「夫を成功」へ導く妻の秘訣 座談会

哲学と思想の違いを教えてください。

私の友人が、「現代思想は好きだけど、哲学はあまり面白いと感じない」と言っていました。
そこで疑問に思ったのですが、「哲学」と「思想」は違うのでしょうか?

教えてください。

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A 回答 (8件)

現代思想と比べているのであれば、それは近代哲学のことじゃないでしょうか?



まず、ざっくりと

『思想』・・・人間の考えのこと
『哲学』・・・人間の考えを体系化したもの。

これらに関しては枠を決めただけの話であって、対立するものではないですよね。
ですから、これを比較するのってヘンじゃないの?と思われるかもしれません。


ですが、そういった単純な話ではなく、
ことさらに『現代思想』と言う言葉を使うのであれば、
それは上記のような単純なカテゴライズの話ではなく、
『古代ギリシア哲学』『近代哲学』という
哲学自体の歴史のお話なのではないでしょうか。

こういった意味であれば、その前提となる部分を確認すれば
誤解も解けるんじゃないかと思うのです。




まず、古代。人類社会では『(古代)ギリシア哲学』が起こり、
世界の有り様はどんなものなの?ということを探ろうとしました。
ところが、当然答えは出ませんでした。
結局のところ、『万物は火だ!』とか『見えないところに真実がある!』などと
言ったところで、証明が全くできないのです。
とはいえ、その副産物として、『弁証法(対話によって真実をさぐる)』や
『詭弁』の存在などといった物の考え方の基礎が少しずつ固められていきました。


この一見無意味にも思えた探索は数千年ほど続き、
その過程で『個』という考えが発見されると、一気に知識の爆発が始まります。
考える対象はむしろ『世界』ではなく、『人が世界をどう認識するか』
にシフトしていったんです。これが『近代哲学(近代合理主義)』であり、
今日、単純に『哲学』という場合これを指す事が多いです。
この近代哲学の合理性というのは
法学・経済学・社会学・言語学・政治学といった様々な分野に応用され、
人間社会を一気に発展させていきました。




ところが、二度の世界大戦を契機に、ある疑念が生まれます。
人間には合理性があり、同じ前提から正しい選択をしているはずなのに、
失敗や結論の違いが多いのでしょうか?
つまり、『理性』は本当に正しいのか?というわけです。


ここで登場したのが『現代思想』です。
実は『個』って、『社会』の影響を受けるんじゃない?というアプローチから
『社会』ってなんじゃい?ということを探ろうという試みが始まりました。
特色は『近代哲学』を前提に、社会学や言語学といった派生の他の学問からの
知識を還元し、より分析に重きをおいている点です。

さらには、この『社会』を変える方法はあるのか?という
方法論にまで進んでいきます。
現代の諸問題は『現代思想』に集約されているわけです。



『古代・近代哲学』より『現代思想』の方が面白いと言うのであれば、
より実証的ですし、根拠もきちんと示されている点がまず違いますよね。
それに社会の問題を解決しよう、という強い意思の力の存在が
やはり古代や近代とは異なる点でしょう。

入り口として、実生活に近いのもやはり『現代思想』であるかと思います。
『万物は火だ!』とか言っちゃっても、発展した後の世界の住人である我々の
知識からすれば、何言ってるのこの原始人?とか思ってしまいますよね。
過去の人間には否定することが不可能であっても、
現代の我々にはこれを論破することができる素地が標準的に備わっているのです。



とはいえ、現代思想はあくまで『古代』『近代』といった過程を
踏み、前提の条件を備えた上での議論を進めています。
もし、意見の違いが生じた場合は、これらの前提に立ち戻って
確認することで、多くの場合は合意が得られるわけです。
まったくの無駄、というわけではなく、我々の素地を作ってくれた点に関しては
敬意を払ってもいいんじゃないでしょうか。
(まあ、面白いかは確かに別ですけどね)
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思想は、「その場でその人が考えたことだけ」


哲学は、「今までいろいろな人がいて、その人たちがいろいろ考えたことがあって、その流れを受けての、その人の考えたことまで全部」
背景からすべて知らないとだめなのが哲学。だって学問だもん。
思想は、その人の考えだけで完結させてOK。だからサルトルの思想であればサルトルの考えだけでよいけど、哲学となるとこれまでの経緯とふまえて理解しないとだめ、ということになるので大変。
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思想・・・「好きなんだもん。

