幼稚園時代「何組」でしたか?

下記質問の関連です。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11229304.html
この質問者の言っていることがよくわからないので、浅学の私にわかるように、どなたか解説していただけないでしょうか。
該当質問の下記の箇所についてです。

※(動詞の場合)命令形語尾と仮定形語尾「け」は同じで、活用語尾「け」自体が仮定、命令の意義を持つのではありません。
このように、活用とは次に続く語による形の変化でしかありません。このように、活用とは次に続く語による形の変化でしかありません。
では、これを形容動詞について見てみましょう。仮定形が判り易いのですが、「綺麗なら」「元気なら」の場合、「部屋が綺麗なら嬉しいのだが。」「彼が元気なら良いが。」で判るように、明らかに「なら」は仮定の意義を表わしています。つまり、これは意義を持つ一語であり、活用語尾ではないという事実を示しています。※

つまり、この方は、
形容動詞仮定形の「なら」は、【この2字だけで】仮定の意義を持つ一語であり、形容動詞の活用語尾ではない。
だから、形容動詞というもの自体が誤った品詞である、と言っています。
ところが、形容動詞の活用形には、「なら」のほかに、
「だろ」という未然形。
「だっ」という連用形。
「で」という連用形。
「に」という連用形。
「な」という連体形。
などもあります。

これらの活用形は【これらの字だけで】どのような意義を表わしているのでしょうか?
お尋ねしても答えていただけません。
どなたかご存知でしたら教えていただけないでしょうか。

A 回答 (8件)

「活用形」そのもは、それだけで特別の意味を持つものではありません。


「行く」の活用形
  行か・行き・行く・行く・行け・行け
活用形としての違いがありますが、動詞「行く」という意味に変化はありません。これに後接の語句がついた時、未然、連用、終止、連体、仮定、命令の意味が発現します。
 行か(ない)・行き(ます)・行く(〇)・行く(時)・行け(ば)・行け(〇)
 行こ(う)
  〇を当てた言い切りのものは、そのままで、終止や命令を表します。
「綺麗だ」の活用形
  綺麗だろ・綺麗だっ・綺麗で・綺麗に・綺麗だ・綺麗な・綺麗なら・(〇) 
後接の語句をつけると
  綺麗だろ(う)・綺麗だっ(た)・綺麗で(ある)・綺麗に(なる)・綺麗な(人)・
綺麗なら(ば)」 〇(命令形なし)
 後接の語を除けば基本的に変わりはありません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「綺麗なら」の「なら」は活用語尾ではない、という考え方は間違っている。

ということですね?

お礼日時:2019/08/03 16:25

No.6 への応答



すいません。

時枝主語論取り消しの件、
入力後に気付き、載せてしまいました。

しかし、その後、nwsaburoo氏が「<「名詞」理解の誤り Ⅱ>に訳のわからないコメントを寄せられ回答しているうちに、この回答で詞辞論に触れたことで、今回の一連の問題提起と応答が収束しない根底が何であるかが閃きました。

それが何かと言えば、助詞、助動詞などの本質、意義とは何かが全く理解されていないということです。
それは、まさに、今回の質問者が「これらの活用形は【これらの字だけで】どのような意義を表わしているのでしょうか?」と問うている内容です。

そもそも、発端は【「無意識{で/に}やる」「真面目{で/に}取り組む」】の格助詞「で」「に」ですが、これは、1311tobiなる方の提起です。そして、この質問者は助詞の意義が理解できないまま、それがゆえ訳の判らない質問や回答を繰り返しています。

当方は、こうした事態にイラ立ち、一連の「誤り」シリーズを展開してきました。そして、この質問者であるhakobulu氏には助詞、助動詞は辞である主体的表現であることを説明し、格助詞「に」の意義を「着点」、「で」を場所などと客体的表現とすることの非を何度も説明し、本も読むよう説得したのですが理解されませんでした。それ故、匙を投げたもので、その結果この質問が提起されたというのが経緯です。

そして、形容動詞を支持される OKATサンも応答の内容からすると必ずしもこの点が明晰ではないように感じます。名詞、形容詞と助詞、助動詞の本質的な相違がイメージとして浮かばないからです。

nwsaburoo氏も先の応答で<(私は、いわゆる「付属語」は「語」だとしないほうがいいだろう、という説です。>と寝ぼけたことを言われており、それを詰問していますが、これが馬鹿げた寝言であることが理解できないということを露呈しています。

