限定しりとり

1. そして 虚数とは その名のとおりに想像力の世界なのか?

2. まづ すべては 推測がゆるされるとしたらのお話です。

3. ( あ ) 虚数は 現実とどうかかわっているのか?

この問いから出た考え(推測)ですが その名のとおりに:

4. ( い ) 虚数とは 《想像をめぐらしたその観念の世界》である。

と言えるものであるのか? 

5. (う) しかも 《わたし》は この想像なる虚数の世界を持つとすれば
全体として 複素数なるかたちで生きている・・・のだろうか?

        *

6. 背景事情に触れて 趣旨説明を述べていきます。

7. まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。

8. たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさ
らですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二
つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。

9. ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?

10. たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情
況は相手からその答えを求められ決断をも迫られている段階ではあるのですが 
どういうわけか(つまりこれが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実
数としての意志決定をしぶっている。

11. つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては不
確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗
った小世界( bi )とで構成される複素数( a+bi )としての実態である。
――ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか?




12. いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて もはや実数とし
ての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう? 

13. いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになりま
す。すべては 想像をめぐらしつづけている。・・・と言えばまだ恰好がついて
いるかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらには
その猜疑心が敵対心にまで広がっているかも分かりません。

14. もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておの
れの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが
わたしする》動態であると見ます。

15. 言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その
自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。 

16. 《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として・つ
まりやはり一でありつつ また多少そこから脱線しても元の一に戻りつつ生きる。
1 ^ n = 1




17. ところが 現実は 複素数である。かも知れない。虚数の動きが 心に
忍び込んで来るのかどうなのか 起きる。おまけに《一》から脱線したときには 
元のわたしの動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの
悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数な
る想像一色の世界となる。《壁抜けの世界》がひろがっている。

18. 自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがっ
て意志表明も できない。できなくなる。代わりに ひょっとするとその想像力
をたくましくしてあたかも巨大な繭の中にあそぶかのような時空間をすごすとい
うことかも知れない。
 
19. もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数が消えてゼ
ロになり 虚数のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?

20. 《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一(いち)( -1 )と
なる。
 a + bi →〔 a = 0, b=1 〕→ ⇒ i ^ n = i or -1

21. これでは 社会における交通(まじはり)が成らない。成し得ない。

22. という仮説を得ました。ご教示ください。




23. 悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日
本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源
はあるのではないか?

24. つまり 《さとり》についてのゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限
に造り出されていはしまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるのですよ。
――かさねて ご教示を願います。

A 回答 (17件中1~10件)

この、減衰に関しては、材料学、機械工学のひとにとっては重要なものになります。

一回振動して、どれくらい振幅が減衰するかは、材料をつくるひとにとっては、どのように作れば、目的とする減衰率をもつ材料が作れるかを、機械工学のひとは、車に乗っていて心地よいバネの減衰率はどうであるべきか、など考えます。

理想的なバネを考えるのは、どんなに現実的でなくても、やはり基準として有用です。


わたしがバネの単振動をアタマのなかでイメージして、まずは、錘の動きに着目するのですが、釣り合いの位置を通りかかるときの錘の最大速度を測定するよりも、最大振幅点をみるほうがより簡単なようにみえます。

A の位置が分かれば、その値をもちいて、関係式から v の最大値を求めます。

そのうえで、連続写真を撮ってみて、各部分の平均の速度を測る方法を考えるかもしれません。


ここでは、振幅A をマジメに測るか、最大速度v,max をマジメに測るか考えていますが、あるいみ、どちらが簡単で精度が保証できるだろうか選択しているように思います。

どちらも、私の見るイメージであり、仮象でもあり、あるいみでのここでの真実(エネルギー保存則)はそれらの動態をもっともらしく理解する基礎として利用しているようにおもいます。

エネルギー保存仮説、といったほうが良いでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ ここでは、振幅A をマジメに測るか、最大速度v,max をマジメに測る
か考えていますが、あるいみ、どちらが簡単で精度が保証できるだろうか
選択しているように思います。
☆ 《測る》んですか?

