☆ 次のニュースに接して 批判の必要を感じました。ご見解をどうぞ寄せてくだ
さい。
▼ カトリック、既婚男性も司祭に 900年の伝統を変更へ
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191027-0000 …
0. 《第三項(犠牲)排除の理論》があります。
自分たちの集まりの中から 《異質〔と勝手に見なした者〕を排除する》というう
ごめきについてです。
今村仁司が理論づけました。『排除の構造――力の一般経済序説』(1992)で
す。
この理論とそして その中でイエス・キリストがその排除された第三項であるとい
う見方 これらについて問うかたちとなります。
§ 1 まづ人には《承認欲望》があると言います。
人は 存在としてまた人びととの関係として 社会的である。
しかも主観は 独立した歴史知性であるゆえ 自由な関係を希求する。
しかもその自由の実現を 特に社会集団としては しばしばまちがって追い求める
傾向があると。
簡単に言うならば 集団の中の一人だけを例外つまり除け者にして あとは互いに
ひとしく自由や平等をたのしむといった傾向であり むろん間違った道筋であると
いうものです。
一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は 社会関係的な存在であるか
らには 互いによる承認を喜ばしいものとして受け取る。人からみとめてもらえれ
ば うれしい。そのときややもすると この承認を 自分から 追い求めて行く傾
向を持つ。たとえ一定の一人の人を除け者にしてでも。・・・
§ 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。
この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたらくと 《みんなと同じであ
りたい願望》=《模倣欲望》を持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。
つまり 承認されていると思うことがたやすくなる。
そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段階でも その一様性つまり
は《全員による同じ歌の大合唱》という情況だけでは まだ相互の承認が完成した
とは見なさない。こういう気難しい一面もあると言う。
§ 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したのもつかのま なおまだ
不安が潜んでいるようなのだ。
そこで これなら安心しうるという一定の判定基準を持とうとする。この誰れにと
っても見やすい共通の基準となるものが 《第三項》である。具体的には 《のけ
者》と言えば早い。除け者を除け者とする同じひとつの態度を共有するなら もう
何が来ても安心だということであるらしい。
§ 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである。
追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称される。
このときその〔小単位としての〕社会は 《一》対《他の皆》という構図をつくる。
《一》となった第三項は たしかに《除け者》として扱われる。
つまりは第三項を皆で排除する構造が出来て初めて 人としての互いの承認が実現
すると言います。そうしてこそ 人びとは安心して 安定した《仲良し》状態とな
り《秩序》を楽しむと言うのだそうです。
このような傾向を人類は 悲しいかな 残念なことに持っているのだと。
§ 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していたように その自由への
変身を人びとが成しうるとも説いています。
それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして わたしたちは獲得するこ
とができるとも言います。
また 模倣欲望を実行している最終の過程で その互いに互いを模倣するという《流
行》現象においてもその反面にはつねに起こると思われるように それ・つまり《み
んなと違いたい願望》が これもじつは同時に はたらいてくれるとよいし はた
らくだろうと考えられてもいます。
非模倣ないし反模倣つまり みんなと違っていたいという欲望 そしてそれと並ん
で 《異者》を受け容れるという行為 これらによって 自由への変身を人びとは
勝ち取れるであろうと。
§ 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであるとも言い あるいは
資本主義社会における貨幣のことであるとも論じていました。
第三項は それがいわば見事な排除であった場合には 排除し切ったあとで ぎゃ
くにそれを人びとは《聖化》すると言います。
