チョコミントアイス

だれか知っている人がいたら
教えてください。
哲学はぜんぜん分かりませんので、
まともにお礼ができるかどうかも分かりません。

A 回答 (29件中1~10件)

>mmkyさんと同様のことを言われていると読みましたが、


>間違いないでしょうか?

No.7で私が書いたことは、理屈だけで考えてもたぶんわからないです。

汚れた鏡を見ても、自分の姿はうつらないでしょう。
鏡の曇りや汚れをふいてはじめて自分の姿がうつるように、
自分の心を磨かないと本当の自分の心の有り様はみえてこない
のです。

だから別に信じてくれなくてもかまいません。
「不立文字」
禅の言葉ですが、言葉だけでは伝わらない世界があるのです。

ただひょっとして……と思うならば、探求してみてください。
いろんな本を読んで勉強し、時にはボランティアでもして
自分の心を磨いていけば、何かわかるかもしれません。


>だとするとやはり疑問もmmkyさんへのお礼と同じになってしまいます。

コーランのことはよく知りませんが、聖書にはそういう教えは、
はっきりとは書いてなかったと思います(この箇所、自信なし)

ただキリスト教の牧師や、修道院で修行した人の本などを
読むと、近い内容の記述があったような記憶があります。


>ユングという人は名前しか知りませんが、仏性のことを説明しているのですか?

ユングが説明しているのは「聖なる意識」です。
ユング心理学は極めて難解で、私もきちんとした説明ができる
ほど勉強していません。こちらも関連した本を読んで勉強
してください。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

勉強や努力が足りないのでしょうね。
答えを得た先人がうらやましいです。

詳しいご回答をありがとうございました。

お礼日時:2003/05/10 20:51

回答というほどの物ではないですが、私の意見は、心中心には何も無いのだと思います。


何もないから、心はその中心を埋める為に考えたりするのではないのでしょうか?
もしあったとしたらそれは、自分が意識できない心だと思います。だから結局そこに違う意識があっても気が付かないから何も無いと感じると思います。

 上手くはいえなかったのですが、悪魔で私の一個人の考えです。
参考になるかは分かりませんが、失礼します。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました。お礼が遅くなって済みませんでした。

お礼日時:2004/05/07 23:31

i_am_not_amさん、こんばんは。


一禅僧からの解答です。

宗教哲学から宗教学、仏教、キリスト教から神道まで、おまけに心理学まで飛び出し甲論乙駁ですね。

《禅》をインドから中国へ伝えられた「達磨大師」のお話にこんなのがあります。(もう、ご存知でしょうか?)
達磨大師が洞窟の中で壁に向かい、坐禅三昧の修行をされていたある寒い雪の夜、後に中国禅宗の二祖になられる慧可(えか)和尚という修行僧が訪ねてきました。

以下はその時の二人の会話です。
慧可「あなたの弟子にして下さい」達磨「・・・・・」
慧可「どうかあなたの弟子にしていただきたいのです」達磨「真の道を求める修行などお前には出来るまい。帰れ!」
みるみる間に雪が積もり、慧可和尚の膝にまで達していました。

このままでは弟子の許しが出ないと感じた慧可和尚は、自分のひじを刀で断ち達磨大師に差し出しました。
ようやく、弟子の入門を許した達磨大師は「何が知りたい?何故、弟子になりたい?」と問いかけます。

慧可「私は心が不安でなりません。落ち着く事が出来ません。どうか、師のお力で私の心を安心させていただきたいのです」
「何?心とな?心が不安とな?」「はい」「よし、おまえの心を安心させてやろう」
「ここにおまえのこころ、その不安な”こころ”とやらを持って来い!そしたら私が安心させてやろう」

師の達磨大師からそういわれた慧可和尚は、一生懸命その”こころ”を捜すのですが、持って来る事など出来る訳がありません。

困った慧可和尚は師に「”こころ”を捜したのですが見つける事が出来ませんでした。故に持って来られません」というと、達磨大師は「我、汝を安心しるしおわんぬ(おまえを安心させてやったぞ)」と言われたのです。

後の解釈はi_am_not_amさんにお任せするとして、達磨大師がおっしゃりたかったのはコロコロ変わるもの(こころ)なんて『本来何も無いものである』
本来何も無いものに追われて、何をウロウロしておるんじゃ!っていうところでしょうかねぇ。

失礼しました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お坊様、ありがとうございました。お礼が遅くなって済みませんでした。

お礼日時:2004/05/07 23:32

心は、植物だと全体的に”ぽわーん”としとるような。

脳みそないもん。
でも、食物同士は、ホルモン物質みたいなのでコミュニケートしてる。

石とか無生物も、実はそこにあるだけで空間を占拠していて、他の石が同一空間に同時刻に存在できないようになっている。

意識は、ぶっ飛ぶことがよくある。でも、死ねば消える。ギロチンで切った首は、数秒しゃべることができる。だから、脳みそじゃねえのかな。
でも、死ねば消える現象だからな。酸素も、すわねえと死ぬな。人体+酸素=心じゃねえかな。(中心は、平均とるか2で割るかなんかすればいい。現象の真ん中ってどこよ?)

