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ロジカルシンキングとか、パラグラフライティングとかが10数年前から説かれていますが、こうした論理的思考って外来思想で日本古来には無かったのでしょうか?

例えば、江戸時代以前には「国学者」という学者がいましたが、彼らの著作はまわりくどくて論理性に欠けていた?
幕府の役人の文章は?
権威があればロジックなんて不要だったのか?

高校で習った古文は回りくどくてよく分からない文章だったので、古来の日本人は論理的に文章を書く作法を知らなかったのではないかと思うのですが、実際のところどうなんでしょう?
また、この人の著作は論理のキレが凄い!という例があれば教えてください。

A 回答 (12件中1~10件)

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3543763.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC% …
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3829536.html
http://www.zkai.co.jp/high/k1k2/mihon/pdf/ml2dny … %E7%94%B3%E3%81%9B'
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%AC%E8%AA%9E
http://www004.upp.so-net.ne.jp/s_honma/sugachan5 …
謙譲語の命令形の技術を学んでみて下さいませ。

たとえ主語が違っていましても、日本語では、連用形の御蔭で、
其の主語を省略した儘で連文節を構成し得ますね。
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背理法で考えてみましょう。

仮に為政者に論理性が一切無く、権威だけを振りかざして民衆を黙らせるだけであれば、国はどうなったか。存続せずに、すぐに滅んでいたのではないでしょうか。こうやって国が続いている以上は、為政者が民衆を説得するということが昔も行われていた証拠だと思います。この説得行為には、論理が含まれていた事でしょう。かくして日本に論理性が全くなかったと考える事は出来ません。

こうとなれば議論の焦点は、程度の問題だと思います。高校で習う古文は千年近くも昔のものです。この時期になると、どの国の文章も似たり寄ったりです。説明が稚拙である事が多いものです。たとえば古代ギリシアが論理的文章の典例としばしば言われますが、十八世紀のドイツの哲学書の精密さと比べると雲泥の差です。必ずしも、普遍的に優れている訳ではありません。平等の条件で比較して、どこの国がもっとも優れていると判断を下す事は難しいのですし、厳密な比較は、あまり意味のない事ではないでしょうか。

このように比較しても仕方ないと断った上で論理的な文章の例を考えてみますが、結構、古文にもあるように思います。例えば『枕草子』。「春は曙」と、まず、春の見所を定義します。その後、曙がどんなによいものかを具体的に記述し始めるわけです。結論→具体例という記述の順序は、パラグラフライティングの基本だったのではないでしょうか。また『徒然草』にしても、最初に一般論を述べ、次に具体的なエピソードを展開するという順序です。これも論理的な書き方でしょう。

文の構成を仔細に検討するのであれば、身近な古文の文章にも論理性を見出す事は容易だと私は思います。
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『時制の一致』の論理によって縛られない情緒的表現の技術は?


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AF%A8%E3%81%AE% …
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「論理の正しさ以外に一切の価値を認めない」という追求を強く行ったのは世界史の上ではギリシャ哲学の一部だけでしょう。

ヨーロッパではルネッサンス期以降に少しずつ採り入れられてその哲学・世界観の基礎の一部を構成することになりました。古代ギリシャ以外の世界では、価値とは論理・宗教・土俗信仰・政治社会基盤などの調和にあるとされてきたようです。日本では今日でも同様です。
一部だけ論理的であることはどこでも好まれています。論理的思考を貫くためには、強く生きる覚悟が必要なようですね。
この人の著作は論理のキレが凄い!という最近のお人としては、小生は内田樹氏をお勧めします。
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自敬と謙譲との連携の仕組みが…。

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 こんにちは。



 § 1 次のような質問をしたことがあります。まづ資料としてかかげます。

 ( I )【Q:日本語は 論理表現には ふさわしくないのか】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4827221.html
 ( II )【Q:日本語が論理表現にふさわしくないわけがない。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6538042.html
 ( III )【Q:日本人は 論理思考をそなえている。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6604063.html
 ( IV )【Q:私ハ お前ガ 好きだ。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7193067.html


 § 2 《論理表現》にかんする主題を三つに分けます。

 (あ) 《発想としての論理思考》
 (い) 《文(ひとつの文)の構造が 論理的であるか否か》
 (う) 《自己表現において特に文章(文のひとまとまり)を論理的に表わす術》

 
 (あ)において 日本人ないし日本語もそしてけっきょくどの国どの言語の人も 潜在的にしろゆたかである。その生まれつきの自然本性としての能力において 論理が分からないヒトはいない。→§ 3

