「夫を成功」へ導く妻の秘訣 座談会

「哲学者」と「思想家」の違い、あるいは、「哲学」と「思想」の違いは何でしょうか?

「現代思想」という表現は、よく見かけますが、「現代哲学」という表現は比較的少ないように思います。どのように使い分けているのでしょうか?

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A 回答 (7件)

思想はイデオロギーですよね。

イデオロギーは、人間の行動の基本となる、根本的なものの考え(観念形態)です。したがって、思想には、行動が伴い、往々にして、社会的(集団的)な広がりを持ちます。これに対して、哲学は、世界や人生の究極の根本原理を追求する学問であり、あくまでも、個人的なレベルにとどまります。

「カント哲学」はカント個人の哲学であり、他の人の哲学にはならないのです。カントを研究する人は「カント哲学の研究者」であって、決して「カント哲学者」ではないのです。カント哲学に心酔する人も、カントと同じ哲学を持つことはありえません。仮に、カントと同じ哲学を持ったとしたら、その人は「哲学者」ではなく、「研究者」になります。自ら思索し、自らの哲学を創る人を哲学者といいます。

それから、東洋哲学というのも適切な表現ではありません。東洋には哲学はありません。哲学は古代ギリシャを発祥とする個人的で、自由な思考形式です。
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この回答へのお礼

>思想には、行動が伴い、往々にして、社会的(集団的)な広がりを持ちます。

確かに、そういう感じがします。

>「カント哲学」はカント個人の哲学であり、他の人の哲学にはならないのです。カントを研究する人は「カント哲学の研究者」であって、決して「カント哲学者」ではないのです。

「個人の哲学」という視点は、なるほどと思いました。哲学者と研究者の違いもわかりました。

>それから、東洋哲学というのも適切な表現ではありません。東洋には哲学はありません。哲学は古代ギリシャを発祥とする個人的で、自由な思考形式です。

キリスト教と縁が深い、スコラ哲学などは、どうなんでしょうね。スコラ哲学が哲学なら、東洋哲学も哲学と言ってもいいということはないでしょうか? もっとも、私は、スコラ哲学の中身を知らないので、単なる思い付きですが。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/05 22:41

思想家は「信じる系」、哲学者は「疑う系」という感じがします、なんとなく。



何かを(既に)信じていて、その正統性とか普遍性とかについて(論じようと)考えるのが思想家。なぜ自分がそれを信じているのか(いないのか)、根本から自分を疑って考えようとするのが哲学者だと思いますね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/17 09:09

哲学とは、古代ギリシャで発展した独特の世界観をもった思想であ


るphilosophiaの訳語です。基本的には、ヨーロッパという地域を生
みだす原動力になった物の見方のことです。古代ギリシャより積み
上げられた、独特の概念、用語、世界観、価値・倫理観を持ってい
ます。

そこから転じて、ある社会が保持するトータルとしての世界観を、
「~哲学」というように呼ぶようになっています。「イスラム哲学」
「東洋哲学」といった感じですね。
また、物事を深く突き詰めて考えることや、現世的な考え方を超越
して考えることを、「哲学的」と呼び、そのような思考を行ってい
る人を、「哲学者」と呼ぶようにもなりました。
ソクラテスやプラトンのようなイメージの人たちですね。

それに対して、「思想」とは、ある人間、あるいは社会が、自らの
体験を通じて積み上げた固有の世界観、しばしば、「生き方と切り
離せない思考の全体像」を、「思想」と呼ぶことが多いと思います。

違いの一つは、こうした「思想」は、古代ギリシャ源流の哲学や、
それに類する書物に影響を受けている場合もありますが、特に個人
の「思想」の場合には、個人的な経験により裏付けられたものだ、
ということが多い、ということです。
「哲学」が、様々な用語・概念により論理的に構成される学問体系
として成立しているのに対して、「思想」は、それに限らず、振る
舞いや慣習、政治的行動の仕方まで含むことも多いと思います。

いわゆる「哲学」的思考法を多く含むか、ということが、大きな違
いであることは、No.4さんが指摘している通りだと思います。
「吉本隆明の思想」とか「マルクスの思想」とは言いますが、これら
の「思想」を「哲学」と置き換えると、変な感じがします。両者とも
「哲学的」であることもありますが、吉本の文学的に、マルクスは
社会科学的に語る人ですから。
「デリダの思想」「デリダの哲学」だったらどちらでも違和感はあり
ません。デリダは哲学の用語で語る哲学者ですが、語る内容は、より
幅広い内容を含みますから。