だから、心は、宇宙空間がなきゃ存在できねーもんだよな。今いる宇宙ってのが、何番地に当たるかしらねえけど、あらゆる存在は、宇宙がなければ成り立たない存在だよな。

中心は、宇宙の中にあるのは間違いない。
異次元空間じゃねえよな。宇宙の果ては、誰も知らない。だけど、それを知ってる人の心は、宇宙を一つ越えた次元にある。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました。お礼が遅くなって済みませんでした。

お礼日時:2004/05/07 23:32

No.22~25の方の回答に補足。



心というのは、外的な要因によって常に変化します。
喜んだり、悲しんだり、怒ったり、嘆いたりと。

では喜んでいる自分、悲しんでいる自分、怒っている自分、
嘆いている自分を認識しているのは、いったい何なのかと
いうことが問題なんです。

認識というのは、常に主体が客体に対して行う作業です。
では自分の心を認識するというのはどういうことか。
喜んでいる自分、悲しんでいる自分をいったん客体化して
(心の中で)、認識しているんです。
ですので『認識している自分』というのが常に存在すること
になります。

理屈でいうとこんな感じなのですが、『認識している自分』
というのが本当にあるかどうかというと、これは自分で探す
しかないんですね。
はっきり言えば、自分の直感を頼りに探索していくしかなさ
そうです。

そのために日々己の行動を反省したり、あるいはボランティア
でもしてよい汗を流したりしながら、自分の心を磨いていく
作業が必要となります。
自分の心が濁ったままでは、まず本当の自分を見つけること
はできないでしょう。

ではそうやって見出した本当の自分とは何か。
頑張って探してください。
先人の経験談によれば、自分が大宇宙の一部であるとはっきり
自覚できるみたいです。悟りの境地ってこういうものかも。

煩悩即悟り。悩みがあるから何とか悟りたいという思いに
なってくるのが人間の本心の働きではないでしょうか。
では、頑張ってください。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

おっしゃることはごもっともで、
「認識している自分」を見つけることができれば
すばらしいと思います。

が、宗教家になってしまいそうで
反面怖いです。

また、「認識している自分」を見つける旅は
合わせ鏡のようになってしまいませんか?

「認識している自分」を見つけた(認識した)自分が
またしても生まれ、それをまたまた
認識しなければならないのですから・・・

でも私自身心が濁っているといわれれば
そうなのだろうなと思います。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2003/05/19 19:28

<<絶えず自分ではない他者や、


他のものによって
心を動かされつくられ続けているのが
人間の現実の姿だと思うのですが、

本当に心の中心にあるのは自分そのものなのでしょうか?>>

生まれた時から「自分そのもの」はあります
虫も花もおそらく同じでしょう。
心を動かされているのは、あなたの「気持ち」
であったり「考え方」「判断」等ですね。
たとえば、あなたが何者にも出会わなくても
「貴方自身、自分そのもの」は存在します。

そして「貴方そのもの」は
宇宙そのものでありまた、宇宙の一部でもありますね、もちろんあなたの肉体もすべて宇宙そのものでありまた、宇宙の一部でもあります。
あなた自身も宇宙のいろいろなモノ(人や花も含む)に影響を受け、またあなた自身も宇宙のいろいろなものに影響を与えて存在していますよね。
「あなたそのもの」「自分そのもの」とはそういう観点から言っています。
 別に必ずしもあなたが納得していただく必要は当然ありません。
 無意味な話だと思えばとばせばいいです。
この僕の話はこんなところです、
違うと思えば当然それもありです
あとはあなたの御自由に、さようなら。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>あなたが何者にも出会わなくても
>「貴方自身、自分そのもの」は存在します。

もしこの世界に、自分以外何者もなければ
「自分」なんていう意識は
芽生えないんじゃないでしょうか。

それか、その「自分だけ」はもはや
存在していると言えないのではないでしょうか。

私の文章と性格が不器用で、
marinfishさんのご機嫌を損ねてしまったなら
あやまります。

詳しいご回答をありがとうございました。

お礼日時:2003/05/19 19:22

<<絶えず自分ではない他者や、


他のものによって
心を動かされつくられ続けているのが
人間の現実の姿だと思うのですが、>>

当然そうです。心は動かされています。
あたりまえですね。
しかし、
自分という存在は動かされていません。
頭に思い浮かぶ事を総べて考えないように
してみても、それでもそこに残っているもの
「自分」ですね。
あなたはそれを知りたかったのでは?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

そもそも「自分」というのは
「一人称」なんて言い方があるくらいですから、
あたかも中心的絶対的なもののように
思えてしまいますが、

他者との関係性なしには「一人称」なんていう考え方
できないんじゃないかと思うんですが。

私は「自分」というのは、
「他者」や、もっと言うと「他のもの」と
同じレベルのものじゃないかと思うんです。

つまり、やっぱり中心にあるのは
「自分」じゃないんじゃないかと。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2003/05/19 19:15

ちなみに「仏性」は心の中心では当然「ない」です


 どんな人間にも綺麗な心と醜い心が同時に備わっていて(しまう)その綺麗な心を「仏性」というような意味ですから。
中心はそれらのに心をうごかされている「自分そのもの」であってそれらではないと僕は思います。

*むりやり中心というものがあったと想定すればの話し。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

絶えず自分ではない他者や、
他のものによって
心を動かされつくられ続けているのが
人間の現実の姿だと思うのですが、

本当に心の中心にあるのは自分そのものなのでしょうか?