これは、「付属語/自立語」、活用の有無という形式による定義からは、当然の結果でしかありません。

実質語、機能語という区分も同じで、では、どんな機能なのかと問うと、先に当方が欠陥事典と指摘した『日本語文法事典』(これには今の所応答がありませんが)は「文法的機能」と同語反復を繰り返すばかりです。

そして、『日本語文法事典』は「文法的機能」のオンパレードでありなが「文法」という項がないという、当方が指摘した欠陥を持っています。この「文法的機能」のオンパレードこそが、形式主義/機能主義に依拠する、『日本語文法事典』の本質的な欠陥です。

このように、内容/本質ではなく機能を本質と取り違えては対象が対象である根拠、本質を正しく理解できなくなります。

ここまで説明しても、この項の質問者は理解できず、人並みの反撃をされるので、匙を投げたものです。

これらは、客体的表現としての詞、主体的表現としての辞という区分を否定してしまった祟り、報いというしかありません。■
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早速の応答ありがとうございます。



>>語そのものの意味は語尾が変化しても変わらないということですね。

おっしゃる通りです。ただ、形容動詞の存在を認める立場から若干誤解されているところがあります。

>>綺麗だろ・綺麗だっ・綺麗で・綺麗に・綺麗だ・綺麗な・綺麗なら・(〇)
これらは同一の意味であり

これらは同一の意味ではありません。「綺麗」は一語で、「綺麗だろ」は、属性表現の語「綺麗」+判断辞「だろ」で、「綺麗」一語とは明らかに意義が異なっており二語としなければならないということです。「綺麗に」は当然、「綺麗」+格助詞「に」で、「綺麗だ」とも全く意味が異なります。したがって、静詞「綺麗」が一語で、その後に肯定判断、仮定他の意義を持つ単語が続くということになります。「な」「なら」は、判断辞「なり」の系列で、「だ」とは異音同義ということになります。

>>時枝文法では「主語」をどう考えているのか、お聞きしたいのですが。

時枝は当然、彼の入子型構造により客体的表現と、主体的表現の立体的な構造を捉えています。これは、話者の立体的な認識構造に対応するものです。

そして、国語に於いては、判断される処の客体は凡て述語格である。例えば、

 走る。 短い。 人だ。

の如き文に於いては、「走る。」「短い。」は共に陳述が零記号であり、「人だ。」に於いては、陳述は「だ」によって示されている。そしてこれらの陳述の客体をなす処の、詞としての「走る。」「短い。」「人」は凡て述語格である。/

とし、

一般に、主語格は述語格に対立しているものと考えられ、この対立を結合する処に統一が成立するという形式論理学並びに印欧語的統一の観念から離れなければならない。国語に於いては、主語は述語の中に含まれる形に於いて述語に対立していると見なければならないのである。従って、判断的陳述の対象が、凡て述語格であるといっても、それは決して主語格の存在を無視したことにはならない。[走る。」といえば、その中に既に何ものかが走ることを意味しているのであって、国語に於いては主語が省略されていると見る見方は正しくない。文に於いて表出されている主語は述語に対立したものとして表出されているのではなく、述語の中に隠されて居ったもの、包まれて居ったものが外に表出される様になったものと解すべきである。/
(『国語学原論』岩波文庫 下 71~74)

として例を挙げ説明しています。

このように、主ー述を形式的な対立として捉える形式論理学並びに印欧語的統一の観念に依拠する「日本語(教育)文法」とは全く異なった理解をしています。

主語論の詳細については、山田文法の文論から、時枝の文章論へと三浦つとむが「文論から文章論へ」(『文学・哲学・言語』国文社:1973.12)で詳細に論じていますので、是非参照下さい。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

1.
>これらは同一の意味ではありません。「綺麗」は一語で、「綺麗だろ」は、属性表現の語「綺麗」+判断辞「だろ」で、「綺麗」一語とは明らかに意義が異なっており二語としなければならないということです。

#5さんへの返信ですが、ここでも文意を理解しておられないように思います。
質問者として調整させてもらいますが、彼(または彼女)は、そんなことを言ってるわけじゃないでしょう。
形容動詞「綺麗だ」全体を判断辞と捉えれば、すべての活用形もすべて判断辞として意味が同一になるだろう、とおっしゃっているのだと思いますよ。
意味が異なるのは、それに続く語によるのだ、と。