「現代思想」が、なぜ「現代哲学」と呼ばれないかというと、上記の
ような違いを考慮に入れれば、わかることだと思います。つまり、
「現代思想」は、古代ギリシャより積み重ねられた「哲学」の延長に
ありながらも、精神分析学や人類学だったり、先端の科学的成果だっ
たりを内に取り込んでいて、もはや古典的な意味での「哲学」を越え
てしまっているからです。

「哲学者」と「思想家」の違いに関して言えば、前者は、ほぼ必ず
古代ギリシャ源流の「哲学」の素養を経験しているのに対して、後者
は必ずしもそうではない、ということでいいのではないでしょうか。

長くなりましたが、以上です。
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この回答へのお礼

色々な観点から、ていねいなご回答ありがとうございました。少し考えてみたいと思います。

お礼日時:2006/09/05 22:34

思想は、哲学や科学その他の過程を経て、紡ぎだされた「結果」なのだと思います。

つまり、どうあらねばならないのか、何を為さねばならないのか、という規範であり、それが対象化されたものだということです。
思想という範疇の中でも、個人の行動だけに関するものは「信条」と呼ばれるます。この「信条」と「哲学」を比較するならば、迷いは生じないのではないでしょうか。
また、日本語としては微妙ですが「哲学する」「科学する」ということばもあります。このことばが生じやすいのは、これらが動詞的な語なのだからだと思います。一方、「思想」は名詞的です。思想はするものではなく、結果として為されたものだからではないでしょうか。製品としての織物は名詞的ですが、デザイン、はた織、紡績、などは動詞的です。思想は出来上がった織物であり、哲学はデザインやはた織にあたるものだといえるでしょう。ついでにいうならば、その織物をどう衣服や装飾品として活かすかが「実践」ということだと思います(ま、そのまま実用にはならなくて織物ばかりが増えていったりするものですが)。

一般に、哲学書では動機から考察・実証などを経て結論までが書かれます。そういう意味では哲学書は思想を含んでいます。結論に重きをおいて考えるならば、その哲学書は思想書ともいえるものだからです。
一方、思想書でも動機~結論までが書かれます。その意味では哲学と同じことになります。しかし、思想書の場合は、考察・実証などのプロセスの部分が必ずしも哲学であるとは限りません。科学でも宗教でも、また道徳、経験、教養、マナー、ルール、法、しきたり、ならわし、等々でも構わないわけです。

ファミレスのデニーズとガストはどちらが好き(もしくは良い)か、というのをそのまま言ってしまえば趣味の範疇でしょう。しかし、理論化されていれば、それは思想です。でも哲学ではありません。哲学は、その「理論化」の中に潜んでいるものだと感じます。
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この回答へのお礼

>思想は、哲学や科学その他の過程を経て、紡ぎだされた「結果」なのだと思います。
>「思想」は名詞的です。思想はするものではなく、結果として為されたものだからではないでしょうか。

なるほど。「結果」という視点で見ると、区別ができそうですね。今まで、気付きませんでした。

>しかし、思想書の場合は、考察・実証などのプロセスの部分が必ずしも哲学であるとは限りません。

考えてみると、「思想」については、「社会思想」「政治思想」「科学思想」「教育思想」.....と、確かに様々な分野における「思想」があるということですね。

大変よくわかりました。ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/04 20:21

明確な意味合いは(勿論)わかりませんが


哲学は「者」を使ってて、
思想は「家」をつけるという
属性の区別があるかも。

「哲学は理系」で、「思想は文系」で
理系の解説だと収束する方向で
文系の解説だと広大する方向に向かう気がします。
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この回答へのお礼

>哲学は「者」を使ってて、思想は「家」をつけるという属性の区別があるかも。

いつも、思いも寄らない発想、ありがとうございます。

そういえば、科学者○/科学家X、法律者X/法律家○、政治者X/政治家○、経営者○/経営家X、自殺者○/自殺家X、変質者/変質家、実業者X/実業家○......色々ありますね。初めは、パラノっぽいのが「者」で、スキゾっぽいのが「家」かと思ったのですが、経営者、実業家のところで、一貫性がくずれてしまいました。