振幅 A は 測るまでもなく その位置を見届ければ 分かるというような
気がします。

最大速度は 計算式はつくれないのですか?


ピンと来ませんが:
★ エネルギー保存仮説、といったほうが良いでしょうか。
☆ なんですかぁ。

お礼日時:2018/06/17 17:39

ばねの単振動をみるとき、最初は上下に振動する錘の動きに目が行きます。



この錘の運動エネルギーは、0 と 1/2・m・v^2 の間にあると考えます。(ただし、v の値もはっきりわかっているわけではなく、ただ、ばねに錘をぶら下げた釣り合いの位置を通過するときが最大の速さになっている、という観測のみです。)

ばねを振動させずに、静かに錘を吊るしたとき、ばねそのものの長さと、質量 m, 2m, 3m, 4m と吊るしたときのばねの伸びは長さとして計測できます。質量(m)の錘を吊るしてバランスが取れたときのばねの伸び(x)を測って、mg - kx = 0 から、バネ定数(k)が求まります。k = mg/x

ばねが釣り合いの位置から A まで伸び、あるいは縮むときに、ばねに蓄えられているエネルギーは 1/2・k・A^2 と考えられます。

バネと錘が単振動しているとき
釣り合いの位置を通過するときのバネに蓄えられたエネルギーを 0 として、このときの運動エネルギーが 1/2・m・v^2
バネが単振動をして、錘が最上点、最下点にあるとき、一瞬おもりの運動が停止しているので、運動エネルギーが 0 で、バネに蓄えられたエネルギーは 1/2・k・A^2 と考えられます。

もし、いろいろな摩擦が無視できるようなものならば、この単振動は永遠に繰り返されます。(あるいみ、運動学的なイデアのような気がします。)

この理想的な単振動がずっと繰り返すならば、運動エネルギーがバネに蓄えられたり、蓄えられたばねのエネルギーは運動エネルギーに変換されたりを繰り返します。

摩擦がなければ、あるいは、このエネルギーを外部に使用しなければ、ずっと保たれているので、

U = 0 + 1/2・k・A^2 = 1/2・m・v^2

が保存されていると考えます。バネの単振動を観察して、振幅A と最大速度v のどちらが測りやすいと思われますか。
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この回答へのお礼

振幅は 減少して行き やがてゼロになる。止まる。

振幅は 錘にかかるチカラに応じて決まるのでは?

振幅のあいだを動く速度は 平均速度として分かる。
けれども 最大速度は どうやって出すのか。が分かりません。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2018/06/17 17:11

正五角形の作図をひとりで考えた、と言っても、ガウスさんの正十七角形の作図について、数学の本を読んでいたからなのですが、特殊な正 n 角形の作図すべてができるとも限らないからです。



正七角形の作図に関しては、アルキメデスさんの方法があるらしいですが、まだ理解できていません。力ずくで求めるには、初項 1/8 公比 1/8 の無限等比級数を考えれば、自分の作図技術に応じてその限界まで近づけることができる、と言えますが、継ぎ足しの継ぎ足しを繰り返して正しい値に近づけていく近似法でしかないとおもいます。

オイラーさんの式で、ありとあらゆるわたしの取りうる方向が保証されているだけで、幾何学的にどうアプローチしてよいかはわからない、と思います。

オイラーさんの式の不思議さは、三角関数の性質をよく知って、自然対数の底として用いる e の性質を知って、その後に、三角関数の級数展開と e^x の級数展開を知れば、説明できます。

(わたし)というものが(一)ということは、複素平面上で、長さのこととみる限りにおいては、どの向きを見ていても保証されるというふうには言えるのではないかと思います。

わたしたちが、実数線上と思っているものが、社会的な価値観というか、人間としての常識というものだとすれば、わたし自身の普段向いている方向は、もしかしたら、その世界常識軸に対して角度 θ を持っていたとしても、それ自体で咎められることもない、と考えてみてもよいのでしょうか。
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この回答へのお礼