人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を 今度はぎゃくに偉大な生
け贄と見なし それに聖性を付与する。それによって なお人びとは 安心すると
いうその仕組みなのであると。つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者
として こんどは崇めるようになるのだと。
したがって今度は 除け者の第三項を《聖なる第三項》として みなであがめる。
つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として 崇めるようになるのだ
と。
このことを通して あらためて集団ないし社会における秩序と安寧をたしかなもの
にするらしい。人びとは安心するということらしい。
(菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかも左遷されたらしく その死
後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが《聖なる神》として
まつられるというからくりであるらしい。)
§ 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られるような 《聖なる除け者
(第三項)》といった扱いは これも まちがいであると考えられるのに かなり
有力なかたちで続けられる。
なぜならそこでは 死後に一たん評価がひるがえって《聖なる者》と見なされる
ようになったあとでは この《聖化》――つまりはそういう通念ないしクウキ――
に対してもし否定するような動きがあったなら あたかもすでに条件反射のごとく
に 反動のチカラがはたらくということらしい。ゆえである。
反動のチカラは 出る杭を打つとなって現われる。つまりその新たに現われた異端
分子を やはり第三項と見なしてその排除にかかる。
一たん聖化され人びとの《心の――じつはただうわべにおける心理的な――安心と
安定のみなもと》としていだかれたキリストなる観念の共同に ただ否定的なだけ
ではなく 真っ向から敵対するかたちとなり その勢力さえ形成してきたときには
当然のごとくそれを 単に除け者とする手段では間に合わなくなれば 明らかに戦
争にまでも発展させる。ときに社会はこぞって容易に 戦争に飛びつくことができ
る。
§ 8 《自由への変身》は 異者の受容によるか?
ひとりの偉大な《聖なる者》をいただくひとまとまりの社会 これも じつは そ
のまま間違いである。
その《聖なる者》をいただくか否かで区分した規定じたいがすでに 除け者をみづ
から作っていることになっている。
だから 外の異者を受け容れよと言うのであるが おそらくそれは――その今村理
論に逆らってでも―― まだコトの本質には迫っていないように思われる。(異者
の受容そのことが わるいわけではない)。
内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大なる聖なる第三項》をいただ
くという方式じたいが どこまでも除け者を作り出そうとする模倣および承認の欲
望のなせるわざである。
形式としては 《儀式》が問題なのだと思われる。儀式をおこなうということはそ
こに 《第三項》が埋め込まれているのだと思われるからだ。
§ 9 どこまでも《話し合い》によるしかない。
模倣は 反模倣の動きがあるように 安心感のよりどころではない。承認されたい
という欲望は おそらく強いのであって 人間にとっては 或る種の仕方で根源的
なものであるかも分からない。
ならば とことん互いに話し合うことではないだろうか?
仲間意識の感覚 あるいは それの判定の基準は あくまで一人ひとりのこころに
ある。ここでは 《主観》が主役である。
ならば互いに だめでも話し合う。それでも話し合う。いやでも話し合う。(ただ
し 待ったなしの障害があるときには 別である。相手の状態が 話し合いに耐え
ない様子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う。もっと話し合う。
まだまだ話し合う。もういやというほど話し合う。
☆ 自由なご批判をあおぎます。
A 回答 (15件中1~10件)
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No.2
- 回答日時:
異質を認め会いながらの、ポリフォリックな議論の究めの共同体=アセファルを、モーリス-ブランショ、ジョルジュ-バタイユらが行っていたと、哲学者ジャンル-リュック-ナンシー、無為の共同体=何もしない共同体と、名づけ、出版しました。
そうですね。――まづは ご回答をありがとうございます。
ちょっと解説などを見てみますと 政治的な活動にかかわっており また
それでいて 宗教的な内容にも傾斜してゆく。さらには どうも文学的な
色合いが濃厚である。・・・