この考え」。
哲学・・・「好きなんだもん。この考え」。
本当の哲学・・・例えて言うなら、誰彼を問わず、すぐ手元にあります。
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思想≧哲学と考えていいです。



思想は哲学や文学や芸術や宗教や科学などの
様々の分野の知識体系やその根底にある総合観念です
スケールが広くて全体論的なものと考えて下さい

哲学は主に実存論や認識論や価値論を知的に分析します=抽象的理屈っぽい
実存論とは究極的に存在してるのか何か?→唯物論と唯心論とかあります
認識論とはどうして知ることができるのか?→合理論と経験論があります
価値論とはどうすべきか、どう生きるべきか?→行為の選択に関する考え方です

哲学も昔は学問の総合分野でありましが(特にギリシャ哲学など)
現代においては主に上のようなことを主題にしてます
というのは哲学から他の学問が分化していったからです(政治学や自然科学など)
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 こんにちは。




 つぎのように言われて あなたは どう答えるか?

 ( a ) 《和を以って貴しと為し さからうこと無きをむねとすべし》

 
 いくつかの手続き上の議論を端折りますが いちばんの問題は もしそれがあるとするなら このように一般に人びとに向けて言い放つという行為が どういう意味を持つか。ここにあると考えられるのではないでしょうか。

  ( b ) 《和を以って貴しと為し さからうこと無きをむねとすべし》と語った人間は 何を言おうとしているのか? なんでそう語ることができたのか?

 と。
 命題( a )は その内容を思ったり考えたりしたのだとするなら おそらくそれは 《思想》であるでしょう。――と矛先を変えて 別の問題に入りますが だとすればたぶん

 ( c ) 《思想》とは その人が生きているその実態に沿ってその生活態度を自己表現したもの

 ではないかと見られます。
 ここから

 ・ 《和》とな何か?
 ・ 《その和がとうとい》とは どういうことか? 
 ・ そのまま言えるか?
 ・ 《さからう》とは 何に誰に対してを言うのか?
 ・ ほんとうに《さからってはいけない》のか?
 ・ ・・・

 と じつはさらに《思想》があらたに展開され得ます。

 すなわち たとえば

 ・ 《和と思っていたことが乱されたとき やはり和を以って貴しと為し さからうことは一切為すことなく ことに処する》のか? 
 ・ 《和を乱したというとき 乱された和とは別の或る種の和が出来ていたとするなら そのときどう考えどう対処する》のか?
 ・ ・・・

 とさらに思想の展開はつづきます。
 というわけで――この例題については もうほっぽり出しておきますが―― けっきょく次のようになるでしょうか。

 ( d ) 《思想》も 知恵と知識とを問い求める哲学である。

 ( e ) おそらく哲学は あらゆる可能性を考慮して そのようなどんな場合にも通用する思想を――回り道をしてでも――用意しようとするいとなみである。

 ( f ) 思想とは 《生活態度》であるなら そのいま 時には待ったなしの問題に対処しなければならない場合があって そのときにもすでにつねに実践している哲学内容を言う。

 ( g ) 哲学は 言わば迂回生産という役割りを持ち いわゆる現場から一歩しりぞいたところから その現場における問題をあらゆる考察をほどこしつつ交通整理するという役目にまわるかも知れない。

 ( h ) けれども 思想も 哲学である。哲学も 思想である。

 
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哲学


真理とか、人類の共通認識とかと常にすり合わせて進められる学問のひとつ

思想
まあ人間の思いとかものの見かた、願望でしょうか。
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>哲学と思想の違いを教えてください。




思想は個々人が好き嫌いを基準に選択できるもの。

哲学は個人の好き嫌いで選択できるものでは無い部分が多い(=論理学や、哲学史など)。
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哲学:世界観と認識論を軸とした思考の体系。


思想:単なる人間の考え、思考。

哲学は必ず上述のように理論的な形をとっていますが、思想は意識の内容であって必ずしも明確な世界観と認識論を有しなくても思考を伴うものであれば十分です。現代社会を如何に生き抜くのか?現代社会と如何に関わるのか?そういう思考の結果に形成された考えは、思想に他なりません。そういう思想を世界観と認識論とで解明し論拠付けるのが哲学と考えることができます。
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Q哲学と論理学の違い

哲学と論理学の違いって何ですか?
細かい点ではなく大きな違いについて
わかりやすく教えていただけましたら嬉しいです。
宜しくお願いします。

Aベストアンサー

論理学:命題が,絶対に真であるか,あるいは絶対に偽であるか,あるいは絶対に真とも偽とも言えないか,について考える学問.