考えてみれば やはり:
★ 複素平面
☆ そのものが わたしには 経験事象であるかどうかで はっきり
しない。と言わざるを得ません。


ご回答をありがとうございます。



《想像力を発揮して 想像上で操作する》というかたちを想定しまし
たが わたしにピンときて分かるのは そこまでなように思えます。

そのとき 実数は 意志の思いおよび実行が――他者に伝え得て理解
され得るかたちで――明らかな場合を言います。
 
虚数は 特に意志の内容としての思いが 本人にもはっきりせず他者
にも経験事象として伝わりがたい場合を言いますが ほかにもありま
す。

つまり ウソの場合です。本人の良心やその恥づかしさに逆らって思
いを持ちそれを膨らませるといった場合です。


意志行為つまり実際の行動になると 虚数の場合も実数の場合と同じ
く 経験事象として捉えられる限り 実数と同じ世界に属していると
見なされます。


我田引水になりましたが そういった事態や問題が明らかにされて行
けばよいかなと思っています。

恥づかしながら オイラーの式に理解が遠いので 告白です。

お礼日時:2018/06/16 22:32

この議論の最終目的地は、オイラーさんの式:exp(iθ) = cosθ + i・sinθ になります。



ただ、わたしにとっては、とても恐ろしい式です。

x^3 = 1, x^4 = 1 を解くと、複素平面上に単位円を描き、その円周上にある点を求めるとき、代数的方法と幾何学的方法の両方を用いて、一致する見解を得ることができます。そのために、複素平面はこの両者をつないでいます。

その意味では、複素数はなにもウソをいっていないことになるとおもいます。

ただ、オイラーさんの式は、x^p = 1 、p 回それ自身をかけて(1)になるものすべてを扱っています。それは正しいのかもしれません。ただ、真面目にそれを幾何学的に保証するには具体的に示さないと説明したことにならないはずです。

工学部の学生はこのとても便利な式をよく使います。使ってうまくいくならばそれでよい、とも思われますが、それを証明せよ、といわれたら大変なことです。


むかし、図学(製図)の演習で、正十二面体を作図するものがありました。図学の教科書にあった正五角形の作図の仕方を読みながら、作図していたのですが、なんとなくもやもやした気持ちで教科書の指示通りに作図しました。このときの気持ちとしては、なんとなく理解できないものを、他人の指示通りに行って描いたようなものでした。

後になって、ひとりで考えているときに、x^5 = 1 の代数解を求めることに気づいて、これから正五角形の作図ができることに気づきました。こうなれば、もう、教科書通りに指示されて、理解もなくただ従って描いているようなモヤモヤ感は消えてなくなってしまいます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ・・・代数的方法と幾何学的方法の両方を用いて、一致する見解
を得ることができます。そのために、複素平面はこの両者をつないで
います。

★ その意味では、複素数はなにもウソをいっていないことになると
おもいます。

☆ これは 何を意味するのか? 実数の世界と同じなのか? 同じ
だと見なせるということなのか? 

実数の世界が・もしくは全体の世界が 虚数ないし複素数の存在(?)
をも含みつつ 成り立っているというのであろうか?




興味深いですが 残念ながらよくは分かりません。

お礼日時:2018/06/16 19:30

回転表示型のバネばかりのなかには、ゼンマイ式の時計やゼンマイ式のミニカー(チョロQ)に使われるような渦巻状のバネが入っているのではないかと想像しています。



バネは、伸び縮みするときに、もとの位置に戻ろうとする力が生じます。実際のバネにはそれ自身の重みももつので、なんらかの仕方でそれ自身の重みの影響も考慮できるように考えないといけません。

同じ質量をもつ錘を、1, 2, 4, 8, 16 … と、2^n コ用意できると良いかもしれません。

回転表示型のバネばかりにも、あとで応用が利くとおもうので、ぶら下げ式のバネで説明します。

錘の質量を m にして、復元力は釣り合いの位置からのズレ(変位) x の逆向きに働くので、F = -kx

また、ある、位置(x)において、錘に生じる力(F)によって加速度(a)が変化するから、F = ma

この、フックさんが言い出したこととニュートンさんが言い出したことを合わせてみると。

ma = -kx

a = -(k/m)・x

加速度(a)は速度(v)の時間変化率(a = dv/dt)、
速度(v)は変位(x)の時間変化率(v = dx/dt)、

なので、a = (d/dt)(dx/dt)