>「哲学は理系」で、「思想は文系」で

えーっ? 哲学は理系なんですか? やっぱり、思いもよらない発想!
うーん、でも、感じとしては、わからないでもないような気がしてきました。その「感じ」というのは、「哲学」は、何か問題の中心に向かって突き進んでいく感じで、「思想」は、逆に、ある問題を中心に広く様々な問題と関連付けて広がっていく感じがしないでもない。やはり、「哲学」パラノ、「思想」スキゾという感じに近いかも。でも、よくわかんなくなりました。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/04 19:44

学が無いので難しいことは判りませんが、辞書で調べたら哲学って、ものごとの原理、根本的な部分を考える、真理認識の学問ということみたいですね。



仏教では、ダンマ(自然法則)といってますが、ダンマはお釈迦さまがそれに気づいた(悟った)だけで、もちろんお釈迦さまが作ったワケではなく、ずっと昔からあったものであると言います。(当たり前のことですが・・)


論語に「述べて作らず、信じて古を好む(子曰、述而不作、信而好古、竊比於我老彭)」とあるように、仏教も自然法則を述べてはいるが、何も作ってはいないんです。あくまでも真理を説いているにすぎないんです。言い方を工夫してはいるでしょうが、何も作ってはいないんです(まともな仏教ならば)

これが哲学であると想うんです。
原理、根本を探求するのが哲学であるのならば、これこそが哲学のあるべき姿だと想うんです。
「述べて作らず」です。




もちろん思想家とは何か?ということは、私なんかにゃ判らないのですが、もし、単純に上記の対極を示すのならば「述べて作る人」をいうのではないかと想います。

これも辞書で引いてみたら「人がもつ、生きる世界や生き方についての、まとまりのある見解」とありました。
原理とか真理ではなさそうな予感です。。。
そうなると、たとえば、ヒットラーにも思想があったと想うんです。
人殺しには、人殺しの論理というのがあるんです。

それは述べて作っていると想うのです。

まあ、こんな感じがわたしの意見です。
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この回答へのお礼

真理を認識して「述而不作」が哲学で、人工的に「述而作」のが思想と言うことでしょうか。

確かに、「現代思想」とか「思想家」という熟語ではなく、単独で「思想」というと、対象は哲学より広そうだけど、深さは、哲学より浅い感じがしないでもないです。

もう少し考えてみます。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/03 21:12

哲学と思想の違いが気になるようですね。


前にも一度見たような気がします。

私はあまりというより、全く気になりませんが、考えて見ます。

一時間考えました、でも無駄でした。

結局、哲学者・哲学と思想家・思想と言う言葉の指示する具体的な内容がわからない。

以下は私の妄想です

物理の世界に、物質の階層性が有るのはご存知ですか。

量子レベルや、原子レベル、有機体のレベルには、数的な階層があるらしいです。
つまり、中間に言葉に出来ない空虚が有るのかな。

各レベルは水平の関係があるかも、
有機体は有機体のレベルで、知覚・・・うん言葉に出来ない。

突然ですが、哲学はレベルを乗り越えて、思想はレベルの中で考える
間違っているでしょうね、考える参考になれば。多分なりませんが。
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この回答へのお礼

>量子レベルや、原子レベル、有機体のレベルには、数的な階層があるらしいです。

量子が集まって、原子ができ、原子が集まって分子ができ、分子が集まって有機体ができるというような階層構造があるように思いますが、思想と哲学ではどっちが上位レベルなんでしょうね。

>突然ですが、哲学はレベルを乗り越えて、思想はレベルの中で考える

ということは、思想のレベルより哲学のレベルの方が上位なのか。

なかなかむずかしいです。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/03 21:02

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Q哲学者と思想家の違い

最近、哲学に関する書籍を購入し、読み始めたのですが、哲学者と思想家の違いが分からず、はじめから躓いています。何を基準に哲学者と思想家で分かれているのでしょうか?教えてください。

Aベストアンサー

基本的に区別できないし、ほぼ同義語と捉えていいと思います。

ただニュアンスとしては
思想家とは社会問題に関心が強く、様々な社会的活動の指導者になったりする人、
哲学者とは象牙の塔にこもって抽象的な議論に頭を悩ませている人、
というくらいの違いはあると思います。

しかし抽象的な議論を展開しつつ、かつ社会問題にも積極的に発言する人もいるので、厳密な区別はないと思います。

人によっては哲学者を思想家より上にみたり、下にみたりする場合がありますが、文脈によりけりです。

もともと境界があいまいな言葉なので、分けて使う場合には必ずその本や論文の中で、著者なりの定義が記述されていると思います。
そうした記述がなければ、その本は怪しいと疑っていいかもしれません。

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
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イデオロギ-と言うんです。

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だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

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一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

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Q「哲学者」や「思想家」は職業になりますか?