哲学:命題の本質について考える学問.

だと思います.哲学では,思考の過程に説得力を持たせる手段として論理学が使用されると思います.論理的に正しくない思考から導かれた結論は間違っているに決まってますからね.

Q哲学者と思想家の違いは何ですか?

「哲学者」と「思想家」の違い、あるいは、「哲学」と「思想」の違いは何でしょうか?

「現代思想」という表現は、よく見かけますが、「現代哲学」という表現は比較的少ないように思います。どのように使い分けているのでしょうか?

Aベストアンサー

思想はイデオロギーですよね。イデオロギーは、人間の行動の基本となる、根本的なものの考え(観念形態)です。したがって、思想には、行動が伴い、往々にして、社会的(集団的)な広がりを持ちます。これに対して、哲学は、世界や人生の究極の根本原理を追求する学問であり、あくまでも、個人的なレベルにとどまります。

「カント哲学」はカント個人の哲学であり、他の人の哲学にはならないのです。カントを研究する人は「カント哲学の研究者」であって、決して「カント哲学者」ではないのです。カント哲学に心酔する人も、カントと同じ哲学を持つことはありえません。仮に、カントと同じ哲学を持ったとしたら、その人は「哲学者」ではなく、「研究者」になります。自ら思索し、自らの哲学を創る人を哲学者といいます。

それから、東洋哲学というのも適切な表現ではありません。東洋には哲学はありません。哲学は古代ギリシャを発祥とする個人的で、自由な思考形式です。

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Q哲学と宗教との違い

 こんばんは。
 哲学や宗教等を学ばれた方に質問です。
 私は全くの素人ですが宜しくお願い致します。

 哲学の入門書には、キリスト教など宗教の説明も記載されておりますが、宗教とは哲学のカテゴリーに含まれるものなのですか? それとも宗教と哲学とは全く異なるものなのですか?
 哲学と宗教との違いを教えて下さい。宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

哲学は広く人間の思想を扱う学問で、
内容は大まかに、人生論、存在論、認識論
になります。

 宗教思想も人間の思想に変わりありません
から、哲学の扱う対象となります。
 宗教の教えが本当に神から伝えられたもの
だとしても、それを伝えているのは
人間ですから、当然人間の感覚に
置きなおして、教えは伝わっているんです。

>哲学と宗教との違いを教えて下さい。

 宗教にもいろいろ種類がありますが、
共通しているのは、神なり、教祖さまの
教えなり、何らかの教えを信じるという
「信仰」を基礎といしていることです。

 哲学は真実は何ののかという
探究心を基本とした、人間の「理性」が
基礎となっているところですが、
その理性すら時に疑い、人間の感覚と
現象が一致した真理があっても
その先を考えてみるといった
試みをするものです。

 人間の理性を深く追求した哲学者と
して、イマニュエル・カントという
人が有名です。

Q人間は考える葦である とは?

ふと頭をよぎったのですが、、
「人間は考える葦である」とはどういう意味なのでしょう? また誰の言葉なのでしょう? 簡単な質問ですみません。 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。
  
  残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。
  
  それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。
  
  これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。
  
  少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思います。
  
  この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。
  
  暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。
  

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去し...続きを読む

Q形而上学とは

現在、国語の授業で
「広告の形而上学」という形而上学をテーマにした論文を扱っています。
文章の雰囲気は分かるのですが形而上学
というテーマそのものがよく分からないので
どうも、しっくりこないでいます。

「形而上学」というものをくだいて説明して
頂きたいのですが。。。

中学3年の私にも分かるくらいのレベルで説明して頂けたら嬉しいです。(教科書は高校1年生のものですが)

宜しくお願いします。

Aベストアンサー

すごい教材を使用されていますね。大学受験レベルなんじゃ。。。
もしかしてその文章の出典は『ヴェニスの商人の資本論』(岩井克人)でしょうか?

