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仏教に興味があります。日本には仏様の他にも色々な仏様(神様?)が、いらっしゃいます 菩薩様にも十一面観世音菩薩様、普賢延命菩薩様、、などなど沢山の菩薩様がいらっしゃいます

スリランカのお友達も仏教徒ですが、上座部仏教なので、また日本とは違いますが、小さい頃から毎週日曜日にはお母さんにお寺に拝みに連れて行かれたそうです。
彼はBuddhaブッダだけを信じている感じです。スリランカにはブッダというそんざいしかないのかもしれませんが、
今、彼は日本に住んでいるから、観世音菩薩さまや、お地蔵さま、不動明王さまなど、、如来様(ブッダ)
意外にも 仏様のように私たちを救って下さる存在があることを伝えたいのですが、ブッダと菩薩様のちがいはどのように説明したらよいですか?

日本の仏教にだけ、菩薩様やお不動様、お地蔵さま、などは存在するのですか?

A 回答 (2件)

菩薩の解釈は宗派によってわずかに違いがあります。



法華経だと、修行者は3つに分類されます。
声聞:理屈を学ぶことで仏教の修行をする人
縁覚:実践することで仏教の修行をする人
菩薩:理屈と仏教の両方(行学二道)を実践して人格の完成を目指す人

その法華経に、常不軽菩薩という人が出てきます。
彼は難しいことなど一切言わず一切せず、ただ「あなたは必ず仏になれる人です。私はあなたを軽んじません」と誰にも言い続けました。
人はその言葉だけを繰り返す彼を「あいつは誰だろうといつだろうと『あなたを軽んじません』としか言わないやつだ」と嘲笑し時には石を投げたりして迫害しました。
常不軽菩薩は迫害されれば逃げたものの、それでも「軽んじません」と言い続けることをやめませんでした。
そういうことのち彼は仏の悟りに達し涅槃に達することができました。

常不軽菩薩は実在の人物ではないという線が濃厚です。
法華経を書いた人が「このようにするのが菩薩の生き方です」という例として出したのです。
法華経にはほかにも何人かの菩薩が出てきます。

ブッダというのは現地の言葉で「悟りを開いた人」です。
仏教を開いたブッダには「ゴータマ」という個人名があったようですが、仏教の悟りを開いたことで「ブッダ」と呼ばれることになります。
彼は実在の人物で、実際に法を見出しそれに基づいて各地で説法をした人でした。

なお法華経は大乗仏教に属するもので、その大乗仏教はブッダの死後100年ほどして姿を現します。
ブッダの時代にはありませんでした。
法華経もその他の大乗仏典群も、紀元前一世紀ごろに集中して成立します。
分かっているのはそれだけで、あとは「インドのどこかで誰かが書いた」としか言えません。
日本の仏教ははその大乗仏教に属しています。

不動や地蔵は私自身よく知りません。
が、その大本が原始仏教にあったことはたしかです。
そしてそれらが、今見る地蔵とは全くかけ離れたものであることも確実です。
仏教とは、そのようにして深化してきたからです。
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この回答へのお礼

わかりました
ありがとうございます

お礼日時:2019/10/23 16:14

> 日本の仏教にだけ、菩薩様やお不動様、お地蔵さま、などは存在するのですか?