ここで、バネの単振動は Acos(ωt) とおけるのだ、と唐突に思います。

x(t) = Acos(ωt)
v(t) = (dx/dt) = -Aωsin(ωt)
a(t) = (dv/dt) = -A(ω^2)cos(ωt)

これは、a(t) = -(ω^2)x(t)

となります。ここは、コサインの時間に関する微分を計算しています。


フックさんとニュートンさんが言い出したことを合わせて作った式:a = -(k/m)・x

バネの単振動がコサインの変化に似ている、として微分して得られる関係式:a = -(ω^2)・x

を比べて、ω^2 = k/m 、ω = √(k/m) が得られます。

ω は角振動数といいますが、振動数(f) と、ω = 2πf の関係があります。バネばかりの錘をつけたバネの振動の振動数(f)を測定することができたら、ω は 2πf からわかり、ω が分かれば m はこちらがわで設定しているのでわかっていることです。すると、バネ定数 k は k = m・ω^2 から計算できます。


理論的、原理的な説明はこのようになります。けれど実際は難しくて、振動数 f をどうやって正確に測定するのかがまた問題となります。


これのどこが複素数の話なのか?と思われたとしたら、オイラーさんの式:exp(iθ) = cosθ + i・sinθ の、見える(観測できる)部分だけに着目していた、説明にみえる部分だけをみせた、ということになるとおもいます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 理論的、原理的な説明
☆ については 数式が分からなくても 何のことを言っているかが
分かったような感じになります。


★ これのどこが複素数の話なのか?と思われたとしたら、オイラー
さんの式:exp(iθ) = cosθ + i・sinθ の、見える(観測できる)部分だ
けに着目していた、説明にみえる部分だけをみせた、ということにな
るとおもいます。
☆ ここになると もうむつかしい。です。

お礼日時:2018/06/16 16:29

すこし気分転換にバネ秤について話します。



イメージしていたのは、金属の筒のなかにバネが入っていて、筒には縦にすき間があって、そこにバネの伸び縮みに応じて上下に移動する三角形の印があり、その三角形の印の先端が示す目盛りの値を読み込むと吊るしたものの重さが分かるものです。

むかし、八百屋さんで見かけたような気がします。学校で理科の授業で使うとしたら、このタイプのものだと思います。

一方、家庭用のバネ秤といえば、上部に皿があり、その皿の上に測りたいものを乗せると、下の重量を示す表示板があり、針が回転して重さを表示するものです。一回転して、200 g だったり 500 g だったり 1 kg だったり 2 kg だったりいろいろあると思います。

先に話した、筒のなかにバネが入っていて、バネの下方にフックがついていて、そのフックに測りたいものを吊るせば、重さが測れるものは、目盛りが直線になっていて、バネ定数を知るのは単純にわかります。

フックの法則では、F = kx で表すので、k = F/x の次元は [(力の大きさ)/(伸び縮みの大きさ)] で表せます。

さて、回転する針で表示するタイプのバネ秤のバネ定数はどのようにして調べますか。


あとで答えを書いてみたいと思います。

質問者の質問に答えないで、こちらが問題を出すのはおかしな話ですよね。いつもすみません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 回転する針で表示するタイプのバネ秤のバネ定数はどのように
して調べますか。
☆ そういうことに疎いのが分かりました。