No,1の方の説明が正しいと思うのですが、もっともっと噛み砕いてみると。。。

まず「形而下学」は形あるもの、目に見えるものと解釈してください。それに対する「形而上学」は形のないもの、目には見えないものということになりますね。人間の視点や物理的なもの(形而下学)に対する神の視点や精神的なものが「形而上学」と考えることができると思います。



あと、ソシュールの言語論も把握すると、理解が深まると思います。

人間の頭の中で考えることって、区切りがつけられず【無限】に広がっていきますよね。世界や宇宙だって、区切りがつけられず【無限】に広がっていく存在です。人間は他人に対して、そういうものを表現して、考えをわかってもらい、指し示しているものを共有しようとします。

その「表現」の際に使われるのが「ことば」ですよね。ことばで考えを説明し、ことばで指し示しているものが何かをわかってもらおうとします。

けれども、ことばは【有限】の音の組み合わせですよね。「椅子」ということばがあれば、「い」という発音と「す」という発音の組み合わせです(厳密には違いますが)。発音できるものは【有限】というのは、五十音表を見てもわかると思います。

ここで矛盾にお気づきでしょう。我々は、無限の世界を有限の言葉でしか説明できないのです。

そうすると、ことばはある一つの意味を指すのでは使い切れません。ことばに複数の意味や広がりのある意味をもたせないと、無限の世界を表現できなくなってしまうのです。ことばに対してモノが一対一の対応関係をもつことはないのです。

たとえば「犬」ということばを聞いて、あなたと僕とが思い浮かべる「イヌ」は別のものでしょう。それは、「犬」という言葉が意味するものが広い範囲のものをカバーしているからです。

じゃあその範囲ってどこまでって考えると、それはあいまいなイメージでしかないのです。範囲を確定しようとすると、「狼」でもなく「豚」でもなく「猫」でもなく「馬」でもなく…と、延々と「犬ではないもの」を消去していくことしかできません。

ことば一つ一つの意味にはこういう広がりがあるわけです。すると、ことば一つ一つには意味はなく、他のことばとの違い、つまり、【差異】によってしか意味をなさないということがわかると思います。これを裏返せば、「差異が意味をつくる」ということになります。



ソシュールの話が長くなりましたが、重要なのは最後の段落です。「差異が意味をつくる」という結論が出ていますが、「広告の形而上学」でも同じようなことが言われてないでしょうか。

広告は「形がない」ものです。「形のない」商品、つまり形而上的な商品です。それが商品として成り立つのはなぜなんだろうと考えると、他の広告があって、その広告と違いがあるから商品として成り立つわけですね。広告同士の差異が広告の価値を決めて、商品として売れるわけです。たくさんのあふれる広告の中では「差異が意味(価値)をつくっている」わけですね。



おわかりいただけたでしょうか。長くなりすみません。。。

すごい教材を使用されていますね。大学受験レベルなんじゃ。。。
もしかしてその文章の出典は『ヴェニスの商人の資本論』(岩井克人)でしょうか?

No,1の方の説明が正しいと思うのですが、もっともっと噛み砕いてみると。。。

まず「形而下学」は形あるもの、目に見えるものと解釈してください。それに対する「形而上学」は形のないもの、目には見えないものということになりますね。人間の視点や物理的なもの(形而下学)に対する神の視点や精神的なものが「形而上学」と考えることができると思います。
...続きを読む

Q哲学科に進学したことをとても後悔している

私は、現在、大学で哲学を専攻しています。
大学の哲学科に入学する前は、哲学が好きだったのですが、
大学の哲学科に在籍する内に、日本における哲学に対するネガティブなイメージに押しつぶされ、自分が哲学科の学生であることに強いコンプレックスを感じるようになり、哲学に対する意欲を失ってしまいました。また、大学の哲学科のカリキュラムも(一応、世間的には一流大学と評価されています)ひたすら語学の学習ばかりをやらされ、
肝心の哲学の授業は、教授がぼそぼそと聞き取りづらい声で、
話すのを聞かされるだけで、こんなことなら、法学部にでも行って、
趣味で哲学書を読んでいた方が、よっぽどマシだったのではないか
と今になって気づきました。