⇒ 日本だけではなく、あっちこっちに存在します。
https://ameblo.jp/hiro-1/entry-10085250654.html

> 観世音菩薩さまや、お地蔵さま、不動明王さまなど、、如来様(ブッダ)以外にも 仏様のように私たちを救って下さる存在があることを伝えたい
⇒ 余計なお世話です。 そもそも、「観世音菩薩さまや、お地蔵さま、不動明王さま」は「私たちを救って下さる存在」という理解が間違っている可能性も高いです。 
「不動明王」は「インドで起こり、中国を経て日本に伝わった不動明王であるが、インドや中国には、その造像の遺例は非常に少ない。日本では、密教の流行に従い、盛んに造像が行われた」という説明もあるくらいですから、お不動様、不動明王は日本以外ではあまり存在しないとも言えますが、この「お不動様、不動明王」が「私たちを救って下さる存在」という教説のようなのはハッキリとはないのではないかと思います。ただ、「私たちを救って下さる存在」ではなくて、「仏法を守る存在」という方が理解としては正しいと思います。「仏法の戒律を破る存在」を徹底的にやっつける役割と任務を果たすのが「お不動様、不動明王」で、あのように真っ赤に怒っている表情をしているようです。仏法を守るため懸命に(命を懸けて)修験などする人々にとっては護衛・用心棒のような存在として「お不動様、不動明王」も大事にするのでしょうが、仏法など気にせず普通の生活をする人々にとってはかなり危険な存在かもしれません。
http://www.shiga-miidera.or.jp/about/walk/161.html

> ブッダと菩薩様のちがいはどのように説明したらよいですか?
⇒ 付け焼き刃で教わったことを、他人に説明しても、相手に分かってもらうのは難しいでしょう。

> 彼はBuddhaブッダだけを信じている感じです。スリランカにはブッダという存在しかないのかもしれませんが、
⇒ スリランカには、キリスト教徒も、イスラム教徒もいます。 日本人などの観光客やビジネスでスリランカに来ている人たちもいます。もちろん、シンハラ人と言われる人たちがたくさんいます。バスも乗用車も走っていて、ホテルもスリランカに存在しています。「スリランカにはブッダという存在しかない」ということはないです。 
また、スリランカの人たちは、けっこう多くの神々を祭っています。 インドでも似たようなものです。
https://blogs.yahoo.co.jp/glisten023/11493430.html
  ====  ====   ====
こんなことも書いてあるサイトがあります。  http://www7b.biglobe.ne.jp/~zuiun/208sri-lanka.h …
スリランカは上座部仏教の国なので仏像は釈迦牟尼仏のみであるが、その仏さまは現世のことには関与しないという。つまり人々が現世利益(げんぜりやく)を仏さまに祈っても、「欲があるから苦しみがある。だから欲を捨てなさい。そうすれば軽やかに生きられるであろう。布施をおこない、戒めを守りなさい。そうすれば来生はいいところに生まれるであろう」という答えしか返ってこないのである。
そのためそれで満足できない人は、ヒンズーの神さまに現世利益をお願いすることになる。ということでこの国では寺の境内にもヒンズーの神様をまつるお堂が建っている。つまりお寺参りをするときは、まず仏さまを礼拝して清く正しく生きることを誓い、そして来生の福を祈る。それからヒンズーの神さまにお参りして、商売繁盛やお金もうけなどの今生の福を祈るということである。
とはいえ初めてそのヒンズー神をまつるお堂を見たときは、その存在理由がまったく理解できなかった。しかもそのお堂には窓がなく、薄暗い中に祀られた神像には派手な電飾が施されていて、怪しげな雰囲気が漂っていたのである。このお堂は在俗の人が管理しているというから、そこで見かけた普通の身なりをした男性が司祭らしかった。
そうしたお堂で私が見たのはビシュヌ神だけであったが、シバ神の息子のスカンダ(日本でいう韋駄天さま)、ガネーシャ(歓喜天)、スリランカ土着の神々、などもまつられていて、スカンダは商売繁盛の神、ガネーシャは交通安全の神として人気があるという。
つまりこれらの神々は、人々の願いをかなえるように命じられた仏さまの子分たちであり、仏さまは「神の中の神」なのである。考えてみれば日本のお寺にも、帝釈天、毘沙門天、弁財天などのヒンズーの神々が祀られているのであった
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宗教のことで、簡単に言える、簡単に説明できるようなことは、あまりないです。
それぞれの人が自分の考えがあったりもするし、社会でトラブルや紛争の元になることもあるくらいです。
自分にもハッキリしないことを、すでになにか信仰や宗教儀礼を大事にしている人に説明するのは、失礼だと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2019/10/23 16:11

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