重みで まづバネが沈みます。その度合いに応じて 針が回転する
ように工夫する。どうやって? とほほ。

お礼日時:2018/06/16 08:26

少しくどくなりますがお許しください。



三回掛けて 1 になるものは x^3 = 1 を満たす x を求めることです。

x^3 - 1 = 0 として、これを因数分解して (x - 1)(x^2 + x + 1) = 0

x - 1 = 0 あるいは x^2 + x + 1 = 0 を満たすとき、上の式が成り立ちます。

x = 1 は自明の解で、あとの x^2 + x + 1 = 0 を解きます。

平方完成して、(x + 1/2)^2 = -1 + 1/4 = -3/4

両辺の平方根をとって、(x + 1/2) = ±i・(√3)/2

x = -1/2 ±i・(√3)/2

これが残りの二つの複素数解になります。この不思議な兄弟がわたしにとってなにを意味するのか分かりませんが。わたしが (1) のときは、この不思議な二人の兄弟も、複素平面上で、長さ 1 を持っています。

実数直線上だけで判断すると、二人の兄弟は、それぞれ半歩づつさがれ、とわたしを引っ張ります。

虚数方向には、この不思議な兄弟同士で、右へ行くべきだ、いや、左へ行くべきだ、と引っ張り合っています。この兄弟のバランスが崩れない限り、わたしは右へいくことも左へ行くこともかないません。

代数学的には、この不思議な兄弟はないもののように受け取られますが、幾何学的には単位円周に内接する正三角形の頂点の向きをうまく表しています。

複素平面が、代数学と幾何学をつないでいます。
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この回答へのお礼

そうなんですか。つまり:
★ 複素平面が、代数学と幾何学をつないでいます。
☆ こういった具体的な捉え方ができると おもしろそうです。



ご回答をありがとうございます。


前回(№10)のお礼欄での間違いの修正は なお間違っていました。

あちらの新設のほうに書き込みましたが かさねておぎないます。





虚数の図形的な(幾何学的な)イメージとしては ひとつの i で 意
志は 実数ではないにもかからわず何らかの動きを示すかたちです。

それは あたかも実数のある位置から 上へ飛びあがる。

i なる想像(あるいは 虚偽)のぶんだけ 飛び上がって ひとまづ
浮き上がったまま落ち着く。

そして そのときさらに i なる想像をおこなうと―― i x i = -1 と
なって―― 実数の軸上に降りて来る。

これが 実際問題としては ウソ( i )の上塗りであるのではないか?

といったふうに考えています。

お礼日時:2018/06/15 20:26

(当方的)は(等方的)の変換間違いです。

すみません。


四回掛けて 1 になる数を探します。これは x^4 = 1 を解いて x を求めることです。

(x^4) - 1 = 0 と書き直して、これを因数分解して

(x^2 - 1)(x^2 + 1) = 0

(x + 1)(x - 1)(x^2 + 1) = 0

となります。これは、x + 1 = 0 あるいは x - 1 = 0 あるいは x^2 + 1 = 0 のとき上の等式を満たします。

x = ±1 のとき、これは実数解です。

x^2 + 1 = 0 は、x^2 = -1 そして、x = ±(-1)^(1/2) となり、この、(-1)^(1/2) を (i) とか (j) とかで表して虚数とよんでいます。

1^2 = 1, 1^3 = 1, 1^4 = 1

(-1)^2 = 1, (-1)^3 = -1, (-1)^4 = 1

i^2 = -1, i^3 = -i, i^4 = 1

(-i)^2 = -1, (-i)^3 = -i, (-i)^4 = 1

となり、これらはみな、4 回、自身を掛けると 1 になる仲間です。


複素平面(ガウス平面)を考えてこれをみると、(1) はずっと (1) のまま、(-1) は、二回振動します。

(i) と (-i) は複素平面上を、回転するように見え、お互い反対方向に回転しているものに見えます。


(-1) は反対方向に向く、という振動要素として使え、(i) と (-i) は回転要素として使える可能性があります。


何回か付き合っているうちに、お互い(ヘソをまげた)状態になってしまったことにも応用できるのではないか、とも思われます。


そのまま付き合っていれば、自然にもとの (1) まで戻ることもあるでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ (-1) は反対方向に向く、という振動要素として使え、(i) と (-i) は
回転要素として使える可能性があります。

