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京都から東京に首都が移った理由について調べています。
①東京は既に東海道53次など, インフラの整った都市であり、人口も既に100万人を当時超えていた。一方、京都はわずか30万にんくらいであった。
②それまで幕府が使ったいた施設をそのまま利用できる。
③公家を天皇から引き離すため
④幕府崩壊で治安が悪化し、不安な江戸の人たちを落ち着かせるため。
⑤近代化をアピールするため、遷都した。
以上をネットで調べました。
しかし、疑問がいくつか疑問があります。

1603年に徳川家康が徳川幕府を開いて以来、幕府の中心は江戸、つまり東京にそれ以前からあり、政治の中心はもともとずっと東京にあったと思うんですが、その頃天皇はなぜ京都に住んでたんでしょう?政治の中心地である東京に住んでいたほうが、良さそうに思うのですが。
東は幕府の力が強く、西は公家の力が強かったからですか?その頃天皇の周辺は公家が取り巻いていたとかいう記事を読みました。
また、何故、急に公家を天皇から引き離す必要が出てきたのですか?公家の中に天皇を潰そうとする人がいたからですか?でも、江戸は幕府の残党なども残っていて、天皇は江戸へ移ったら危険ではなかったのでしょうか?
江戸の人たちを落ち着かせるためと理由もよくわかりません。京都から天皇が出たら、今度は京都の人たちが不安がるはずだと思いました。
近代化をアピールするためというのは、江戸のほうが設備が整った都市だったので、そこに首都を移すことで、近代化のアピールを図ったということでしょうか?

ネットで調べましたが、どれも説明が複雑でわかりません。
小学生や、外国人への説明でもわかるように、教えて頂けないでしょうか?

A 回答 (7件)

答えはもの凄く単純で、京都は山に囲まれもう発展するだけの土地がなかった一方、江戸には幾らでも余地があったそれだけ。

天皇は美濃部達吉の天皇機関説で示されているように最終決定権を与えられる予定だったので政府と離れては不都合だったから江戸に遷るしか無かった。政府を江戸に樹立したのも特に(2)の項目が大きい、京都や大阪は西に寄りすぎている、蝦夷地と呼ばれた北海道を含めると中心は名古屋になるが名古屋でも狭すぎた。
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この回答へのお礼

ありがとう

ありがとうございます!天皇機関説知らなかったです。調べて見ます!

お礼日時:2019/06/11 13:09

その頃天皇はなぜ京都に住んでたんでしょう?


政治の中心地である東京に住んでいたほうが、良さそうに思うのですが。
 ↑
公家の影響を避けるためです。



何故、急に公家を天皇から引き離す必要が出てきたのですか?
 ↑
明治政府は、列強の侵略に対抗するため
天皇中心政治を執ることにしたからです。
天皇のもと、国民が一丸になろう、という
ことです。



今度は京都の人たちが不安がるはずだと思いました。
   ↑
天皇を東京に持っていくことに京都人は
大反対しました。
それで、政府はちょっと借りるだけ、すぐに
返すから、という約束で東京に連れてきた
のです。
つまり、騙したわけです。
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この回答へのお礼

どう思う?

ありがとうございます!たびたびすみません、
また質問があります。なぜ列強に対抗する為、公家を天皇から引き離す必要があったのでしょう?東京にいけば、旧幕府の残党がうようよしてますよね?それは、問題なかったのでしょうか?

お礼日時:2019/06/11 13:13

まずなぜ、明治維新で東京を首都というか「天皇を御幸させてまで江戸を政治の中心にしたか」と言う理由は簡単です。

「大政奉還して政治責任を負った明治政府は準備ができておらず、江戸幕府を動かしていた大量の官僚をそのまま引き継いで、日本の政治が止まらないようにしたから」です。

古今東西どこでもそうですが、国を動かすには莫大な事務仕事があります。たとえば税金を取るのだって、全国の田んぼや個人資産を調べて税金を掛けるなどの作業が必要で、幕藩体制で大政奉還の翌日から明治政府が管理したのが天領だけだったとしても莫大な量だったからです。これを薩長土肥の事務方の武士を連れてきて事務作業をさせようとしても無理だったわけで、となれば「江戸幕府の行政事務官僚にそのまま仕事をしてもらうしかない」状態だったわけです。だから江戸を首都にするしかなく、その代り天皇に来てもらって「東の京」という名前に変えたのです。

>その頃天皇はなぜ京都に住んでたんでしょう?政治の中心地である東京に住んでいたほうが、良さそうに思うのですが。
この理由をスパッと書いてある歴史書などはありません。

一言で言えば「天皇からお墨付きをもらった武家政権は鎌倉幕府から捻じれていて、それが原因で戦国時代になったから」です。

鎌倉幕府は東国の武士たちが公家たちの横暴に対して怒り「自分たちで政治をしたい」という要望から始まりました。天皇は源頼朝に「幕府を開いていいよ」という勅許を与えますが、これは「東の国は軍政で勝手にやってもいい」という意味にすぎませんでした。当時は天皇というか朝廷の権力はまだ絶大で、天皇を支持する西国の公家や武士なども多く、だから鎌倉幕府は六波羅探題を置いて朝廷の動向を常にさぐっており、何かあれば先に手を打って朝廷を押さえつけるようなこともしていたのです。