《何もしないたたかい》は 生活日常を生きることを基礎とし基本としま
す。
そして 《権力を回避せよということではない》とも見ています。
フランス関係は サルトルがどうもはっきりしない。
その後 J.ラカン G.ドゥルーズ=F.ガタリ M.フーコ J.クリステヴァ
などを読んでいて さっぱり分からず 往生しました。E.レヴィナスにし
ても 刺激を受けるところもありつつ やはりはっきりしない。
(読解力がないだけかも)。
ブランショ バタイユの名も聞いていましたし ジャン‐リュック・ナン
シーですかその名も聞き及んでいましたが 著書を手にすることはもうな
かったですね。
ここがこうだといった決定的な知見をおそわるなら そちらに向かいたい
とも思うのですが。・・・
それらの思想家たちの前には P.ヴァレリの――詩作品をふくめた――著
作を読んでいましたね。
No.3
- 回答日時:
日本の共同体に欠けているのは、議論の究めを基礎に据えることなんですよね❗
あぁ なるほど。極みまで究めるということは 避ける場合が多い
という印象ですね。
ご回答をありがとうございます。
たぶん 議論のばあいには特に 相手〔という存在〕があるからな
のか 最後まで追究するという姿勢がうすいかも知れません。
共同体論というのも――たいていは 否定的に――流行ったりしま
した。
つまりは よくもわるくも 共同体の論理(?)で対話ないし批判
は 初めから共有する部分を大事にしつつ 無難に違いを指摘する
といったやり取りになるのでしょうか。
《人格批判》になったと思われることをおそれているのでしょうか。
なぜそんなふうに思うのかも 疑問なんですが。・・・
No.4
- 回答日時:
神がヒトを含めた全存在を設計し、作製した、という全存在の父役を神に認める本質主義、エッセンシャリズム=神のデザイン説を、認めず、己の存在は、主体的に己が設計し、己を作製する、たとえ神がいようとも、というスタンスを、神学にとどめず、政治にも拡大したのが、実存主義ですよね、サルトルの哲学的スタンスとは。
ご回答をありがとうございます。
★ 神がヒトを含めた全存在を設計し、作製した、という全存在の父役を
神に認める本質主義、エッセンシャリズム=神のデザイン説を、認めず、
☆ つまり 《実存は 本質に先立つ》ですから。
★ 己の存在は、主体的に己が設計し、己を作製する、たとえ神がいよう
とも、というスタンスを、神学にとどめず、政治にも拡大したのが、実存
主義ですよね、サルトルの哲学的スタンスとは。
☆ 《神学》は 《本質論》に属するとすれば 見捨てるでしょうし 実
存の範疇に入るとすれば:
★ 神学にとどめず
☆ になるのでしょうか。
★ 政治にも拡大した
☆ 《実存》にすでに――おそらく――政治は入っているのでしょうね。
現実存在とその位置する情況 というものに 世界のすべてはかかわって
いるのでしょう。
――といった感じでいいんでしょうかね。
No.5
- 回答日時:
すべての歴史、状況の設計は、たとえ不条理でも、神の意志、設計である、という悪い意味でのエッセンシャリズムに対して、サルトルは戦いを仕掛け、政治への主体的参加、アンガージュマンによって、問題とされる状況の変更を求めて運動していたのでしょうね。
ご回答をありがとうございます。
★ すべての歴史、状況の設計は、たとえ不条理でも、神の意志、設計
である、という悪い意味でのエッセンシャリズムに対して
☆ でも サルトルは マルクス主義にも傾いたでしょう。
唯物史観は 神の設計と同じような歴史観ではないかとわたしなんかは
思います。
★ アンガージュマン
☆ は 神の設計による歴史への参加よりは 《主体的》なんでしょう
けれど。
(印象批評のそしりをまぬかれないかも知れません)。
No.6
- 回答日時:
唯物史観に神、神の設計はありません。
だからこその唯物です。ただ、観念論より現実を作り替える=革命に、主体的アンガージュマンは、共鳴共振してるのでしょう。ご回答をありがとうございます。
★ 唯物史観に神、神の設計はありません。
☆ そうですが 原始共産制の社会からゆくゆくは 社会主義社会を経て
共産主義社会へと世界の歴史は到るというのは エデンの園から追放され
てゆくゆくは 終末論をともなって 千年王国に到るとも見られる方程式
に似ています。
マルクスは 共産主義とは いつか世界が一挙に変革されるといった見透
しなのではなく いま現在の一歩一歩のあゆみにあるとは言っていたよう
ですが たぶん両方の側面があるのではないかと見られます。
★ だからこその唯物です。ただ、観念論より現実を作り替える=革命に、
主体的アンガージュマンは、共鳴共振してるのでしょう。
☆ そうですね。たとえば一つに 主体の問題があるかと思います。
★ 主体的アンガージュマン
☆ は じっさいには個人個人の主体性にもそのアンガジェする・しない
やそのコミットの仕方にも それぞれ多様性がある――それが 自然であ
り人間性である――といった側面にも 配慮する必要があるのではないか?
