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1. たぶん 精神分析が内向的になって説くところについて見方や考え方を変
えるという作業が 第一歩であるのではないか。
――エスもムイシキもまたジガも要らないということ。


2. 《抑圧》?

この世の中においてわたしは 意識していず気づかなかったけれど 自分の気持
ちや意志をもなぜか抑えてしまっていた。自分を自分から抑圧してしまっていた。
らしいのだ。

――という事態に落ち入っていたなら それは 特に日本社会では クウキつま
り同調圧力のしわざである。あるいはつまりひろく社会通念としてのジョウシキ・
さらにはそこに潜むかのような世間の眼によって わが心も気持ちも思考も萎縮
し――つまりその要請の命ずるところに従っておとなしくなり―― 自分からそ
の自由で積極的な自己表現というものを知らないうちに閉ざしてしまっていたの
だ。・・・ととらえ返すことが大事ではないか。


3. 相互抑圧の雪合戦

社会において世間の眼の飛び交うこの社会力学上の磁場の中で わたしは いつ
しか・人は慎み深い態度がよいと思ったからなのか ともかくどういうわけなの
か わたしはわたしの存在に対してあたかも自分で金縛りをかけていた。

周りの人びともそうしているようなのだし みなと一緒にそのあと今度はときど
き現われ出るよくもわるくも自由な杭を打ち そうして互いに足の引っ張り合い
に むしろ無意識のうちに興じていた。

言いかえると この相互萎縮大合戦にだれもが参加しているように見える。


4. 相互萎縮合戦に背を向ける場合

このクウキの振動合戦に参加しないのは わたしのように それでもそれは 脱
人間的な幽霊と顔無しとゾンビの世間ゲームでしかないと見る場合である。

世間ゲームは ただちにやめろ 目をさませと言う場合である。


4-1. ただしそう言いたいのに言えずじまいの場合は

言いたい気持ちはあるが どうしても意志行為として実を結ばない場合 そのと
きには やがて世間の眼は 引きこもりとでもレッテルを貼り だいじょうぶだ
よ 専門医がいるから 診てもらって来なさいと言われて そのときから半ば除
け者とされる。


5. この相互萎縮合戦をさらに助長する精神分析

この世間ゲームなる事態について そのように社会的なチカラ関係の相互錯綜か
ら来るとは見ずに どこまでも内面へと入って行くというのが 精神分析の繰り
出す《抑圧と無意識》という概念であるのではないか。
・・・いっさい 必要ないわけです。筋がちがう。

心の内面がすこやかにはたらくところを捉えてそこに病いがあると言うのですか
ら その引きこもり状態が昂じて来るのは 火を見るより明らかです。

抑圧をうながすチカラは 外にある。磁場である。内は 健康なのだ。


6. ご存じ《あぁ アース役はつらいよ》の大合唱

社会力学上のチカラ関係に原因があるとするなら それは そこここを飛び交う
ガミガミ電波であるに決まっている。

だからたとえば全国的に 《あぁ アース役はつらいよ》と大合唱すればよい。

自分が自分で自分をヨクアツしてるって? 外のものが中にあるって? あぁ 
それを言っちゃあ おしめぇよ。ガミガミ役のガミガミ役のためのガミガミ役に
よる世の中の秩序作業でしかない。あーぁ けっこう毛だらけネコ灰だらけ。
――と大合唱すればよい。

まぼろしの支配するこの世の中。


7. みなさん ガミガミ電波には気をつけましょう。

またその電波を発する前に・その一秒前に それはただの八つ当たりであって 
ただおのが不満足なる意識を排泄するにひとしいという事実に注意を向けましょ
う。みづからがである。

あるいは その意識の排泄を 一手に引き受ける人間がいます。すべてを受け留
め ごみ処理工場のごとくはたらきます。あとは酸素か何かが出て来るだけです
から 安心してまかせることが出来ます。

いますでにかなり重症である場合 それは必ずいつかどんでん返しで一気によく
なりますから。たぶん いま《患う》場合の半数は そのように内面に革命が起
こるはずです。大船に乗った気持ちで 養生して行くことが出来ます。


