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よく議論なんかで論理的じゃないとか、矛盾してるだとか
殺し文句のように使われてます
知的な人の嗜みでもあるかのように「論理的」であることに執拗になってます

議論にしろ、知的な人にしろ、学問にしろ、なぜ論理的であることにこだわるのですか?

また、論理的であるとして、それがどのような価値を持つのでしょうか?

回答よろしくお願いします

A 回答 (22件中1~10件)

(1)なぜ論理的であることにこだわるのか?


(2)論理的である(こと)がどのような価値を持つのか?

(1)の点ですが,
>議論なんかで論理的じゃないとか、矛盾してるだとか
>殺し文句のように使われてます
ということは,「論点ずらし」の場合がありますね。つまり,相手の言っていることに何と答えていいか分からない,相手の正当性を認めたくないなどの場合に,根拠を示さずに「それは,論理的ではないよ」などという場合です。要するに,相手の発言を否定,棄却したいのです。それなら,「あなたの言うことはだめだ」とか「私は認めない」というべきですが,まあ,角が立つというか,トラブルを恐れて,そのような言い方になるのでしょう。いずれにせよ,根拠や理由を一つも示さないで「論理的ではない」という言い方をするなら,その言い方が物語っていますね。

(2)の点ですが,もともとの「論理的」とは,「きちんと筋道を立てて考えるさま」(大辞泉)という意味があるので,そういうことであれば,どう考えても価値があるのではないでしょうか。やはり「話しの筋道がよくわからない」と,理解もできませんから,「筋道立った」話しというのは,相互の理解にとって価値があります。
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現代数学には「数学の基盤」という考え方があります。


これは、数学にはたくさんの分野があるが、
それらがそれぞれに基盤となるものが異なっていた。
そのため、分野が違うと、ある分野の数学者の考えを
他の分野の数学者に伝えることができなくなります。
そこで、数学全体を同じ基盤から再構成しようと
考えた数学者が現われた訳です。
数学の基盤として、集合論と一階述語論理が挙げられます。
これらを使って、自分の分野の数学を再構成すると、
他の分野の数学者に、自分のアイディアを説明することが可能となります。
すなわち、数学の基盤とは、すべての数学者が同じ言語を使いましょう、
という決め事です。
日常生活で、自分の考えを他の人に理解してもらえないことが多々あります。
その時、自分は自分の考えを論理的に説明しているか、反省する必要があります。
論理に飛躍があれば、自分は理解しているつもりでも、
論理的に間違っています。
論理的である考えは、論理的である他の人には理解できます。
他の人に理解して欲しいと望むならば、
私たちは論理的に自分の考えを伝えなければなりません。
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 日本人は情緒的で、アメリカ人は論理的といわれますね。

アメリカ人はいろいろ議論しながら論理的思考を高めていくそうです。

 たとえば福島第一原発で、どうしてあんなに放射能汚染が広がったのか?NHKで2号機などの検証を番組でやっていましたが、そこに人為的判断ミスがなかったか?もし当事者の的確なる状況判断で、放射能もれやメルトダウンを防ぐことができたら、こんな現状になっていなかったかもしれません。そういう反省はあるんでしょうか。安全神話とは考えないということですね。

 検証は後から細かく分析することですが、事故の最中に、モニターや起きている現象を見て、今何が起きていてどう対処すればいいか、それらはすべて生きた論理的思考だと思いますが、結果としてあれほど社会的影響が大きい場合があります。(キューバ危機とか?) マニュアルや指示待ちではとうてい対処できないですね。

 論理的という時に、思い込みから事実にどう移行すればいいのか?議論して矛盾を批判されることは意味があると思いますが、そこから先が難しいようです。質問もそういう葛藤でしょうか。
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ふと思いました。

絵画についてです。絵画は整合性を重視する、つまり破綻していない絵が分かりやすい、つまり感情に働きかけるものですが、論理もそうかもしれません。
例えば良くできた数理には美しいという賛美が加わるように、良くできた論理は気持ちいいのだと思います。
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「論理的」の対義語である「感情的」という言葉を思い浮かべてみてください。