お礼日時:2003/05/15 19:40

<<ときに絶対的あなた(私)の存在って


何ですか?
私の体(肉体)ではないですよね。
私の魂?私の意識?

ああ、また聞いてしまった…。>>

ちゃんと書いてたはずですが
絶対は相対の反対で「誰かと比べるものではない」という意味ですよ。
貴方の体も含めての貴方です
魂とか意識とかという言葉の表現はあなたが考えてください。
また、ただこういう質問を最初からして貴方はおそらくただ反論して楽しみたかったのだと思いますからおそらく反論を探すだけでしょうけど、そういう反論をさがそうとしているあなたがその「あなた」ですよ
あなたの最初の質問のに私が答えた答えの絶対的な「あなた」です。

私達(つまりあなた以外のすべて)を意識しなくなった時の「あなた」を観できたとすればそれが
心の中心といえば中心ですが、
しかしそれが出来ないあなたであっても、なくても
中心というか、、、「あなたそのもの」はあるのですが、それを自覚出来ないかどうかだけの話です。
それを自覚出来なければ、この話しは判らないでしょうけど、判らないからといって別にどおってことないし、判ったからなにか得するものでもないし、
判っても判らなくても「ある」のだけど、
だからどうしたってものでもない。
そしてそんなもの「ない」とあなたが思うのなら
それはあなたの自由。
僕はこう思うという事を書いただけ。
あなたがどう思うかそれはあなたの問題。
それが哲学とか宗教とか「存在」とかの問題だと思いますよ。
答えはあなたが見つける事、
最初にそう書きましたよね。
むりやり答えたまでの事。
リンゴを観た事のない人に言葉で説明する限界は「あります」よ。ですから自分自身で食べたり、観たり、さわったりしなくっちゃね。
「むりやり」答えたというのそういう意味です。
そもそも「中心」があるという過程そのもの、定義から、疑問ではありましたが、むりやり答えただけです。
むりやり中心といえば中心とも言えるのかなーって事で答えただけです。
またこういう僕の答えはあくまでも僕が観じた事に他ならない。
このりんごが甘いって言ったって、それは基準になる甘さの違いがひとそれぞれありますから、答えは一つであったとしても他人に伝えられない限界ってのはあるのですよ。そういう質問をあなたがしているのです。
絶対的にあなたを満足させうる「文章」など他人がかけないのです。あなたが感じることですから。
たとえば「自分自身を語れ」といわれても
あなたは僕達に「自分自身」を「見落とす事なく」語れるでしょうか?あなた自身すら判らないぶぶんすらある事をまったく貴方をしらない僕達に語る事が出来うるでしょうか?
もはや「あなた自身を語る」ことそのものに限界があり、一番ちかいのはあなた自身が感じるくらいでは?
言葉になどできる種類のものではない。
しかし、あなた自身ではある。
われわれでもなく、あなた以外のものでもなく。
間違い無くあなたは「貴方以外ではないもの」があなたです。そしてそれがあなた自身であり、、、って、まあそんな事を話しをしただけです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

他者と比べることなく存在する自分ってあるんですか?
どんな人間も他者や他のものとのしがらみの中で
存在しているように思うんですが…

絶対的な自分って、耳ざわりのいい言葉だけど、
本当にそんなものあるのですか?
と思うんです。

>こういう質問を最初からして貴方はおそらくただ反論して楽しみたかったのだと思いますから…

というのは marinfishさんの大変な誤解で、
まったくそのような意図はありません。

そのようにお感じになったなら、
どうか無視してください。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2003/05/15 19:36

>だれか知っている人がいたら教えてください。



そもそも人間界にこの質問の答えを“知ってる人”がいるわけないんだから、この質問の回答が20もあることに唯々驚いています。

少なくとも、哲学では永久に決着のつかない命題です。人間学なら決着だけはつくのかもしれません。でも、もともと正解不在の命題だから、どの道、ただの時間潰しにすぎないのが寂しいです。

一瞬見方を変えて、「心は脳に宿る」という説はかなり説得力があります。とすれば、心の中心にあるのは“情緒”かも? ただし証明不能です。あしからず。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

そうですか…
永遠にだれもわからないのですね。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2003/05/15 19:27

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す


おすすめ情報