8. どんでん返し

つまりそれというのも いままでガミガミ電波の排泄をおこなって来た人びとが 
ほんとうに反省し 人間(現実)が変わるときが来ると考えられます。天地がひ
っくり返るほど それらの人たちは心を入れ替え おのが人生の前史から後史へ
と 一気に突入して行くと思われます。

今までの生き方は――社会力学のあり方は―― 人間の自然本性に反していたと
考えられます。したがって 自然本性そのものの内から逆襲が始まるはずです。
必ずその出直しのときが来ると思われます。


9. 何もしないたたかい。

何もしないでよいはずです。

おそらく もし病いの道をたどって来ていたなら その道を必ずしも引き返すと
いうのではなく そうではなくむしろ同じ道を前へとあゆみ その道を――その
病いのトンネルを――突き抜けて明るい場に出るというシナリオになるかと考え
られます。

わが心は 大海である。波風はただうわべをかする心理の動きであると。




☆ この展望と処方箋を添削しつつ ご自分の見解にて完成へとすすめて行って
ください。そういう問いです。

質問者からの補足コメント

  • №3お礼欄のつづき

    ★ ともしびも油も持っている賢い娘になる
    ☆ ことは これも めぐみによる。はずです。ひとは それぞれの
    役割りを与えられてのように 用いられるのだと思います。


    ★ 弱くても叩かれても壊れそうになっても戦うのです。
    きっと、その中からもっと力強い信念が沸き上がってくると思います
    よ。
    未来社会はその先に待っていると思います。
    ☆ いや。ここは 反論します。やはり盗人のごとく夜中にやってく
    るのが ひとつの例として未来社会です。つまり 人間の意志にもと
    づく信念や努力〔のみ〕によって あたらしい天とあたらしい地が成
    るとは とても思えません。のですが どうでしょうかねぇ。

    目を覚ましていなさいとは ゲッセマネでもイエスは たしかに弟子
    たちに言いつけましたが。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/03/29 09:58

A 回答 (13件中1~10件)

ありがとうございます。


台湾のワーシップソングを贈ります。
「彩虹下的約定」創世記9章9~17節を歌ったものです。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

中国語に堪能なのですか?


