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カール5世は第6次イタリア戦争の最中に退位し、弟と息子にそれぞれ神聖ローマ帝国とスペイン王位(ならびにネーデルランドとイタリア諸国)を分割して継承させています。
フランスとの講和の一環としてなら理解できますが、まだ戦争中でハプスブルク帝国が一致団結する必要があるのにも関わらず、分割相続となったのはなぜでしょうか。
軽く調べましたが出てきませんでした。

質問者からの補足コメント

  • 今ウィキペディアでフェルディナント1世の記事を読んだら

    兄との生前の取り決めでは、フェルディナント1世の次は甥(兄の息子)フェリペ(スペイン王フェリペ2世)が帝位を継承し、以後カール5世とフェルディナント1世の家系が交互に継承することになっていたが[9]、これは無視されて次の皇帝にはフェルディナント1世の息子マクシミリアン2世が即位した。スペイン・ハプスブルク家もこれを容認したため、以後もフェルディナント1世の家系、オーストリア・ハプスブルク家が帝位を世襲していくことになる。

    とありました。
    カール5世は交互継承案が念頭にあったので、ハプスブルク帝国が連携不能なまで分裂することはないと思っていたんでしょうかね

      補足日時:2019/04/09 02:54

A 回答 (2件)

No.1です。

お礼コメントありがとうございました。

>しかし近世のヨーロッパの家督争いって大抵断絶からの親戚が争い合うものが多くて、兄弟や叔父などの近い間柄で争い合うのはあんまり馴染みがないです。何かありますかね?

中世には兄弟間での相続争いの例が多いですが、近世になると減ってくるのは、そういう争いを避けるための法やその強制力が整備されてきた、ということではないでしょうか。相続で揉めて戦争を繰り返しても、領土や領民が疲弊するだけですしね。領土の所有に関する意識も、封建制から中央集権国家への移行で変化していったのではないでしょうか。
それでも、近世以降もイギリス以外のヨーロッパでは、諸侯は分割相続が普通で(もちろん跡継ぎ一人がほとんどを相続して、それ以外の兄弟は少しだけの相続ですが)、その結果、領土が細分化されて弱体化する、という歴史を辿ります。

なお、カール5世とフェルディナント1世の兄弟仲は良かったそうですよ。むしろ、広大になったハプスブルクの領土を、それぞれ東と西で協力して統治・拡大するつもりだったのかもしれません。オーストリアとスペインのハプスブルク両家間で政略結婚を繰り返しているのも、反目しての領土分裂ではなく、正当な相続に則った分割だと両者が納得済みで、お互いが同盟関係にあるからでしょう。

やはり近親間での相続争いが起こるのは、相続人の勢力が盤石ではないとか、何らかの理由で王位継承法に反するとイチャモンをつけられる隙が生じてしまった場合ではないかと思います。
もう少し後の時代の例だと、ポルトガル内戦(1828-1834)が派手な兄弟/姪・叔父の王位継承争いですね。兄・ペドロ4世(ブラジル皇帝ペドロ1世)&その娘・マリア2世vs弟・ミゲル1世。これは当時ポルトガル宮廷がナポレオンの影響でブラジルに宮廷を移していて、ペドロ4世がブラジル皇帝に即位してポルトガル王位の継承を辞退したことが、ペドロ4世の娘マリア2世のポルトガル王位継承の正統性にケチをつけてしまったことと、幼かったマリア2世がポルトガル入りする前にミゲル1世が摂政としてポルトガル入りして実質的な王として本国を支配していた、というのが要因です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
ハプスブルク家は近親結婚で家系図がやばいとか言うのも有名ですが、たしかに昔分割相続での弱体化を防ぐ必要があったと習ったのを思い出しました。

ミゲル廃王でしたっけ、その例がありましたね。あとは家督争いというほどではなかったが、メキシコ帝国初代皇帝マクシミリアンはオーストリア皇帝位の放棄と引き換えにメキシコに渡ったとかいうのもあるので、いろいろ大変だったんですね

本題から逸れますが、この時代のハプスブルク家は本当にロマンがあって好きです。フランドルとかスペインとかオーストリアで別々に育った兄弟が再会して涙を流すとか、スケールが大きい

お礼日時:2019/04/09 13:19

まず、この時代のヨーロッパでは分割相続が一般的であり、ハプスブルク家にも分割相続の伝統があったという前提があります。

分割相続の伝統がある場合、それを無視して強引な一括相続をすると、家の内部で相続争いが起きて、内からの国家分裂の危機にもなりかねません。
カール5世とその弟フェルディナント1世の祖父・マクシミリアン1世が1519年に亡くなった後の1521年に、マクシミリアン1世由来の領土であるオーストリアを、フェルディナント1世は兄カール5世の意向で相続し、オーストリア大公となっています。(なお、フェルディナントはボヘミア=ハンガリー王女マリアとの結婚が決まっており、1521年に結婚しています)
さらに1531年に、フェルディナント1世はローマ王の戴冠を受けています。ローマ王とは神聖ローマ皇帝の事実上の後継者を意味する地位であり、1549年にはフェルディナント1世とその子孫の神聖ローマ皇帝位継承が取り決められました。つまり、この時点で、フェルディナント1世の神聖ローマ皇帝位継承は決まっていたのです。
カール5世が、長子フェリペにはスペインやネーデルラント等を、弟フェルディナントにはオーストリアを、という分割相続は、カール5世が退位を決意した1555年頃に突然決めたことではなく、それ以前から内定していたことと言えます。
確かにオーストリアはハプスブルク家始祖の地ですが、カール5世はフランドル生まれのフランドル育ち、フェルディナント1世はスペイン生まれもスペイン育ち。婚姻の結果として、当時のヨーロッパで屈指の豊かな国ブルゴーニュ公国と、大国スペイン王国を手に入れた後のハプスブルク家全体の領土から見れば、小さな領土と言えるでしょう。オーストリアのハプスブルク家の興隆も、フェルディナント1世以降の話です。
ボヘミア=ハンガリー王家との政略結婚の相手をフェルディナントと決めた祖父マクシミリアン1世の意向として、兄のカールにはスペインやフランドル方面を、弟フェルディナントにはオーストリア等のドイツ方面を統治させようというのがあったのでは。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。継承法周りの話はとっつきにくくて知りませんでした。
王位などの継承はシステマティックに継承順位に基づいて決まるものとばかり思っていたのですが、前々からフェルディナント1世にオーストリア大公位を、と言う話が通っていたならば、それを通さざるを得ませんね。
しかし近世のヨーロッパの家督争いって大抵断絶からの親戚が争い合うものが多くて、兄弟や叔父などの近い間柄で争い合うのはあんまり馴染みがないです。何かありますかね?

お礼日時:2019/04/09 02:49

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