「哲学者」や「思想家」は職業になりますか?
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Aベストアンサー

もちろん職業になります。
大学教授などが多いので先生と呼ばれます。
下記の中沢新一氏もその一人です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B2%A2%E6%96%B0%E4%B8%80

Q人間の3大欲とはなに?

この質問は このジャンルでふさわしいのかどうかちょっと迷ったのですが・・・。

人間の 3大欲といわれるものがありましたよね。
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また その「人間の3大欲」という言葉は
誰が 言い出したのでしょうか?

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人間の三大欲望は
食欲 睡眠欲 性欲 です。
食欲は,物を食べ,エネルギーにする事。
睡眠欲は,睡眠をとり,脳を休ませること。
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この3つはある程度は我慢が出来ますが,人間が生きていくためには必ず必要なことです。欲望というより,必要不可欠なことです。
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Q現代の哲学者にはどういう人がいますか?

哲学関連の本を最近読んでいますが、紹介されている人の多くがすでに無くなった人です。
いま、活躍している哲学者はたとえばどのような人がいますか?
宗教家ではなく、純粋に哲学者ということで知りたいので、よろしくお願いします。
また、どのようにして生計をたてているのかも知りたいのですが。やはり大学の先生だとか、副業をもっているのでしょうか。

Aベストアンサー

こんばんは。

存命の哲学者ですぐに思い浮かぶのは・・・

“戦う哲学者”と呼ばれてる? 中島 義道さんですかね・・・

『怒る技術』(PHP研究所)『私の嫌いな10の言葉』(新潮社)『孤独について』(文春新書)『哲学の道場』(ちくま新書)『<対話>のない社会』(PHP新書)『うるさい日本の私』(新潮文庫)『ウィーン愛憎』(中公新書)などの著書があります。
来歴は、手元に本が無いので失念しましたが、確かどこかの大学教授だったと思います。

ご参考まで・・・

Q人間は考える葦である とは?

ふと頭をよぎったのですが、、
「人間は考える葦である」とはどういう意味なのでしょう? また誰の言葉なのでしょう? 簡単な質問ですみません。 よろしくお願いします。

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  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。
  
  残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。
  
  それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。
  
  これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。
  
  少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思います。
  
  この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。
  
  暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。
  

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去し...続きを読む

Q哲学科に進学したことをとても後悔している

私は、現在、大学で哲学を専攻しています。
大学の哲学科に入学する前は、哲学が好きだったのですが、
大学の哲学科に在籍する内に、日本における哲学に対するネガティブなイメージに押しつぶされ、自分が哲学科の学生であることに強いコンプレックスを感じるようになり、哲学に対する意欲を失ってしまいました。また、大学の哲学科のカリキュラムも(一応、世間的には一流大学と評価されています)ひたすら語学の学習ばかりをやらされ、
肝心の哲学の授業は、教授がぼそぼそと聞き取りづらい声で、
話すのを聞かされるだけで、こんなことなら、法学部にでも行って、
趣味で哲学書を読んでいた方が、よっぽどマシだったのではないか
と今になって気づきました。

そして、哲学科であると言うと、周囲に奇異な目で見られることが頻繁にあり、(たとえば、文学部で英文学を専攻しているというのと、哲学を専攻しているというのでは、明らかに相手の反応が異なる。)
それが原因で、元々内向的だった性格が更に内向的になり、
情緒不安定な状態になっています。

哲学専攻の同級生は、哲学研究者を志望するとても勉強熱心な優等生タイプと、哲学は単位を取るのに必要なだけ手際よく勉強し、一流企業への就活にエネルギーを費やすタイプに二極化しています。しかし、
自分はそのどちらでもなく、いたずらに無為な日々を送っています。