当時は奥州藤原氏が事実上支配する平泉のような場所もあり「事実上の分割統治」は珍しいことではありませんでした。ただ奥州藤原氏は「朝廷の権威と意向は受け入れた」のに対して「鎌倉幕府は朝廷の権威は認めるものの意向は受け入れなかった」のです。

そのため朝廷側が「権力を取り戻したい」と考え後醍醐天皇の建武の新政を呼ぶことになります。つまり「朝廷と武家政権のどちらが日本を治めるかの戦い」が始まったのです。
 この建武の新政は幕府側に鎮められて失敗に終わりますが、当然ながら朝廷支持派の西国有力者と東国の鎌倉武士派は遺恨が残ります。

結局、鎌倉幕府は天皇側の策略とそれに協力した足利尊氏の軍事力によって滅びるわけです。ところが足利尊氏は朝廷が「武力を持った武士を軽く扱う」のを見て、態度を180度変え「自分で幕府を開く」ようにしてしまいます。

これを室町幕府と呼ぶわけですが、この時「足利尊氏とその後継者」が考えたのは「なるべく朝廷と武家が対立しないようにすること」だったのです。だから京都の室町に幕府を置いて、朝廷派=西国が中心、武士派=東国が中心の利害調整を心がけました。

しかし、そのかいもなく応仁の乱が起こってしまいます。応仁の乱は後継者争いなのですが、結局「朝廷の支持する後継者がいいか、武家の支持する後継者がいいか」と言う問題で紛糾してしまい、日本全土を巻き込む大騒動になって、そのままそれが戦国時代になるわけです。

ここまで書いてお分かりだと思いますが「戦国時代を終わらせて、日本を平和にするには朝廷と武家のどちらの権力が上にならないとダメ」ということだったのです。

しかし、足利尊氏が鎌倉幕府を滅ぼすのに一番役割が大きかったように「事実上武家が上に立たないと長期の平和は訪れない」のは分かり切ったことでした。しかし同時に「朝廷を廃止してしまうと、取り返しがつかないぐらいの国内大戦争になる」ことも自明だったわけです。

そして長い戦国時代は武家も公家も庶民も疲れ切っていました。豊臣秀吉が関白になったのは「公武合体で武家が天皇家と一体になれば平和が長く続く」と考えたからです。しかし、秀吉の後、秀頼の時代はやってこなかったわけです。

次に天下をとった徳川家康は京都の影響を受けにくい「江戸」を居城にすることにしました。そして朝廷の権威は残したものの、権力は徹底的に排除したのです。鎌倉幕府のやり方をもっと徹底的にやった感じです。
その結果、250年に及ぶ「江戸時代」が訪れた、ということになります。

しかし、江戸末期になると黒船など外患が起き、また幕府や各藩の財政は常に赤字という幕藩体制や経済としての農本主義の限界が来ていました。徳川慶喜はものすごく頭がいい人でだから「幕藩体制はいずれ行き詰まる」と考えたのでしょう。それに水戸藩の伝統である朱子学的な意識から「天子から逆賊と呼ばれるのは嫌だ」という意識もあったと言われています。

結局、薩長土肥が担いだ「天皇」という日本の最も基本的な権威が、政治権力の頂点に返り咲いたのです。で、ここで重要なのは薩長土肥は武士なので「天皇は担いだが、朝廷に服する気持ちはまったくない」ということです。

だから天皇を擁立した明治政府を東京で開けば
・江戸幕府の官僚をそのまま政府の事務職として使える
・京都の公家衆の影響から離れて薩長土肥と岩倉具視などの一部の開国派が政府を牛耳れる
と考えたわけです。

だから「公家や京都府民をだますため」に東京に行ってから一度帰ってきていますし、公家などが批判した遷都論は岩倉自身が「陛下がなにも言わないのに、臣下が勝手に遷都を議論するのはけしからん」と封じ込めています。

明治天皇は東京に来ましたが「朝廷の機能」は東京には来なかったのです。これが二つ目の最大の理由です。
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この回答へのお礼

どう思う?

細かく説明していただいてありがとうございます。武家と平家が争わないように、西と東に分けたものの、結局、どちらかが上にたたないと争いが終わらない。そこで、天皇を江戸に移して、旧幕府の機能をそのまま、新しい天皇中心政府の機能として使おうとしたという事ですね。

お礼日時:2019/06/11 13:29

諸説ある中で理由は何かの本で読んだのですが思い出せないので適当なことは書けませんが一つだけ。


京都の人たちが不安になるについては反対が多かったために京都だけ特別扱いで<府>が与えられたと記憶してます。
元気を無くした京都市民の為に3代目の府知事が念願の水の確保のために疎水を計画し水道を確保し市電を走らせ
活力を取り戻しましたのかな?
いまだに京都人は東京に上るのではなく下ると言いますね
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私の想像ですが「住めば都」。

特に徳川サイドから言えば、慣れた都がいろいろと都合が良い。
もし、京都でなら自分だけが移動すればというような簡単な引っ越しだけではなかったと思います。

いわば近代社会構造の底辺までもが確立させやすい条件が揃っていたということでしょう。
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江戸幕府=朝敵ではありません。

徳川家は水戸藩はもちろん、徳川慶喜も松平容保もみな尊王でした。江戸幕府にとって敵なのは薩長です。
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そもそも、東京に遷都したと言う法的な根拠は無かったりします。

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