 (い)は 文であるならそう非ざるを得ないはずです。意志疎通を目指すからには。
 ただし 語を互いの論理的な連絡関係によって表わす言わば線形論理から成る文のかたち(たとえば 英文の S-V-O. 文型)のほかにも 日本文や韓国文のごとく 線形論理のほかに言わば非線形の構造を持つ文のかたちもあります。非線形の側面では その名のごとく非論理的です。→§ 4

 ★ ロジカルシンキング としての「論理的思考」
 ☆ は 強いて言えば この(い)の問題だと見ます。
 ★ パラグラフライティング / 論理的に文章を書く作法
 ☆ は 特には (う)の問題だと言えると思います。

 ここでは (う)は触れません。専門の方におまかせします。(あ)を§ 3で そして(い)を§ 4でそれぞれかんたんに述べます。


 § 3 日本語における (あ)《発想としての論理思考》

 ◆(回答No.5) 論理思考の典型が、『時制の一致』です。
 ☆ と言っておられますが この《時制》をめぐる表現について 日本文においてもひとつの文例を思い浮かべたことがありましたので そのことをしるします。

 ☆☆〔資料( III )の趣旨説明欄) ~~~~~
 次のうたを見てください。《仮想現実》と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。

 ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~~~
 尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる
 一つ松
 吾(あ)夫(せ)を

 一つ松 人にあり≫せ≪ば
 大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を
 衣(きぬ) 着せ≫まし≪を

 一つ松 吾夫を

 ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~~~~~~~
 (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう)

 尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ
 一本の松
 我が背子よ
 もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように
 服を着せように(服を着せてやったものを) ・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 現時点から過去に戻って 想像をはたらかせています。その想像内容をあらわすために 現在時と過去時との関係を示したいとの発想が見られると思います。
 《松よ お前が人であれば 服を着せたい。着せてやろう》といった現在時点での単なる条件法による表現のかたちから その一時点だけのことではなく 過去時を採り入れた時間の構造が現われている。

 すなわち現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致〔へとみちびく〕と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。

 その後 やがてひとつのムラに人びとが落ち着いてその中で互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の深まるにつれ廃れて行ったのではないでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 最後の段落に触れました《日本文における論理表現は発展途上の段階にとどまった》その事由については 資料( III )の趣旨説明欄での( B )が問い求めています。ムラ社会におけるいわゆる共同体としての言語表現は 論理性を必要としなくなったという一面に加えて さらには これらムラムラを束ねて その第一階としての社会の上に 第二階なるスーパーヤシロが出来たこと これも大きく影響をおよぼしたのではないかと見ています。
 長い者には巻かれなさい お上には口だしすることが出来ないというあきらめの精神(?)によって 人びとは自己表現を磨かなかった。か?



 § 4 日本語の文の構造

 ☆☆ 〔資料( IV )の趣旨説明欄より引きます。〕 

 日本語におけるハ格とガ格について その成り立ちを問い求めます。
 なぜなら

 ( a )私ハ お前ガ 好きだ。

 これは まづは

 (α)  《Aハ Bガ Cナリ。 / Cスル。》の構文

 と捉えますが このハ格とガ格の用法は 一筋縄では解けないと考えられるからです。次のようにまったく違ったふたつの解釈が ふつうに・そして互いに自由に対等に できるからです。

 ( a-1 ) 《 Aガ Bヲ 好く》という解釈例: 
  ・ 私が好きな相手は お前だ。

 ( a-2 ) 《 Aヲ Bガ 好く》という解釈例:
  ・ 私を好きなのは お前だ。


 言いかえると ハ格もガ格もそれぞれ同じように 主格(主語格)としてのガ格かまたは対格(目的語格)としてのヲ格かを意味しうるからです。
 言いかえると 文の意味連絡を確かめ明らかにする前の段階では ハ格もガ格もともにその意味は確定しない。こういうことになります。

      *

 そこで このように第二次の解釈作業を必要としてその結果明らかになる意味連絡のかたち――そのような文のかたち――を 英文にならって次のように規定します。

 (ω) S(主格)‐V(述格)‐O(対格).

 すなわちこの言わば線形としての論理的な意味を示す S-V-O なる文型は 日本語の文例( a )が 解釈例の( a-1 )および( a-2 )として そのみづからの構文の中に含む文型である。言いかえると 次のようになりましょうか。


 (α) 《 A‐ハ B-ガ C-ナリ。 / C‐スル。》なる構文 ~~~~~~

   《 A-ハ       B-ガ         C-ナリ 。》
   中心主題‐ハ格  関係主題‐ガ格  論述主題‐述格・法活用(断定法)