☆☆(№12お礼欄) ~~~~~

三位一体: 父なる神 子なる神  父と子との愛たる聖霊なる神
光のタトへ:光源   発耀    明・暖
精神:   記憶   知解    意志(愛)――Augustinus
三権分立: 司法   立法    行政―――――bragellone

~~~~~~~~~
☆ したがって 政治とは 愛の行為であるとなります。

愛憎や友好と敵対の対立する二項を何とか治めようとする愛の行為
でしょう。

そこに聖霊のチカラがはたらいて欲しいといった甘えの気持ちが出
て来てしまいます。

お礼日時:2019/04/02 20:48

つまり歴史上、原始宗教から創唱宗教の変遷においても「わたしはある」と言われる普遍神としての立場は変わらず、人間の解釈によって様々な解釈が生まれてきたということですか。

神、キリスト、聖霊というのも人間が作りあげたひとつの型で、普遍神とはそういった言葉で表せない存在ということですか。
教会の存在はどのように思われますか?教会も人間が作り出したもの。人間の集まりだから人間の思いが優先される場合もあります。見えるところに躓き、教会に失望して離れる人もあります。
しかし、聖霊が強く臨まれることも確かです。稀なことではありますが、讃美の中で、とりなしの祈りの中で、ものすごい力によって押さえつけられ動けなくなることがあります。そういう時は、お腹の底の方でうめいたり慟哭したり、場にそぐわない笑いがこみ上げてきたりします。それは救われた当初のことです。もうずいぶん前のことですが、感覚としてはっきり覚えています。だから、信じざるを得ないし同時に怖くもあるのです。その力がどこから来たのかを考えると。日本人である私もアニミズムから解放されていないのかと思ったりもします。教会によっては聖霊を自在にコントロールするような空気感のあるところもあります。ほんとうはそうであってはいけないんです。私たちは神によって造られたもの。誉れ、主権、力、栄光は神にあります。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ つまり歴史上、原始宗教から創唱宗教の変遷においても「わたしはある」
と言われる普遍神としての立場は変わらず、人間の解釈によって様々な解釈
が生まれてきたということですか。
☆ アブラム(のちのアブラハム)が聞いた声は 別にオシヘを広めようと
いう意図そのものであったとは 思えません。その声の主たる神は そのあ
と確かにモーセに自分は《エフィエー アシェル エフィエー》だと名乗っ
たし しかもオシヘをもさづけました。

集団としての秩序のために法律(律法)をも持つようにしました。そして確
かに宗教です。

パウロは 聖霊のチカラを得て 《文字はころし 霊は生かす》としてモー
セの立ち場を揚棄しました。(守るべき倫理規範としては棄てました)。

この普遍神という樅の木本体にいろんなクリスマスツリーの飾りがついたの
だと見ます。(すべての宗教について言えるはずです)。


★ 神、キリスト、聖霊というのも人間が作りあげたひとつの型で、普遍神
とはそういった言葉で表せない存在ということですか。
☆ 三位一体は なるほど人間の言葉であたかもオシヘのごとく表現してい
るように見えます。――ただし あくまでタトへです。次のように骨組みを
示しています。

三位一体: 父なる神 子なる神  父と子との愛たる聖霊なる神
光のタトへ:光源   発耀    明・暖
精神:   記憶   知解    意志(愛)――Augustinus
三権分立: 司法   立法    行政―――――bragellone



★ 教会の存在はどのように思われますか?
☆ イスラエル民族の外へもヤハヱ―神をイエスが開いたときから パウロ
をとおして成したことは 《宣教という愚かな手段》でした。

仲間どうしで――迫害もあったのですから 組織としても――助けあいま
した。

キュリアコン(チャーチ:主の家)と言えば むろん社会一般のことです。
エクレシア(民会)と言えば ムラ(市町村)議会です。
すなわち 普遍神のもとなる教会です。霊の教会は 見えません。



★ ・・・誉れ、主権、力、栄光は神にあります。
☆ 《信じる》とは 無条件で無根拠にて神をわが心に受け容れることです。

あたまで考えて〔もよいものの それによって〕受け容れるのではありませ
ん。

お礼日時:2019/04/02 16:11

キリスト教の神を普遍神とみることは危険をはらんでいると私は思います。


日本の国の根底にある宗教観は、動物、植物などの生物、無生物(たとえば、古い器物などに霊が宿る付喪神など。他にも多数)などに霊的なものが存在するというアニミズム、呪術のように霊的にそれらを操作しようとするアニマティズムです。民族宗教の社会の特徴は、農耕なり狩猟なりを基礎とするそれぞれの集団には神があって、みずからの集団の神を集団全体が祀り、一定の形式でその祭りを行うことによって、神はその共同体の生産を保証し、共同体の生命が世々受け継がれてゆくことを保証する、いわば呪術的効果を主とした儀礼が中心的な意味を持ちます。
共同体に限らず、無宗教と言いながらスピリチュアル的な感覚の中で生きている人が多いことでも、日本人の神観には汎神論的な要素があると思います。
背景に汎神論があるために、キリスト教が日本に伝えられてから創唱宗教としてのキリスト教は失われてしまったと考えることもできます。
ブラジュさんが言っている「神の上に人間を置く場合」とは、まさにアニマティズムを言っているのかと思いましたが。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


▲ (ヰキぺ:アニマティズム)
「人々が制御する手段を有している、遍在的・非人格的な力への信仰」

☆ これは 成り立ちません。
① まづ《信じる》のは 《感じる・考える》を超えています。人知を超
えた絶対性を心に無条件で受け容れることです。

② もし《遍在的・非人格的な力》が その絶対性であるとしたら すで
にそれを《人間が制御する》ことは出来ません。


★ キリスト教の神を普遍神とみることは危険をはらんでいると私は思い
ます。
☆ これは 間違っています。
③ もし普遍神でないなら 人類の一部の人にのみ神であるということで
す。
④ ならば その神には人知がおよぶことになります。部分ごとにそのチ
カラが現われるなら それを人間が認識できます。
⑤ つまり 絶対性ではなくなります。例外のある絶対性は 矛盾です。
⑥ よって 神が神であるなら――その絶対性なる存在であるかぎり―― 
普遍神です。


★ 日本の国の根底にある宗教観
☆ ⑦ 宗教ないしオシヘは――人間の言葉による表現が何らかのかたち
でかかわっていますから―― 人知のおよぶ範囲にあります。

⑧ したがって 宗教は 考えるものであり 信じるものではありません。
(《文字はころし 霊は生かす》)。


★ 動物、植物などの生物、無生物(たとえば、古い器物など・・・)な
どに霊的なものが存在するというアニミズム
☆ ⑨ これは 世界に依り憑くという――歴史知性以前の――原始心性
ですが 現代からかぶせて捉えるなら その八百万の神々は すべて普遍
神の分身であり依り代であると考えられます。

★ 汎神論
☆ も 多神論と同じく 普遍神のもとにあります。

★ 創唱宗教
☆ は やはりオシヘつまり宗教の観点から 議論しようとしています。
《神とわれとの関係》のみで 神論はあつかわねばいけないでしょう。人
知のおよばない神の問題です。この神を人間がつくったということはあり
得ません。想定はしますが。


★ ブラジュさんが言っている「神の上に人間を置く場合」とは・・・
☆ アニマティズムは 理論として論外です。

高ぶる心から 《神のごとくいかなる者の下にも われは立つまい》と堅
く誓った人間が いるんです。時代ごとにいくらかの数でいるんだと思い
ます。

お礼日時:2019/04/02 14:10

コリント第一の手紙12:3


聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

▲(コリント前書 12 章 ) ~~~~~~~
12:4 さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。
5 奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。 6 働きにはいろい
ろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。
7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているの
です。

・・・

27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
28 そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一
に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜
物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。 ・・・
~~~~~~~~~~~