そして、哲学科であると言うと、周囲に奇異な目で見られることが頻繁にあり、(たとえば、文学部で英文学を専攻しているというのと、哲学を専攻しているというのでは、明らかに相手の反応が異なる。)
それが原因で、元々内向的だった性格が更に内向的になり、
情緒不安定な状態になっています。

哲学専攻の同級生は、哲学研究者を志望するとても勉強熱心な優等生タイプと、哲学は単位を取るのに必要なだけ手際よく勉強し、一流企業への就活にエネルギーを費やすタイプに二極化しています。しかし、
自分はそのどちらでもなく、いたずらに無為な日々を送っています。

このまま大学を卒業して、「哲学科卒という十字架」を一生背負って生きていくことに底知れぬ不安を感じます。このまま文学部哲学科を卒業するべきなのか、疑問を感じています。中退や編入も真剣に考慮し、某旧帝大の経済学部の編入試験に合格したのですが、なぜか、入学辞退してしまいました。

現在、自分は4年生で卒業間際ですが(就活はしなかったので、
内定は得られず、卒業後の進路は未定です)
自分が今選択に悩んでいるのは、
一このまま哲学科を卒業する
二今からでも、哲学科卒という経歴を回避するために卒業せずに、
他大学他学部への編入を再び目指す、あるいは中退してしまう
という選択をどうするべきかということです。

勿論、以上のような悩みは神経症・強迫症的な悩みであり、
自分の精神的未熟さや弱さが基底にあることは自覚しています。
また、大学で哲学を専攻すると決定したのは、自分自身であり、
誰に強制されたわけでもありません。

それゆえ、自分の悩みが嘲笑とともに、黙殺されるのも覚悟しています。だが、自分にとっては、非常に深刻な問題で、日々、過去の進路選択への激しい後悔と、将来に対する不安に、押し潰されそうなのです。

自分自身で色々考えていても、思考が堂々巡りをして、
突破口を見出せない状態が続いております。
そこで、皆様から、多角的な視点からのアドバイスを頂ければ、
幸いです。何卒、よろしくお願い致します。

私は、現在、大学で哲学を専攻しています。
大学の哲学科に入学する前は、哲学が好きだったのですが、
大学の哲学科に在籍する内に、日本における哲学に対するネガティブなイメージに押しつぶされ、自分が哲学科の学生であることに強いコンプレックスを感じるようになり、哲学に対する意欲を失ってしまいました。また、大学の哲学科のカリキュラムも(一応、世間的には一流大学と評価されています)ひたすら語学の学習ばかりをやらされ、
肝心の哲学の授業は、教授がぼそぼそと聞き取りづらい声で、
話すの...続きを読む

Aベストアンサー

どのような「ネガティブなイメージ」でしょうか。
アカデミックな場面でもたれているイメージと、
世間一般でもたれているイメージでは、ちがうような気がします。

世間一般のほうですが、就活で困るというのは深刻です。
が、哲学科でも、学部卒のことなら、それほど気にしなくてもよいのでは。
修士や博士卒なら、偏見の目で見られても仕方ありませんが、
それは哲学科だけに限られることではないでしょう。
学部卒でそこまで偏見の目で見るのは明らかにおかしいので、
運の悪い面接官に当たったくらいに思うしかないと思います。
できれば、偏見の目で見られているからこそ、発奮していい就職をしてやるぞ、
と思いきることができればよいのですが。
哲学科の友人がそうでした。

日常生活であれば、てきとうに切り返す方法を身につけるしかありません。
そういう場面での偏見は、抑圧ど同時に促進になったりもするので、
かえってそういった偏見を生かしてうまくキャラづけするか、
うまくそういう話題にはまらないように言動を調整していけばよいと思います。
仲のいい友達からそう思われているのであれば、
コミュニケーション上の振りだと考えていけばよいのでは。
そこまでするような相手でなければ、話すことを避けるか、
無視すればよいと思います。
無視できないのであれば、それは、耳に飛びこんできた自分への評価を、
すべて自分のなかに位置づけていかないと、
と強迫的に思っているのかもしれません。
ときには、評価を無視することも大事だ、
と意識して自分に言い聞かせるようにしないと、切りがありません。
自分にたいする肯定的な評価、否定的な評価のどちらについても、
正当として受けいれなければならないもの、
不当として拒否し、正さねばならないものに加えて、
正当だろうが不当だろうがどうでもいいものがあります。
その辺りを選別していければ、だいぶ気が楽になるのではないでしょうか。