   ○ ( a ) 私ハ お前ガ 好きだ。
   ・ 話し手は 《私》を中心主題として提出した。
   ・ そのあと中心主題にかかわる関係主題を《お前》として引き出した。
   ・ そのふたつの主題について 答えを出すとするなら 《好きだ》という内容とかたちで提示した。
   ・ この段階ではまだ文の意味は明らかではない。
   ・ あとで分かることとしては ( a-1 )および( a-2 )の可能性をもって両義的である。
   ・ すなわち この(α)の構文は 全体として非線形の構造を有している。
   ・ つまりその非線形構造の中に 線形論理の文型(ω)をも部分的に宿している。

   ○ (ω) S(主格)‐V(述格)‐O(対格).~~~~~~
  ( a-1 ) 《 Aガ Bヲ 好く》という解釈例: I love you.
   ・ 私が好きな相手は お前だ。

  ( a-2 ) 《 Aヲ Bガ 好く》という解釈例: You love me.
   ・ 私を好きなのは お前だ。
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

     *

 どうしてこういうあいまいな(=つまり両義的・多義的な)表現が日本文で起こるのか?
 ハ格もガ格も もともとは主題をただ主題として提示するために用いられているものだからか?

 もしそうだとしますと それらハ格がみちびく中心主題(A)やガ格で承ける関係主題(B)のそれぞれと 論述部の主題(C)ないしその論述格(‐ナリ。 / ‐スル。)との意味上の連絡は 二の次だから。と考えられて来ます。
 つまり 文の構造は ハ格とガ格の両者ともが――おそらく結果的に――二重の用法を持つことによって成り立っている。こう考えられます。
 すなわち両者ともそれぞれ 《一次として 〔単なる〕主題の提示 という用法》と《二次として 論理的な意味連絡の確定をみちびく用法》とを担い得て その構造が二層から成っていると考えられます。

 あらためて示せば:

 (α) 《 A‐ハ B-ガ C-ナリ。 / C‐スル。》なる非線形構文 

  (α‐1) 一次として 主題提示の層

  《 A-ハ       B-ガ         C-ナリ 。》
   中心主題‐ハ格  関係主題‐ガ格  論述主題‐述格・法活用(断定法)


  (α‐2= ω) 二次として 線形論理の層

  《 (ω) S(主格)‐V(述格)‐O(対格).》
   ・ A love(s) B.
   ・ B love(s) A.
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西洋はキリスト教だから、というのが関係


していると思われます。

一神教ですから、その教えや結果について
矛盾があっては困る訳です。
でも、現実には矛盾が生じます。
それで、その矛盾を上手に繕う為の技術が
要請されます。
それが理論です。

法解釈学はキリスト教神学に起因すると言われる
所以です。
キリストの言ったこと、聖書に書かれていることは
絶対です。
しかし、現実と合わないところがどうしても出て来ます。
それに矛盾無く答えようとしてきた結果が理論です。
これは法律を所与として、合わない現実に適合させ
ようと、解釈を試みるのと同じ図式です。

日本は多神教の世界ですから、このような必要性が
有りませんでした。
それどころか、武士社会が700年も続きました。
戦いには戦術戦略が必要ですが、言葉遊びの
ような理論は必要ありませんし、有害ですらあります。
だから、日本で理論は発達しなかったのだと思われます。
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更に追記します。



論理思考の典型が、『時制の一致』です。
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論理の永続性と『無常』の赴きとを比較してみましょう。


http://ja.wikipedia.org/wiki/ACID_(%E3%82%B3%E3% …
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その通り。

論理記号は100%外来です。すなわち、日本人は論理記号を必要だと考えなかったからです。おかしいと思いませんか?漢字はあれほど文字種が多いのに、論理記号らしい文字がひとつもないのです。いや「等」は論理記号といえないこともないかな。古来日本人は、漢字からカタカナ、ひらがなを創案し、部首を組み合わせて和製漢字も生み出しました。そういう創造力のある日本人がどうして論理記号を生み出さなかったのか。日本人に論理性なんてなかったということです。

「菜の花や月は東に日は西に」「西から昇ったお日さまが東へ沈む」

これが日本人です。

「うるさい。つべこべ言わずにさっさと歩け」
「控え居ろう この紋所が目に入らぬか」

これで間に合ってしまうのだから、論理的思考など生まれる余地がない。

「え?その紋所にいったいどんな意味が?」「入らぬといったらどうなるんだ?」「入ったけど、それが何か?」そんなことを考えもせずに、ただ事ならぬ空気を察して、ひれ伏してしまう訳です。

日本人は考えることよりも感じ取ることを重視する文化だったということなのです。

どうでも良いけど「等」はいろんな使われ方をする漢字だと思う。
「その心がけに免じて、本来ならば打ち首獄門なれど、罪一等を減じる」

分かったような分からないようななんだかよくわかんないです。(了)
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