☆ さて この神をも恐れぬブラジェローヌくんが言おうとしていることは こ
うです。

1. 《教会》は すでに見得ざる教会として 社会一般そのものだということ。

2. なぜなら キリストの神は 普遍神であるからです。

3. 《普遍神とわれなるカカハリ――つまり 信仰――》に 人間の違いによ
る分け隔ては ありません。あり得ません。

4. 言いかえると 社会における具体的なハタラキが人それぞれに分かれてい
るように この《普遍神 ‐ われ》なる関係も実際には いろいろな形態を採りま
す。

5. 普遍神の名前を オホモノヌシとかブラフマンとかヤハヱ―とか異なるも
のとして受け取っていたり あるいは 《有る神》派だけではなく《無い神》派
としても社会の中で現象していたりします。

6. さらには そのカカハリが 薄くなったり・果ては〔なくなるのではなく〕
逆転したりします。神の上に人間たる自分を置く場合です。(人間の自由意志に
よる思惟や行動の自由度は そこまでのヘソ曲がりを為し得ます)。

7. それらをも包み すべては 普遍神のもとにあります。

8. 信仰における逆立ちや反乱は 現象としては基本的に人間が共同自治しま
す。あらゆる努力を尽くします。あとは 神にゆだねます。

9. 神は ふつうは 風の吹くままにあると見られます。(つまり そのハタ
ラキについて人間には分からない)。

10. それ以上は いまわたしには分かりません。

お礼日時:2019/04/02 10:32

ヨハネ福音7章では「わたしを信じる者は」4章では「わたしが与える水を飲む者は」「わたしが与える水は」と繰り返し、「わたし」つまりイエス・キリスト自身が与える水について言及されています。


イエス・キリストのうちにある父なる神、そのお方が遣わされる聖霊。つまりここには、三位一体としての神が現されています。聖霊を受ける条件として、イエス・キリストを信じるということが必須条件なのです。しかし、聖霊を受けたいからイエス・キリストを信じるというのは本末転倒です。キリストを信じることは罪が赦されることです。私の罪のためにキリストが十字架にかかって死んでくださったことを信じることが救いです。聖霊の力だけを求めると、悪魔の罠に陥ってしまいます。悪魔に隙を与えないようにイエス・キリストを信じて完全に罪ゆるされることが、その後の聖霊の注ぎ、そして霊的な戦いにとって非常に要になることだと思います。
光でたとえると、光源、その発耀、その明るさ暖かさですか。発耀というのは輝き?イエス・キリストは輝きにあふれた方でした。人間として歩まれた中での日常、精神性、人間関係、十字架の死にいたるまで輝いていたと言えるでしょう。その方が約束された聖霊の到来。明るく暖かく、おそらく人間の悲しみも苦しみも即座に癒すことができる力を備えておられるでしょう。助け主なる聖霊。その方は人間の痛みを知り、病を知っておられる。なぜ病んでいるのかを。そして回復を与えてくださると思います。光のたとえは、よく理解できました。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ヨハネ福音
7章では「わたしを信じる者は」 
4章では「わたしが与える水を飲む者は」「わたしが与える水は」と繰り返し、
「わたし」つまりイエス・キリスト自身が与える水について言及されています。
☆ はい。