このまま大学を卒業して、「哲学科卒という十字架」を一生背負って生きていくことに底知れぬ不安を感じます。このまま文学部哲学科を卒業するべきなのか、疑問を感じています。中退や編入も真剣に考慮し、某旧帝大の経済学部の編入試験に合格したのですが、なぜか、入学辞退してしまいました。

現在、自分は4年生で卒業間際ですが(就活はしなかったので、
内定は得られず、卒業後の進路は未定です)
自分が今選択に悩んでいるのは、
一このまま哲学科を卒業する
二今からでも、哲学科卒という経歴を回避するために卒業せずに、
他大学他学部への編入を再び目指す、あるいは中退してしまう
という選択をどうするべきかということです。

勿論、以上のような悩みは神経症・強迫症的な悩みであり、
自分の精神的未熟さや弱さが基底にあることは自覚しています。
また、大学で哲学を専攻すると決定したのは、自分自身であり、
誰に強制されたわけでもありません。

それゆえ、自分の悩みが嘲笑とともに、黙殺されるのも覚悟しています。だが、自分にとっては、非常に深刻な問題で、日々、過去の進路選択への激しい後悔と、将来に対する不安に、押し潰されそうなのです。

自分自身で色々考えていても、思考が堂々巡りをして、
突破口を見出せない状態が続いております。
そこで、皆様から、多角的な視点からのアドバイスを頂ければ、
幸いです。何卒、よろしくお願い致します。

私は、現在、大学で哲学を専攻しています。
大学の哲学科に入学する前は、哲学が好きだったのですが、
大学の哲学科に在籍する内に、日本における哲学に対するネガティブなイメージに押しつぶされ、自分が哲学科の学生であることに強いコンプレックスを感じるようになり、哲学に対する意欲を失ってしまいました。また、大学の哲学科のカリキュラムも(一応、世間的には一流大学と評価されています)ひたすら語学の学習ばかりをやらされ、
肝心の哲学の授業は、教授がぼそぼそと聞き取りづらい声で、
話すの...続きを読む

Aベストアンサー

どのような「ネガティブなイメージ」でしょうか。
アカデミックな場面でもたれているイメージと、
世間一般でもたれているイメージでは、ちがうような気がします。

世間一般のほうですが、就活で困るというのは深刻です。
が、哲学科でも、学部卒のことなら、それほど気にしなくてもよいのでは。
修士や博士卒なら、偏見の目で見られても仕方ありませんが、
それは哲学科だけに限られることではないでしょう。
学部卒でそこまで偏見の目で見るのは明らかにおかしいので、
運の悪い面接官に当たったくらいに思うしかないと思います。
できれば、偏見の目で見られているからこそ、発奮していい就職をしてやるぞ、
と思いきることができればよいのですが。
哲学科の友人がそうでした。

日常生活であれば、てきとうに切り返す方法を身につけるしかありません。
そういう場面での偏見は、抑圧ど同時に促進になったりもするので、
かえってそういった偏見を生かしてうまくキャラづけするか、
うまくそういう話題にはまらないように言動を調整していけばよいと思います。
仲のいい友達からそう思われているのであれば、
コミュニケーション上の振りだと考えていけばよいのでは。
そこまでするような相手でなければ、話すことを避けるか、
無視すればよいと思います。
無視できないのであれば、それは、耳に飛びこんできた自分への評価を、
すべて自分のなかに位置づけていかないと、
と強迫的に思っているのかもしれません。
ときには、評価を無視することも大事だ、
と意識して自分に言い聞かせるようにしないと、切りがありません。
自分にたいする肯定的な評価、否定的な評価のどちらについても、
正当として受けいれなければならないもの、
不当として拒否し、正さねばならないものに加えて、
正当だろうが不当だろうがどうでもいいものがあります。
その辺りを選別していければ、だいぶ気が楽になるのではないでしょうか。

カリキュラムについて。
哲学の本を読むと、その語学力に舌を巻きます。
日本語で読んでさえ複雑な論理で書かれていて難しいのに、
それを英語だけでなく、フランス語やドイツ語で学んでいるわけで。
専門家になれば、ただ正確に読めればよいというわけではなく、
限られた時間で正確に読み解くことが求められるのでは。
語学の学習があるというのは、
本来なら個人で訓練してもおかしくないところを、
わざわざ教員がつく上に単位が出るのだから、むしろ贅沢な話では。
……という感じで、各授業に意味を見出せばよいと思います。
この語学の講義では、これを目標にする、のように。
予習も、ただ読むのではなく、短時間で読みきれるように練習するなど。
そうでないと、語学が多いのは辛いかもしれません。

