけば誰もそんな暑そうな所に興味がわかなかっただけじゃないの。

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