マルクスの人間観は そのような自然性をおもんじるものと考えます。
つまりは ロシア革命が いわゆる《段階の飛び越え》をおこなって成し
遂げられたといった事情とかかわっているのではないでしょうか?
マルクスとしては 資本主義の経済と社会が成熟をむかえたときに革命は
起きると見通していたと思いますから。
いえ いろいろ大きな問題があると思います。簡単すぎたかとおそれるの
ですが。
No.7
- 回答日時:
ああ、そうですね。
サルトルは、実存主義を、唯物史観=神と、その設計の否定と見てますね。全く同じですね。すみません、気づかないで。そうですね。――ご回答をありがとうございます。
何のかんのと言っても マルクス主義は 実際上の運動としてはあたかも
神の設計した歴史の過程をすすむがごとく進展したかも知れません。
唯物論と唯心論とは 形而上学としては同じ神論だと見られます。
つまり 《無い神》派と《有る神》派とです。
資本主義における自己増殖に突き進んだいわゆる資本家市民に対して プ
ロレタリアートは政権に就くと《さばき》をおこなうに到りました。粛清
ですね。
あたかも神学の実践であるかのごとく。
No.8
- 回答日時:
ただ、マルクスもサルトルも、哲学の目標が国家、ナショナリズム、帝国の破壊後、世界統一を目論むインターナショナリズム、グローバリズムならば、現状から考えて、日本人として、私は彼らに与みすることはできません。
ご回答をありがとうございます。
★ 国家、ナショナリズム、帝国の破壊後、世界統一を目論むインター
ナショナリズム、グローバリズム
☆ 実際の運動としてそういった直線的な過程をすすんだと思われます。
理論もそうであったなら つまり:
★ 哲学の目標
☆ でさえあったとしたら 実践編は なおさら簡単明瞭な直線路線に
なったんでしょうね。
No.9
- 回答日時:
TPP.NATO.G7、EUと言うように、グローバリズムとしてのブロック圏内にメンバーになるつもりはない、あるいは、入れないとなると経済金融貿易による嫌がらせ、いじめ、否定が、ブロック安定化のためにも、今後、中国は、先のグループからスケープゴートになる可能性がありますね。
ご回答をありがとうございます。
★ TPP.NATO.G7、EUと言うように、グローバリズムとしてのブロック圏
内にメンバーになるつもりはない、あるいは、入れないとなると経済金融貿
易による嫌がらせ、いじめ、否定が、中国に行われますね、
☆ でも・ただ 中国の民主化という目標を米を始めとする世界は信じて
その国際社会に受け容れました。その結果が みごと外れたという認識なん
だと思います。
香港や台湾のような社会になって欲しい。ただこの一点ですよね。
マルクス主義よりも強固な中華思想――要するにこの場合は覇道ですね――
に凝り固まっているように映ります。
★ ブロック安定化のためにも、今後、中国は、先のグループからスケープ
ゴートになる可能性がありますね。
☆ 顔認証によるカード化の普及や道という道には監視カメラが設置されて
いるという・或る意味で監獄社会。だそうですね。
これによる侵略・植民地化を防ぐというささやかな動きは つづくでしょう
ね。日米欧その他において。
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