ただ哲学書を読むだけなら、ほかの学部でもできると思いますし、
がんばれば今年出た現在の哲学者の論文を読むこともできます。
しかし、その論文の生の評価、いまの雰囲気といったものを知るには、
やはり哲学科に在籍しないと無理なのではないかと思ったりもします。
部外者として哲学をかじっていたほうが楽しいのは当たり前で、
研究者になるための訓練としては面倒なことのほうが多いだろうと思います。
加えて、教員にやる気がなかったりすると、
学生のほうも面倒なことをやる気さえ起きないかもしれません。
ただやはり、質問者さんについては、部外者ではなく哲学科で学ぶメリットに
まったく目を向けていないところが気になりました。
哲学科に在籍していなければ、もっと後悔しているかもしれません
(どちらのほうが後悔することになるかはわかりませんが)。

いずれにしても、後悔先に立たずということで、
まずいまの自分の立場を肯定するところから始めてみては。
メリットを最大化し、デメリットを最小化する方向に努力するしかありません。

どのような「ネガティブなイメージ」でしょうか。
アカデミックな場面でもたれているイメージと、
世間一般でもたれているイメージでは、ちがうような気がします。

世間一般のほうですが、就活で困るというのは深刻です。
が、哲学科でも、学部卒のことなら、それほど気にしなくてもよいのでは。
修士や博士卒なら、偏見の目で見られても仕方ありませんが、
それは哲学科だけに限られることではないでしょう。
学部卒でそこまで偏見の目で見るのは明らかにおかしいので、
運の悪い面接官に当たったくら...続きを読む

Q「理屈」の意味について。よく「お前は理屈っぽい」「お前の理屈は正しい」

「理屈」の意味について。よく「お前は理屈っぽい」「お前の理屈は正しい」「その理屈でいくと、こういうことになるよな」「理屈で物を語るな」・・・とか聞くんですけど、上記の使用例だけで結構ですので、理屈ってわかりやすく説明するとどういう意味なんですか?

辞書で調べると、「物事の筋道」とかなっていましたが、物事の筋道って何??って感じです。

Aベストアンサー

>「その理屈でいくと、こういうことになるよな」
:その理屈:(たとえば「(谷垣代表の)”考え方”」  でいくと民主党の考えは全部悪いということになりますよね。

>「お前の理屈は正しい」

これも上記と同様です。「お前の考え方は正しい」ということですね。

>「お前は理屈っぽい」
理屈っぽい:具体的な事例から離れて、とかく言葉だけで物事を抽象的に考えたり、頭の中だけで思いを展開させたりする傾向が強いことを指します。一般的には批判的ないいかたで、どちらかといえばよくないとされる傾向です。

「おまえは物事を頭の中だけで操作、処理してこねくり回しすぎる。もうすこし現実に沿って簡単に考えられないのか!」というような意味でしょう。この言葉自体は中間的な可もなく不可もないもの(発言者が悪いのか言われたものが悪いのか、これだけでは判断できない)です。

>「理屈で物を語るな」

これも上記と同様でしょう。理屈というのは言葉の世界ですから、物とは相容れないところがあるのは当然です。しかし、物はあくまで物に過ぎません。これをうまく転がし処理するのに言葉は不可欠のツールです。これがわかっていない、頭の固い、言葉を扱うのが不得意なひとが連発する苛立ち、悲鳴のような言葉である場合もよくある事例です。

>「その理屈でいくと、こういうことになるよな」
:その理屈:(たとえば「(谷垣代表の)”考え方”」  でいくと民主党の考えは全部悪いということになりますよね。

>「お前の理屈は正しい」

これも上記と同様です。「お前の考え方は正しい」ということですね。

>「お前は理屈っぽい」
理屈っぽい:具体的な事例から離れて、とかく言葉だけで物事を抽象的に考えたり、頭の中だけで思いを展開させたりする傾向が強いことを指します。一般的には批判的ないいかたで、どちらかといえばよくないとされる傾向です。...続きを読む

Q哲学と思想の違いを教えてください

哲学と思想の違いを教えてください。

私の友人が、「現代思想は好きだけど、哲学はあまり面白いと感じない」と言っていました。
そこで疑問に思ったのですが、「哲学」と「思想」は違うのでしょうか?

