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江戸時代の薩摩藩と長州藩と江戸幕府の関係性がよくわかりません。薩摩藩は最初は幕府の味方側で長州藩の敵だったけど最後は長州藩の味方になったと言うことでしょうか
長州藩は京都に攻め込んだとありますがどうして京都に攻めたのでしょうか

A 回答 (3件)

薩摩は最初は幕府と共に、黒船来航の国難に対処しようと思っていたわけですね。


しかし、日米修好通商条約で幕府が米国に騙され、大量の黄金を国外に持ち去られ、日本経済がガタガタになってしまいました。
それで薩摩は、幕府に国政を任せておけないと判断し、長州と組んで幕府を倒そうとしたわけです。

長州が京都に攻め込んだのは、当時の長州は尊王攘夷の急先鋒でした。京の過激な尊王攘夷派の公家達と共に、攘夷の為の軍を朝廷主導で起こそうとしていたわけです。

それが、あまりの過激ぶりに驚いた穏健派公家が京都守護を務めていた会津を中心とした佐幕藩兵とともに、八月十八日の政変で過激派の公家が朝廷を追放した。
そこで長州は巻き返しを図り、新選組による池田屋事件をきっかけに京都守護代松平容保を討伐して攘夷の主導権を取り戻そうとした。

それが長州が京で兵を挙げた理由です。
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長州藩は中国地方の8か国を治めていた大大名でしたが、関ヶ原合戦後に


長門と周防の2か国にされたので、その復権が、代々の藩命でした。
大政奉還後明治維新になっても、旧幕府関係の領地治める処を潰しに
掛かり戦争を仕掛けました。
現在になっても、会津若松市の市民は萩市を敵対視してます。
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薩摩藩は、当初幕府を立てて幕府中心に国政改革を進めようとし、幕府の中心に徳川慶喜を推したのです。


ところが、慶喜と久光が実際に会って話し合いをしたところ、全くウマが合わずに喧嘩ばかり。松平春嶽が仲を取り持とうとしましたがことごとく失敗。
怒った久光は慶喜と絶交して、打倒幕府の長州藩と手を組んだのです。
薩摩と幕府の関係は、慶喜と久光の個人的な確執があります。
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