★ イエス・キリストのうちにある父なる神、そのお方が遣わされる聖霊。つ
まりここには、三位一体としての神が現されています。
☆ 三位一体は 個々の位格が 互いにひとしく またそれぞれが全体にひと
しく そして全体が それぞれの個にひとしい。(アウグスティヌス)。

★ 聖霊を受ける条件として、イエス・キリストを信じるということが必須条
件なのです。
☆ そして《われがキリストの神を信じる》というのは 神の――特には聖霊
の――しわざです。

もっとも 《信じる》とは《無条件で無根拠にて神またはその名を心に受け容
れること》ですので この《受け容れる》というのは 人間の側の意志行為で
す。

★ しかし、聖霊を受けたいからイエス・キリストを信じるというのは本末転
倒です。
☆ 間違いですが キリストはそれをもゆるしましょう。

★ キリストを信じることは罪が赦されることです。
☆ 《理論上》 十字架上の死とそのあとの復活によって《原罪はゆるされま
した》。信仰があたえられて 自覚が芽生え 実際にも聖霊のチカラを受けま
す。

★ 私の罪のためにキリストが十字架にかかって死んでくださったことを信じ
ることが救いです。
☆ それほど堅苦しくはないと思います。

★ 聖霊の力だけを求めると、悪魔の罠に陥ってしまいます。・・・
☆ 悪魔も 抜け殻だけが――言葉としてだけ――残っています。

★ 霊的な戦い
☆ は 神が・聖霊のチカラが わたしたちのために やってくれています。

★ ・・・イエス・キリストは輝きにあふれた方でした。人間として歩まれた
中での日常、精神性、人間関係、十字架の死にいたるまで輝いていたと言える
でしょう。その方が約束された聖霊の到来。明るく暖かく、おそらく人間の悲
しみも苦しみも即座に癒すことができる力を備えておられるでしょう。助け主
なる聖霊。その方は人間の痛みを知り、病を知っておられる。なぜ病んでいる
のかを。そして回復を与えてくださると思います。光のたとえは、よく理解で
きました。
☆ ありがとう。

お礼日時:2019/04/01 22:50

d_y_nさん、はじめまして。

負担を感じているのかな。議論を避けたいのは議論になると負けるからですよ。
bragelloneさんの見解は、大筋で本質をついていると思いますが、聖霊に対する見解がクリスチャンである私の見解と大幅に違っていると感じたので、議論はできないと思ったんです。
キリスト教の神は三位一体。聖霊は第三位格の神です。何かの力ではなく人格神。ですから、水があふれるように心身に湧いてくるとか、チカラとかで言い表せるものではありません。
確かに使徒行伝には弟子たちが聖霊に満たされた記事があり、激しい風にたとえられていますが。
実際は聖霊を受けると人間は弱くされます。神さまの力が働くときは人間の力は否定されますよ。
反対なんです。霊的な巨人になるのではなくて、あくまで土の器でしかないと自覚させられます。
そこから神さまが働かれます。そういう見解の違いです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