教えてください。

Aベストアンサー

現代思想と比べているのであれば、それは近代哲学のことじゃないでしょうか?

まず、ざっくりと

『思想』・・・人間の考えのこと
『哲学』・・・人間の考えを体系化したもの。

これらに関しては枠を決めただけの話であって、対立するものではないですよね。
ですから、これを比較するのってヘンじゃないの?と思われるかもしれません。


ですが、そういった単純な話ではなく、
ことさらに『現代思想』と言う言葉を使うのであれば、
それは上記のような単純なカテゴライズの話ではなく、
『古代ギリシア哲学』『近代哲学』という
哲学自体の歴史のお話なのではないでしょうか。

こういった意味であれば、その前提となる部分を確認すれば
誤解も解けるんじゃないかと思うのです。




まず、古代。人類社会では『(古代)ギリシア哲学』が起こり、
世界の有り様はどんなものなの?ということを探ろうとしました。
ところが、当然答えは出ませんでした。
結局のところ、『万物は火だ!』とか『見えないところに真実がある!』などと
言ったところで、証明が全くできないのです。
とはいえ、その副産物として、『弁証法(対話によって真実をさぐる)』や
『詭弁』の存在などといった物の考え方の基礎が少しずつ固められていきました。


この一見無意味にも思えた探索は数千年ほど続き、
その過程で『個』という考えが発見されると、一気に知識の爆発が始まります。
考える対象はむしろ『世界』ではなく、『人が世界をどう認識するか』
にシフトしていったんです。これが『近代哲学(近代合理主義)』であり、
今日、単純に『哲学』という場合これを指す事が多いです。
この近代哲学の合理性というのは
法学・経済学・社会学・言語学・政治学といった様々な分野に応用され、
人間社会を一気に発展させていきました。




ところが、二度の世界大戦を契機に、ある疑念が生まれます。
人間には合理性があり、同じ前提から正しい選択をしているはずなのに、
失敗や結論の違いが多いのでしょうか?
つまり、『理性』は本当に正しいのか?というわけです。


ここで登場したのが『現代思想』です。
実は『個』って、『社会』の影響を受けるんじゃない?というアプローチから
『社会』ってなんじゃい?ということを探ろうという試みが始まりました。
特色は『近代哲学』を前提に、社会学や言語学といった派生の他の学問からの
知識を還元し、より分析に重きをおいている点です。

さらには、この『社会』を変える方法はあるのか?という
方法論にまで進んでいきます。
現代の諸問題は『現代思想』に集約されているわけです。



『古代・近代哲学』より『現代思想』の方が面白いと言うのであれば、
より実証的ですし、根拠もきちんと示されている点がまず違いますよね。
それに社会の問題を解決しよう、という強い意思の力の存在が
やはり古代や近代とは異なる点でしょう。

入り口として、実生活に近いのもやはり『現代思想』であるかと思います。
『万物は火だ!』とか言っちゃっても、発展した後の世界の住人である我々の
知識からすれば、何言ってるのこの原始人?とか思ってしまいますよね。
過去の人間には否定することが不可能であっても、
現代の我々にはこれを論破することができる素地が標準的に備わっているのです。



とはいえ、現代思想はあくまで『古代』『近代』といった過程を
踏み、前提の条件を備えた上での議論を進めています。
もし、意見の違いが生じた場合は、これらの前提に立ち戻って
確認することで、多くの場合は合意が得られるわけです。
まったくの無駄、というわけではなく、我々の素地を作ってくれた点に関しては
敬意を払ってもいいんじゃないでしょうか。
(まあ、面白いかは確かに別ですけどね)

現代思想と比べているのであれば、それは近代哲学のことじゃないでしょうか?

まず、ざっくりと

『思想』・・・人間の考えのこと
『哲学』・・・人間の考えを体系化したもの。

これらに関しては枠を決めただけの話であって、対立するものではないですよね。
ですから、これを比較するのってヘンじゃないの?と思われるかもしれません。


ですが、そういった単純な話ではなく、
ことさらに『現代思想』と言う言葉を使うのであれば、
それは上記のような単純なカテゴライズの話ではなく、
『古代ギリシア哲学』...続きを読む


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