「だろ」が判断辞なら「綺麗だろ」も判断辞になるはず。
「綺麗だ」全体を判断辞としてはいけない、根本的な理由は何ですか?
そもそも、「だ」にしても、「にてある」から「である」、「であ」、「だ」と転じて室町時代に成った語で、関西の「じゃ」に対して関東で盛んとなった。断定を表す。
という広辞苑注釈があります。

「だ」が「に・て・ある」の合体語であるなら、「綺麗だ」が「綺麗・だ」の合体語であってはいけない根拠を明らかにしていただきたい。

2.
今回、あなたは、『「なら」は、判断辞「なり」の系列で、「だ」とは異音同義』とおっしゃっている。
しかし、「(綺麗)なら」は、【この2字だけで】仮定の意義を持つ一語なのだから活用語尾ではないとも、あなたはおっしゃった。

「だろ・だっ・で・に・だ・な・なら」がすべて判断辞であることはわかりますが、「なら」が仮定の意義を持つ一語であるなら、「なら」以外の各語は、どんな意義を持つ一語なのですか?

お礼日時:2019/08/03 22:13

No.5です。

この質問の邪魔になりますから、「主語」に関する質問は取り下げます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ご懸念なく。
どんどんやってください。
わたしとしても勉強になるかもしれませんので。

お礼日時:2019/08/03 21:28

この件については、引き下がります。

(語幹+語尾=)活用形が特別の意味を持たない、というと、語そのものが意味を持たないことになりますから。正しくは、語そのものの意味は語尾が変化しても変わらないということですね。
 綺麗だろ・綺麗だっ・綺麗で・綺麗に・綺麗だ・綺麗な・綺麗なら・(〇)
これらは同一の意味であり、後に続く語によって意味が変化するという考えに変わりがないことになります。(勿論、形容動詞の存在を認める立場からの話です。)
 話は変わりますが、時枝文法に付いての記述を読むと、江戸時代以前の国学者の研究が、述語の研究に偏り、主語などについて殆ど触れられていないのを重視し、欧米の諸言語に対抗したように、書かれています。その点では「日本語(教育)文法」と共通性があると思いますが、時枝文法では「主語」をどう考えているのか、お聞きしたいのですが。
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>>折角のご指摘ですが、「語幹+語尾」で活用形になるのではありませんか。



折角のご指摘ですが、「語幹+語尾」で活用形にはなりますが、「行か・行き・行く・行く・行け・行け」の各語は意義を表わし、<活用語尾>「か・き・く・く・け・け」は意義を持たないというところがポイントです。

もっとも、教科研文法当りでは、活用語尾が意義を持つなどと云うかもしれませんが(●^o^●)■
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折角のご指摘ですが、「語幹+語尾」で活用形になるのではありませんか。

(語幹と語尾を区別出来ない語「いる」などは特別ですが「活用形」と書けば問題ないでしょう)
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OKAT サンも若干誤解されているようで、OKATさんが質問された理由が判った気がします。



>>「活用形」そのもは、それだけで特別の意味を持つものではありません

これは、活用形ではなく、「活用語尾」の誤りです。

活用形というのは、「行か・行き・行く・行く・行け・行け」の各語で、「活用語尾」は「か・き・く・く・け・け」です。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

どうでも良いことには嬉々としてお答えになりますなあ。(笑笑)

「(行く の)活用語尾」は「か・き・く・く・け・け」
なんですね?
#1さんは、
「(綺麗 だ)の活用語尾」は、
綺麗だろ・綺麗だっ・綺麗で・綺麗に・綺麗だ・綺麗な・綺麗なら・(〇)
とおっしゃっている。
しかし、「(綺麗)なら」は、【この2字だけで】仮定の意義を持つ一語なのだから活用語尾ではないとあなたはおっしゃった。
では、
「だろ・だっ・で・に・だ・な」
なども、『仮定の意義を持つ一語なのだから活用語尾ではない』とおっしゃるのですか?

とお尋ねしている。
こうした質問の意味は理解できますよね?
この内容に沿ってお答えいただければ幸いです。
答えられるのなら、ですが。

お礼日時:2019/08/03 16:35

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