重要なお知らせ

「教えて! goo」は2025年9月17日(水)をもちまして、サービスを終了いたします。詳細はこちら>

電子書籍の厳選無料作品が豊富!

神社仏閣
皆様は、元旦や日頃の生活で
何か、頼み事、叉は悩み事
などあった時など
神社仏閣などへ行き
お祓い、賽銭箱にお金を入れ
お願いなどしますか?

自分も、子供の頃から
そのような事してましたが
最近は、全くしてないし
信じていません
言い方は悪いかも
知れませんが
所詮、金儲け!
そして、気休め!
でしかないと痛感しています!
まして、宗教なんて
本当に無意味!
それこそ、人の弱い所を
利用した金儲け主義でしかない!
これは、あくまでも
自分の考え方なので
決して、御参りへ行く人
宗教をやっている人などを
批判、差別してはいませんし
人それぞれの、考え方
だと思っています
皆様の御意見を聞かせて
下さい!

質問者からの補足コメント

  • 勘違いしてもらいたく
    ないので、記載しますが
    宗教をやっている人を
    批判している訳ではないですし
    神社仏閣などへ行き
    願い事をするのは良くない
    などは、一切思っても
    ないし
    とにかく、人それぞれの
    価値観、叉は考え方の違いと
    考えています!

      補足日時:2018/11/07 10:03

A 回答 (4件)

酒のしずくさんはようやく論理の世界、あるいは理屈の世界があることに目覚めたようですね。

あなたの質問のように、世界を理屈で理解しようとするようになったのですから。これって、全ての人が成長と共に経験してきた道ですね。

乳児は信じられないような吸収力で言葉を覚えてくる。そして、4、5歳ごろになると、電車の中などで、ウンチだオシッコなどの汚い言葉をわざと連発してお母さんを困らせている場面にお目にかかったことがあると思います。何故でしょう。そう、あれはちょうどその頃になると、言葉に人を動かす力があることに目覚めたために起こる現象ですね。

そして、思春期になると突然屁理屈を言い出すようになる。これもまた何故でしょう。人間はちょどその頃になると、言葉は論理であることに気づき始めるからですね。だから、漠然と受け入れていた世界を論理的に整理して見始める年頃になったのです。論理は人を説得する手段として確かに重要な手段の一つと言えます。ところが、思春期ではその「論理の世界」に目覚めたばかりで、論理の使い方が未熟だ。だから、屁理屈と理屈の区別がまだよく理解でいていない。だから思春期の連中は支離滅裂な屁理屈ばっかり言っているわけです。

ところが、もっと成長して論理も洗練してきた頃に、社会に出て色々な経験をしてくる。そんな経験を積んで行くうちに、論理や理念よりも重要なものがあることに気がつくようになってくる。そうです、この頃になると、理屈はともあれ事実はどうなんだと見られるようになってくる。すなわち「事実の世界」の発見です。そのような段階になると、自分の理屈ではまだ理解しておらず、だから論理的に説明がつかなくても、そこにそのようなものがあり、その存在が歴史的にも文化的にも皆が尊敬の念をもって認めているものがあるのだと言う「事実の重み」に気がつくようになる。

そのようなものがこの世にいっぱいありますが、宗教もその一つなんですね。確かに、神社のお賽銭もおみくじも、あるいはお寺や教会へのお布施も経済活動の一つで、金儲けの一形態だという理屈も立つ。まさか、そんな側面に気が付いているのは酒のしずくさんを含めたごく少数の人間だけで、残りの連中はそんなことにも気がつかない低レベルな人間だなどと、酒のしずくさんは思っていないと思います。

そう、成人した人とならそんなことを考えたこともなかったなんて人はまずいないでしょう。なのに、何故皆さんが神社仏閣教会などを大事にしている、と言う「事実」があるのでしょうか。でも、理屈や論理の世界だけがこの世界だと思い込んでいる人(例えば、屁理屈が屁理屈であることをまだ理解できないような思春期の連中など)には、この事実の重みが理解できなの無理がありませんね。

昔は、人々はまず理念を語り、その理念に基づいて事実の世界を理解しようとした。その典型が哲学です。でも、時代は変わり人類は成長しました。今では、人々はまず事実を観測し認識し、その認識に基づいて理屈や理念を案出して、我々の埋め込まれたこの世界を理解するようになりました。それが科学です。

そう、人類はちょうど未熟な思春期の連中と同じように、世界を「理念→事実」の順番で理解しようとする哲学者の態度で世界を理解しようとしてきた。ところが、現在ではちょうど経験を積んできた大人の連中と同じように、「事実→理念」の順番で理解する科学者の態度で世界を理解するようになってきました。

多分、まだ理屈や理念の世界に多大な興味を持っているのが酒のしずくさんなんだと思います。でも、酒のしずくさんも皆が経験してきて辿ってきた道をこれから進んで行くうちにいろいろな経験して、事実の世界を認識できるようになり、