「あいつは感情的なやつだ」
「そんなに感情的になるなよ」

どう見てもこれは悪口です。逆に

「論理的な人だ」
「論理的な説明だ」

こっちはずいぶん肯定的な評価です。

こう考えれば、みんなが
> 「論理的」であることに執拗になってます
になるのもわかりますね。

そもそも「論理的」は褒め言葉であり、「感情的」はけなし言葉だからです(褒めようとするときは「感情的」という表現を避けて「感情豊か」とか「感情細やか」と言ったりします)。

ご質問は結局のところ、なんで「論理的」が肯定的な評価と結びつき、「感情的」が否定的な評価と結びつくのか、ということになっていくかと思います。

そうしてその答えは、歴史的に「論理」に価値がおかれ、「感情」がそれより一段劣ったものとみなされてきたから、としか言いようがありません。

西欧では伝統的に「人間」を「動物」から区別するときに、人間には「理性」が備わっているから動物とは異なる、と考えてきました。そうして、この「理性」(ラテン語でratio)というのはギリシア語のロゴスに対応する言葉です。このロゴスは同時に「論理」という意味でもあります。理性の「理」は論理の「理」でもあり、「理屈」の「理」でもあり、訓読みすると「ことわり」ともなって、そこらへんのニュアンスはギリシャ語とも似通っています。

ではなぜ「理性」が「論理」になっていったのか。
ギリシャ人たちは、ものごとの本質は目に見えるものの向こう側にある、というふうに考えてきました。春になると花が咲き、夏になると葉を繁らせ、秋になると紅葉し、散ってしまうけれど、木は木だ。木の見かけを超えて、変わらない不変の木の本質があるはずだ……というふうに。
その考え方の習慣は、いまのわたしたちにも残っていて、現実の友だちとの関係を通して、「友情の本質とは」とか、「ほんとうの友情なら」なんてことを考えたりしますよね。

そうやってギリシャ人も目の前にあるものを通して、永遠不変のもの、現象を超えたところにあるものについて考察していったんですが、そうしたときにかならず出て来るのが「なぜ」という問いです。なぜ、ものごとの見かけは移ろってしまうのだろう。なぜ日は昇り、また沈んでいくのだろう。

ここで、問い手が納得できるような理由を提示することが求められるのです。
「なぜ海が荒れるのか」
「海の神が怒っているからだ」
というふうに。

「AはBである」といったとき、なぜそうなのか、その仲立ちになるものを見つけようとする。そうして、それが正しいと、問い手を納得させようとする。こうしてロゴスの学としての論理学が始まっていったのです。

なるほど、その説明は納得できる。わからないと思っていたことに説明がついた。
だから「論理的」だ、と。

それに対して感情はどうかというと、激しい感情というのは、涙を流したり、顔が赤くなったり、すべて身体現象を伴います。そうして、その感情を構成する身体の運動は、いずれも本能だったり、自然反射や条件反射だったり、それらの原因の組み合わせです(なんとなくそれだけで「動物的」って感じでしょ)。

このように感情は受動的なもので、しかも多種多様、互いに対立する感情が起こる場合すらある。デカルトは『情念論』のなかで、感情を意志の力でコントロールし、感情の主体となることによって人間の自由が可能になる、といったことを言っています。つまり、感情というのは、制御すべきもの、抑制すべきものだった。

「感情」が哲学の中で「自己を示すもの」としてとらえなおされるようになるのは、二十世紀に入ってから、ハイデガーやサルトルによってです。それまで「感情」というのは、人間の中で言ってみれば「二流市民」の扱いをされてきた。おもしろいことにほぼ同時期、核兵器やユダヤ人の大量殺戮などの蛮行は、人間の「理性」が引き起こしたものだ、と反省されるようにもなってきます(アドルノ/ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』)。

あれこれ書きましたが、ポイントは、別に「論理」自体が肯定されたり、立派なものだったりするわけではなく、逆に「感情」が否定されたり、貶められたりするものでもない、ということです。単に、わたしたちはそうした言葉を慣用的にそうした文脈で使用している、というだけの話なんです。