カリキュラムについて。
哲学の本を読むと、その語学力に舌を巻きます。
日本語で読んでさえ複雑な論理で書かれていて難しいのに、
それを英語だけでなく、フランス語やドイツ語で学んでいるわけで。
専門家になれば、ただ正確に読めればよいというわけではなく、
限られた時間で正確に読み解くことが求められるのでは。
語学の学習があるというのは、
本来なら個人で訓練してもおかしくないところを、
わざわざ教員がつく上に単位が出るのだから、むしろ贅沢な話では。
……という感じで、各授業に意味を見出せばよいと思います。
この語学の講義では、これを目標にする、のように。
予習も、ただ読むのではなく、短時間で読みきれるように練習するなど。
そうでないと、語学が多いのは辛いかもしれません。

ただ哲学書を読むだけなら、ほかの学部でもできると思いますし、
がんばれば今年出た現在の哲学者の論文を読むこともできます。
しかし、その論文の生の評価、いまの雰囲気といったものを知るには、
やはり哲学科に在籍しないと無理なのではないかと思ったりもします。
部外者として哲学をかじっていたほうが楽しいのは当たり前で、
研究者になるための訓練としては面倒なことのほうが多いだろうと思います。
加えて、教員にやる気がなかったりすると、
学生のほうも面倒なことをやる気さえ起きないかもしれません。
ただやはり、質問者さんについては、部外者ではなく哲学科で学ぶメリットに
まったく目を向けていないところが気になりました。
哲学科に在籍していなければ、もっと後悔しているかもしれません
(どちらのほうが後悔することになるかはわかりませんが)。

いずれにしても、後悔先に立たずということで、
まずいまの自分の立場を肯定するところから始めてみては。
メリットを最大化し、デメリットを最小化する方向に努力するしかありません。

どのような「ネガティブなイメージ」でしょうか。
アカデミックな場面でもたれているイメージと、
世間一般でもたれているイメージでは、ちがうような気がします。

世間一般のほうですが、就活で困るというのは深刻です。
が、哲学科でも、学部卒のことなら、それほど気にしなくてもよいのでは。
修士や博士卒なら、偏見の目で見られても仕方ありませんが、
それは哲学科だけに限られることではないでしょう。
学部卒でそこまで偏見の目で見るのは明らかにおかしいので、
運の悪い面接官に当たったくら...続きを読む

Qイスラエル人ってユダヤ人なの?

タイトルのとおりです。中東問題の番組をみてて気が付いたんですが、イスラエル国民について教えて下さい。

1.イスラエル国民=全員ユダヤ人ですか。
2.人種的には白人ですか、アラブ系ですか、基本的に。
3.宗教的には全員ユダヤ教の信者ですか。 イスラム教や仏教を信仰するイスラエル人っているんでしょうか。
4.ユダヤ人のために建国した国がどうしてユダヤって言葉を国名に使用しなかったでしょうか。
5.パレスチナ人って全員イスラム信者でしょうか。
6.よくパレスチナ難民っていいますが、彼らのパスポート発行はどこが行なっているんでしょうか。
7.パレスチナ人は、例えば漢民族とかクルド族とか一緒で、民族性でいえば全員同じ民族なんでしょうか。