聖霊が水にたとえられることについては:
▲ (ヨハネ福音 7:37-39 ) ~~~~~
・・・イエスは立って、叫んで言われた、

「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が
川となって流れ出るであろう」。

これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。

▲ (同上 4:13-14 ) ~~~~~~~~
イエスは女に答えて言われた、

「この〔井戸の〕水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 しかし、わたしが
与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水
は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。
~~~~~~~~~~~~~~

☆ 尽きない水が泉のごとく湧き出るゆえに:
★☆ 霊的な巨人になるのではなく、〔そうではなく〕あくまで土の器でしかない
〔人間たるわれ〕 そこから神さまが働かれます。
☆ つまり 水のあふれるごときチカラは 聖霊のハタラキのそれです。





三位一体については かんたんなタトへですが 次のように捉えます。:

三位一体なる神: 父なる神===子なる神===聖霊なる神
光のタトへ:   光源・・・・・その発耀・・・その明るさ・暖かさ

お礼日時:2019/03/30 22:17

このカテで聖書に関する数少ない理解者もブラジュさんやりとりに負担を感じて去っていて、またかと思いましたよ(笑)

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この回答へのお礼

◆(№6お礼欄) 議論は避けたいので
☆ つまり:
★ 負担を感じる
☆ のを超えて 苦にもならないし負担にもならないほど 議論する
ことができる。できるけれど ここは その場ではないと理解してい
る――という意味でしょう。


さもなければ わたしの見解にしたがう――ということでしょう。


わざわざコメントをありがとうございます。

お礼日時:2019/03/30 08:46

う~ん、議論は避けたいのでこれにて終了。


讃美歌をプレゼントしますね。
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この回答へのお礼

・・・

どうも。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/03/29 19:06

bragelloneさん。

水のバプテスマを受けずに聖霊を受けることはあり得ないですよ。
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この回答へのお礼

それは 議論の尽きないところです。

ご回答をありがとうございます。


議論をすべて端折って言いますと:

水のバプテスマは 聖霊を受けるときの形式であり儀式であると受け取
っています。

水によって洗礼を受けても 聖霊が来なければ あまり意味がありませ
ん。

しかも 聖霊は イエスがキリストとして十字架じょうに去って行った
とき 基本としてすべての人に――むかしのアブラハムにもモーセにも
――実質的に・例外なく・最終的にすでに与えられています。

あとは その自覚の実現や聖霊のチカラがじっさいに水のあふれるごと
く心身に湧いて来るかどうかの問題だと見ます。

キリストの神は 普遍神ですから どの名前の神であってもすべて同じ
神です。《無い神》派つまり無神論という信仰にしても 同じ神です。

どうしても水は必要だというならば 産湯に浸かっていると答えます。
どうでしょう。

お礼日時:2019/03/29 17:02

適切な表現ではなかったので訂正します。


弱くても叩かれても壊れそうになっても逃げない、その場にいる。という感じでしょうか。なぜかと言うと、私たちの存在そのものに力があるから。エペソ書6:11-12に、
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天にいるもろもろの悪霊に対するものです。とあります。
徒手空拳で戦う相手ではありませんね。「油」は聖霊の油。賛成です。bragelloneさん、私よりクリスチャンですよね。
「目を覚ましていなさい」は「すぐ動けるように備えていなさい」という意味です。
肉体的に病気になっても、精神的に病んでもだめです。現実に仕事をするのもそう、お金も必要。考え方が偏ってもいけない。自分をある程度律することも含まれます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 適切な表現ではなかったので訂正します。
弱くても叩かれても壊れそうになっても逃げない、その場にいる。という感じ
でしょうか。なぜかと言うと、私たちの存在そのものに力があるから。
☆ ええ。どこかお花畑(イデアの世界?)に逃げ込む〔ようにして その言
葉や理念だけでたたかう〕のでもない・・・ということでしょうね。


★ ~~~~~~~
エペソ書6:11-12に、

悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に
つけなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配
者たち、また天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

とあります。
徒手空拳で戦う相手ではありませんね。
~~~~~~~~~~~~~
☆ 余韻が・まぼろしとして 残っている。あたかも残留放射能のごとく。


★ 「油」は聖霊の油。賛成です。bragelloneさん、私よりクリスチャンです
よね。
☆ よかったですかね。(水によるバプテスマは受けていません)。


★ 「目を覚ましていなさい」は「すぐ動けるように備えていなさい」という
意味です。
肉体的に病気になっても、精神的に病んでもだめです。現実に仕事をするのも
そう、お金も必要。考え方が偏ってもいけない。自分をある程度律することも
含まれます。
☆ 《何もしないたたかい》だから だらしない生活をしていてよろしい・・
・ということにはならない。ですね。

お礼日時:2019/03/29 13:20

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