相手に自分の感情をわかってもらうためには、感情的になるよりも論理的に説明した方がわかってもらえるし、逆に、相手を論理的に説得しようとすれば、相手の感情を考慮に入れなければ説得もうまくいきません。
このように現実には「感情」と「論理」は密接に絡み合っているので、どちらかが正しかったり大切だったりするわけではありません。

ですから質問者さんも、これから「論理的」「論理的」と錦の御旗のようにふりかざす人を見かけたら、「ああ、この人の頭の中身はあんまり論理的にできてはいないな」と思うといいんじゃないでしょうか。
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 論理にこだわっているのは、民間ではなくて、監督官庁だ。



 都市銀行、信託銀行など大手銀行の破綻を防ぐために、崇高なる精神を表現する言葉は、論理的な枠組みが壊れ、いかなる特恵的な条件もなしに、金融監督庁に経営改善計画を提出することを義務づける価値を持つからだ。

 
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asisai888様、こんばんは。




論理的ではなかったり、矛盾を含んでいたりすると、
「無理」ではないか、ということですか。


>「また、論理的であるとして、それがどのような価値を持つのでしょうか?」

より多くの人を説得出来る可能性がある(説得力がある)、ということでしょうか。
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解らないことを解りたいときに、筋道を立てて話をしたりするのが論理です。


そのことに「論理」と名前を付けてあるだけです。
つまりは、この質問こそが論理的に説明を求めているわけです。

そう言った時のために、論理って存在するのです。
論理は、意思疎通や相互理解のための鍵ですね。
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「論理的」という言葉、確かによく聞きますね。


では、「論理的である」とはどんなことでしょう。場面を分けて考えてみたいと思います。

A.日常会話の場面で:
(1)首尾一貫している=話が、わき道にそれたりしない。1つの話題に集中する。
(2)経済的=話が、冗長(ぐだぐだ)にならない。疎漏(もれ)がない。能率的と言ってもよい。

B.議論・発表・報告などの場面で:
(1)因果関係をはっきりする=原因と結果を明確に関連づけながら述べる。
(2)起承転結がある=まず何かを言い起こし(起)、その内容を受けて(承)、次に意趣を変えて(転)、最後に起承と転とを結びつけて結論とする(結)。

C.討論・論文などの場面で:
(1)三段論法を利用する=例えば、「動物は生物だ」(大前提)、「犬は動物だ」(小前提)という判断から「犬は生物だ」(結論)を導く。
(2)弁証法を利用する=ある命題(1つの判断内容で、「定立」または「正」という)に対して、それと矛盾する内容の命題(対立的な判断内容で、「反立」または単に「反」という)を立て、両者の対立・干渉・勘案・総合などを通して一段高い内容の命題(より包括的・普遍的な判断内容で、「総合」または単に「合」という)に到達する。

以上が、「論理的である」ということの意味(少なくともその一部)だと考えます。一言で言えば、「理詰めである」というのと似た感じではないでしょうか。

ただ、発表や討論の場面ならいざ知らず、普通の日常会話などで論理的であるとかないとかはあまりこだわらなくてもよいと思います。そんなところで、「もっと論理的にやれ」などと言われると、何か理屈っぽい感じを受けてしまいますね。
日常会話では、少々話がわき道にそれても、理屈に合わないことを言っても構わないじゃないですか。いや、そのほうがむしろ、和やかで楽しいかもしれませんよ!
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実は論理的に整合しているかどうかは、真理的にはどうでも良い事です。



実際に私のロジックは何処かで破綻しているかもしれません。(言われた事はありませんが)


論理に価値が有ると思う人間が、論理に価値を感じるのでしょう。

また、そういう人間こそがロジックを振り回します。

私はそういった論理の隙間を突いて、破綻を証明するのですが、本来は意味の無い事です。


あぁ、論理的に全てが証明出来るのでしたら、それはそれで結構な事ではないでしょうか。

論理で説明出来る事は、論理で証明出来る範囲の事でしかないですが。
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