HPをみても難しいので、簡単にご回答願えれば幸いです。

Aベストアンサー

一般に、民族とは文化的背景、特に言語を共有する集団を指します。共通の言語は共通の生活領域を前提とすることが多いので、結果的に、民族は同一人種から構成されることになります。しかし、ユダヤ人は例外です。
ユダヤ人は2000年前に国家を失ってから世界各地に離散していたので、言語や肌の色に共通点はありません。ユダヤ人とは、原則的には「ユダヤ教徒」からなる宗教的集団なのです。
※それでは「ユダヤ教徒」とは何かということが問題になりますが、複雑過ぎてここでは深入りできませんので、ユダヤ教徒を自認する集団でも、その奉ずる教義によってはイスラエル当局からスンナリとイスラエル国籍を付与されない場合があることだけを指摘しておきます。イスラエル当局のいう「ユダヤ教」とは、端的にいえば、神殿時代(以降)のユダヤ教を指しています。

現在、イスラエルは、ユダヤ教徒およびユダヤ人の母親から生まれた子供をユダヤ人と認め、国籍を付与しています。後者がユダヤ人とされる理由は、ユダヤ人女性は自分が生んだ子供をユダヤ教徒として養育する宗教的義務を負っていることにあります。よって、日本人も、ユダヤ教に改宗すればユダヤ人になることができます(教義や歴史に関する難しい試験や、宗教指導者による面接などがありますが)。

イスラエルには、ユダヤ人=ユダヤ教徒以外にも、キリスト教徒やイスラム教徒である国民が存在します。なぜなら、現在イスラエルの領土となっている土地には、古くからユダヤ教徒・キリスト教徒・イスラム教徒が混住していたからです。しかし、現在では、ユダヤ人=ユダヤ教徒が圧倒的多数を占めていることは確かです。

人種構成はさまざまです。ユダヤ人=白人というイメージとは裏腹に、アフリカ系(黒人)やアジア系(黄色人種)のユダヤ人も存在します。なお、言語についても、公用語であるヘブライ語を解さず、出身地の言語しか話せないユダヤ人も多数存在します(特に、旧ソ連崩壊後に入国したロシア系ユダヤ人)。

イスラエルという国号についてはすでに回答されています。宗教的な意味のある国号です。

パレスチナ人とは、パレスチナ地方の住民を指す言葉です。すでに指摘したとおり、パレスチナ地方にはもともとユダヤ教徒・キリスト教徒・イスラム教徒が混住していました。民族的には、アラブ人(アラビア語)、ユダヤ人(アラビア語・ヘブライ語)及びキリスト教系少数民族が存在しました。しかし、ユダヤ教徒であるパレスチナ人はイスラエルに迎え入れられたので、現在のパレスチナ人は多数のアラブ人とキリスト教系少数民族からなっています。

パレスチナ地方は、その大部分がイスラエルに、一部がヨルダンに併合させました。ヨルダンが併合したのは、ヨルダン川東岸といわれる地域です。この地域に住んでいたパレスチナ人は、幸か不幸か、ヨルダン人としてヨルダンの旅券を所持することができます。

参考URL:http://homepage.mac.com/ceramic_tsuka/rekisipage.html

一般に、民族とは文化的背景、特に言語を共有する集団を指します。共通の言語は共通の生活領域を前提とすることが多いので、結果的に、民族は同一人種から構成されることになります。しかし、ユダヤ人は例外です。
ユダヤ人は2000年前に国家を失ってから世界各地に離散していたので、言語や肌の色に共通点はありません。ユダヤ人とは、原則的には「ユダヤ教徒」からなる宗教的集団なのです。
※それでは「ユダヤ教徒」とは何かということが問題になりますが、複雑過ぎてここでは深入りできませんので、ユダヤ教徒...続きを読む

Q現代の哲学者にはどういう人がいますか?

哲学関連の本を最近読んでいますが、紹介されている人の多くがすでに無くなった人です。
いま、活躍している哲学者はたとえばどのような人がいますか?
宗教家ではなく、純粋に哲学者ということで知りたいので、よろしくお願いします。
また、どのようにして生計をたてているのかも知りたいのですが。やはり大学の先生だとか、副業をもっているのでしょうか。

Aベストアンサー

こんばんは。

存命の哲学者ですぐに思い浮かぶのは・・・

“戦う哲学者”と呼ばれてる? 中島 義道さんですかね・・・

『怒る技術』(PHP研究所)『私の嫌いな10の言葉』(新潮社)『孤独について』(文春新書)『哲学の道場』(ちくま新書)『<対話>のない社会』(PHP新書)『うるさい日本の私』(新潮文庫)『ウィーン愛憎』(中公新書)などの著書があります。
来歴は、手元に本が無いので失念しましたが、確かどこかの大学教授だったと思います。

ご参考まで・・・

Qローマ帝国が崩壊した理由。

ローマ帝国が崩壊した政治・経済・宗教上の理由ってなんですか??