  なにごとの おわしますかわ 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる

と言う歌の意味が体でわかってくると時がくると思います。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

cyototuさん、コメントありがとうございました、省略した文章になってしまいますがお許し下さい!
言いたい事は勿論理解しています、自分も、若い頃は怖い者知らずで、自分や自分のまわりの先輩や友人や後輩他、色々な人間と悪い事をして来ました、自分の父親は母親と結婚する前は裏の世界の人間でして、(誰しもが名前を言えばわかる親分)の組員でした、(今はもう亡き人)でも母親と、結婚すると決めて、足を洗い、その後経営者となりました、そんな父親の子供だったのも、やはり関係がないとは、言えません、でも、社会に出て、仕事をして、お金を稼ぐ事、ましては、自分の家族を養う事などを、経験する用になれば、若い頃はどうにかなっていた事なども、経営者となり、家族を養い、従業員の生活、そして、従業員の家族の生活の事までも、考え仕事をするようになってからは、若い頃には
通用していた事など、全く通用しなくなります、まして、上には上がいますし、大切なお客様が有ってこそ、お金を得て、自分や家族や従業員やその家族の生活が出来るようになります、だから自分は、お客様は神様ですと常日頃、忘れず朝起きると、自分が書いた、教訓を読んでいます!話はそれてしまいましたが、とにかく何事も、自分が全て、困った時の神頼みではないですが、何するのも、何を決断するのも、自分本人だと、考えています
失敗は成功の元!ではないですが、失敗しその時を忘れず、次に生かせば良い!苦労は買ってでもしろ!などの諺は、正にその通りだなと思っていますし、毎日が勉強だと、思って生活してます、なんか、長くなってしまうので、省略しますが、とにかく何事も、自分!苦労するのも、大金を手に入れるのも、全ては、自分次第!他力本願ではなく、幸せは、待っていても来ない!失敗したら、同じ事は繰り返さない!そのような事を心がけて、これからの人生、損得関係なく、自分が決めた事、それは、違う!などを考え、後の人生過ごして行きたいと
考えています!勿論、自分が決めた事で、何かしらトラブルなど、招いた時は、逃げはせず、解決策も考え責任はとるようにする!そのような気持ちでいます!長くなってしまうので、この辺で
締めますがもっともっと、自分が成長する為に
日々勉強だと、考えて行きたいと思います!

お礼日時:2018/11/07 13:12

昔は仏壇に向かって


「(気に食わない)●●を欠席にしてくれ」
などとやってたけどね。

それを否定する気はない。
それで自分も回りも幸せになれるなら、それは立派な信仰だ。
苦しいときの神頼みも同じ。
それで自分も他人も救われるなら何の問題もない。

しかしたいていは違う。
ますます凝り固まっていく。
少なくとも自分はそれで救われたことはない。

で、悩み続けた結論が
「自分が幸せを感じられる心にならなければダメなのだ」
である。

自分にとっての信仰はこのためにある。
「感謝できる心がそこにある幸せに気付かせてくれる」
「カネを捨てること(喜捨)によって、分け与えることに慣れていく」
・・・
そういう心を整えた果てに幸せに気づける心が育つ。

俺はその道しるべとして、最も合理的で自主的な仏教を選んだ。
それだけの話である。
大いなるものに導かれたいならキリスト教を選べばよい。
具体的な人物がいるなら、その人の弟子になればよい。
もちろん金の力に頼るのもアリだ。
目的さえはき違えなければ。

方法は人によって違う。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

headさん、はじめまして!回答ありがとうございました、長くなってしまうので、省略しますがお許し下さい!そうですね、どんな小さな事でも、何か良い出来事があれば、感謝する気持ちを持ち、それに、今までは、自分は宝物があるのか?と自分に問いかけた時気づいたのですが、自宅の中にある物(例えば、テレビ、洗濯機、家具、その他自宅にあり、自分の所有物は全てお宝だよ!)と感じるような考え方になりました!何故かと言うと、自宅にある物の何かしらがないと困るからです!お宝=お金や高価な物ではない!と思う気持ちに変わりました!headさんは、キリスト教なんですね、キリスト教を信じて、幸せになれると思う気持ちがある事は良いと思いますし、批判も反対もする事はありません!headさんがそれで、幸せなら素晴らしい事だと思います!

お礼日時:2018/11/07 14:53

自分が神や仏ならば、困った時にだけ自分のところに金を持ってきて、お願い事をするような人間には、神仏の助力を与えるどころか反対に(その欲深さに)に対して罰を与えると思います。


(でも、そういうことに思い至らずに神仏に頼っている人が世の中にはなんと多い事か・・・)
ですから私は、そういうような欲の皮がつっぱた態度で神仏に頼ろうとは思いません。
けれども、この世の中、どう考えたって人間をはるかに超えた力が働いていることは感じます。この力の源を神仏と呼ぶならば、これに対して大いに尊敬の念を抱いて生きていきたいものです
    • good
    • 1
この回答へのお礼

masterkotoさん、コメントありがとうございました、正に困った時の神頼み!ですね!やはり、人は皆100パ-セントの人間なんて、いませんし、常に何かしらの悩みなどにぶつかる事があるますからね!そんな時に、神社仏閣などに行き、拝むのでしょうね、叉見かけたら、コメントお願いします、それと、真面目な話しや質問ではなく、くだらない質問やそんな事も知らないの?と思うような内容なども、自分は、このサイトで投稿させてもらいますので、お願いします!

お礼日時:2018/11/07 15:03

日本の宗教は心を癒すサービス業です。

サービスに対価。伝統あるところは阿漕なことはしません良心価格です。
外国の宗教はカルトです。心と財布を縛ります。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

mantamannさん、コメントありがとうございました!そうですか、宗教はサ-ビス業と言う考え方なのですね、それはそれで、全然良いと思います!人それぞれ価値観が違いますし、世の中の人がみんな、まったく同じ価値観だったら、逆に怖いですもんね!それと、真面目な話し以外でも、くだらない内容、叉はええ?こんな事も知らないの?なども、投稿する時があると思いが、見かけたら叉コメントお願いしますね!

お礼日時:2018/11/07 15:10

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す