★ 何回か付き合っているうちに、お互い(ヘソをまげた)状態になって
しまったことにも応用できるのではないか、とも思われます。


☆ 《回転》――おそらく 意志の回転――も おもしろいと思います。

別の質問も挙げました。このお礼欄には書ききれないので。




なお 次のくだりは 間違いがありましたね。

☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~
20. 《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一(いち)( -1 )と
なる。
 a + bi →〔 a = 0, b=1 〕→ ⇒ i ^ n = i or -1
~~~~~~~
☆ すなわち n が偶数なら i^n = 1 になりますね。おわびして訂正します。

お礼日時:2018/06/15 18:27

ほんらいのわたしに帰っているときのわたしは、当方的な方向性をもたないものでしょうか。



それとも、なにかしらの方向性をもったものでしょうか。


仕事をしているときのわたしは、なにか一定の方向を向いているように思います。

また、趣味をしているときのわたしもなにか一定の向きをもっている。

これらはなにかしらの向きをもっています。


ほんらいのわれに還るときは、なにかしらの観照をおこなえる状態で、向きを取り去っているような感じがします。

ものを考える、という意味ではやはりなにかに注目しているでしょうか。
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この回答へのお礼

ええっとですね。――まづは ご回答をありがとうございます。

ブーブーぢいさんで 何でも物言いをつけたがりますが。

《一》であるとか《カザリをつけない樅の木》なんだとか 規定して
いますが 規定というのは 規定した内容以外のものを否定(排除)
しがちであり その点 やっかいです。もろ刃の剣です。


《すべて自由です》。



たとえば方向性によって限定されたり制約されることはないわけです。

軌道があって そこから脱線しないようにというイメージも もはや
よい説明ではありません。

軌道と言ったとしても それは 言わば目に見えない。かたちがあっ
て 無きがごとし。自由自在なわけです。


《よきこと》を人間が決めることができると思ってませんか?

知っていて そのことを制御することができるのだとか。

人間がおのれの知っているよき理念や理想像を持ち それに沿ってみ
づからが舵を取って すすむのであるとか。



オシヘは ふるいのです。

固定された何かよいものというのは 人間がその知性で 最高の存在
だと言っていることになります。



確かに イエスのあとの歴史では 神はうしろにしりぞいて出て来な
い。人間が自分たちの自由と責任で なにごともやってゆくのだと言
いましたが わづかに――非思考の庭=すなわち 信仰なる動態とし
て―― 聖なる甘え もしくは きよらかなおそれ を持っているの
だと思います。

だって ヒラメキも良心のハタラキも われわれ人間のチカラを超え
たところより やって来てくれているのですから。

お礼日時:2018/06/15 15:10

人間の社会に於いて、人の“活動”は複素数的といえるのではないでしょうか。



本音(自我)は虚数的であり、立て前は実数的といえそうな。

その虚数的な心を消そうと“頑張った”のが釈尊で、それを見事に達成したので必然、実数も不要となりました。

宇宙の本体に帰ったのでしょう。

☆ 複素数的世界での悟り、は真の悟りではないですね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 人間の社会に於いて、人の“活動”は複素数的といえるのではないでしょうか。
☆ どうも 実際問題として そのようであるように感じます。


★ 本音(自我)は虚数的であり、立て前は実数的といえそうな。
☆ 稀れに タテマヘに虚数を持って来て――たとえば 《無私――則天去私を掲げて―― ホンネは いろんな中身を持つ実数であるといったかたちもみられるかも知れない。

一般には おっしゃるとおりかも。



★ その虚数的な心を消そうと“頑張った”のが釈尊で、それを見事に達成したので必然、実数も不要となりました。
☆ わたしから言わせれば 《虚数的な心を消そうと“頑張った” ・・・それを見事に達成した》というのが タテマヘではないかと思えます。



★ 宇宙の本体に帰ったのでしょう。
☆ わたしに言わせれば そこから《還俗》が始まります。宇宙の本体へ帰りっぱなしではダメであると。




★ 複素数的世界での悟り、は真の悟りではないですね。
☆ ただし 実践的だという側面がありそうな感じです。

お礼日時:2023/01/13 07:40

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