教えて下さい。。。

Aベストアンサー

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或いは自然災害や飢餓等で一々首都ローマの皇帝に指示を貰って動いていたら今の日本のお役所仕事よりも状況は悪化します。なので担当者を派遣して急場は彼らが処理して根本的な対処(立法や公的資金の注入。軍の配置等)は事後報告を受けた皇帝が担当することになりました。
しかし皇帝が後継者を残さずに死んだりネロ等の様に住民や元老院に見放された皇帝が出てきたらついムラムラっと支配欲に燃える人も多かったりします。それが上り坂の時代ならば多少は許容されるのですが下り坂で蛮族の侵入が重なったりしたら内乱に乗じられたりする訳です。

経済的には政治的な内容と重なりますが内乱と蛮族の侵入が重なるとどうなると思いますか?
ここでは北アフリカを挙げたいと思います。内乱等で軍隊が指揮官の皇帝即位の為に他のライバルを武力討伐する為に他の地域へ移動すると周辺民族が侵入してきます。彼らは簡単に言うと銀行強盗の群れだったので街や村を略奪して回ります。そうすると住民は暴力を嫌って難民となり他所へ流れて行くことになります。基本的に経済は農作物や鉱山からの収益或いは貿易で成り立ちますし農業はそれらの基本です。そして農地は常に人が手入れしないと荒れる物です。信じられないかもしれませんが当時の北アフリカは砂漠では無く穀倉地帯だったんです。で荒れるに任せて砂漠化しました。これは他の地域では荒地になったり森林になったりして収穫は激減していったのです。
しかも強盗は略奪する物が無ければ支配して搾り取る方法にして居座り続ける事を始めたので二重の意味でダメージになりました。

宗教的には色々ありますが政治的・経済的行き詰りとキリスト教の普及が重なった事が大きいでしょう。ローマ古来の神々は我々を見捨ててしまった。そんな思いに駆られたローマ人の心のスキマにキリスト教は漬け込んだんです。曰く、今の状況は真の神を蔑ろにしたローマ人の所業のツケである。曰く、しかし真の神に帰依すれば救済されるとでも言ったのでしょう。ここで最後の審判で救われると言うのがミソです。来るかどうかも分からない最後があると言って置きながらそんなものは20世紀が終わってもありはしなかったのですからね。まぁこれは今だから言える事ですし当事者はパニックで冷静に考える余地が無かったのですけど。
それからカトリック教会とローマ法王という形で国家内にもう一つの国家を作り上げて寄生されたのも痛かったですね。飢饉で神父やシスターが難民にパンを配る・・・美しい光景ですが何の解決にもなっていません。解決するには行政サイドが動くしか無いのですがガタガタの帝国にはそんな力は残されていなかった。これでは教会に入る人が増えるし帝国に見切りをつける人が増えるのは止め様がありません。


最後に追加ですが戦争のやり方が変ったのも重要です。かつては重装歩兵が主力を担っていたのが騎兵に取って代わりました。単純に考えて甲冑と槍で済んでいたのが追加で馬が加わります。これがクセモノでして俗に牛飲馬食と言う言葉がありますがこれは飲み食い意が激しいのを牛馬に例えた言葉ですが馬を飼うには餌場を順々に回る遊牧生活か金で買って入手するしか方法がありません。しかも手綱や鞍を付けないと乗れませんし牧場や厩舎を作ったり練習の為の馬場も必要です。
これは何故かと言うと大陸の東のモンゴルとかの遊牧民が食い詰めてヨーロッパ方面に移動しました。と書くと穏やかですが戦争しながら原住民を土地から追い出して居座ると言う形で成されました。それでゲルマン人も食い詰めてローマに・・・と言うわけです。なので力関係では負けてるので弱ってるローマで略奪や居座りして新生活を始めよう・・・とそういう次第なんです。



纏まりが無く内容が重複した文章ですがそう私には見受けました。

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或...続きを読む


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