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1. 悪は 善のへそ曲がりである。

2. へそ――生まれ持った自然本性――に悪意はない。それは 相対性の世
界にあるからには ふと――道草を喰うように――曲がるのみ。

3. だから 悪は 悪として存在しない。

4. へそ曲がりでもよいと開き直りさらに善をゆがめ傷つけることを 悪と
呼ぶ。負の善のことであり またその現象であるに過ぎない。

5. 善とは ふつうに自然に日常生活を――われがわれなる道を――生きる
ことである。

6. 善が欠け その欠けとして悪が善の内に巣食っているからと言って 悪
が悪として存在しているわけではない。

7. 善なる意志が やはり相対的なるものであるからには ふと曲がる。の
み。


☆ これをなお問います。



8. 創世記における《悪の起こり》についての記事を説明できる人はいます
か? 《善と悪とを知る木から採って食べてはいけないと言われたが それに
さからって食べた》という記述( 2:16~ )をめぐって。
▲ 創世記  http://bible.salterrae.net/kougo/html/genesis.html

質問者からの補足コメント

  • №5お礼欄つづき

    ★ でもやみが混じっていて光もくすんでいたので、それで光とやみを分けたく
    なったんですね。どうやら、光よりもやみの方が先に“存在”していたらしい。な
    るほど!
    ☆ たぶん ちがう。光とて この経験世界のことは みな 相対的なものだと
    いうことです。


    ★ 1:5
    これを見ると、今までのやみと光は昼と夜のことだったの?なんて思いますね。
    そんなことないでしょう!
    ☆ それは つながっていくと思いますよ。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/01/02 18:08

A 回答 (19件中11~19件)

ブラジュロンヌさんの善悪感は相対の世界に於いては、と云う条件付きの分析であると受け止められますね。



“超えた世界”は善のみである、と云う主張も暗に云っている様でもありますが。

でも、果たしてそうでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ブラジュロンヌさんの善悪感は相対の世界に於いては、と云う条件付
きの分析であると受け止められますね。
☆ いや そうですよ。善悪というのは どちらも有限で相対的な内容の
ものではないのですか?


★ “超えた世界”は善のみである、と云う主張も暗に云っている様でもあ
りますが。
☆ あぁ そういう意味ですか。善悪の彼岸という言い方もありますね。

《超えた世界》は 善悪を超えているからには 善悪を超えた何らかの価
値なのでしょう。

それを 至高の善と呼ぶことがあるようですが。


★ でも、果たしてそうでしょうか?
☆ 《超えた世界》は 善悪を超えており 有る無しを超えており 因果
関係をも超えています。

神は愛なりと よく言いますが 超えた世界は 好悪や愛憎を超えている
わけです。


《超えている》を人間の振る舞いに当ててみたときには 先ほどの《愛憎
を超えている》が 参考になります。

相手が好きな人でも憎んでいる人でも それらの人に対する態度が 片寄
らないでどちらにも ゐやまひを持って 接する。といった事例が考えら
れます。


そうですね。もし仮りに:
★ “超えた世界”は善のみである、と云う主張
☆ をわたしがおこなっているとしたら どうなるか?

そのときには この現実世界としては:

 《善のみの世界 ‐ 善悪相対の世界》というふうな構造的な成り立ち

になるかと思います。

お礼日時:2020/01/02 19:39

善悪は社会の他者との交流で決まっていくものでしょう。

それを子供は、親の言葉を通して、彼らなりに経験的にケースbyケースで学んでいくのですね。始めから絶対的なイメージで、学ばないでしょう。ものさし=善悪という言葉のものさしは変わらなくても。行動の価値を決める、善悪の起源は、善悪という言葉=ロゴスが、起源でしょう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 善悪は社会の他者との交流で決まっていくものでしょう。
☆ 一般には そうなのでしょう。


★ それを子供は、親の言葉を通して、彼らなりに経験的にケースby
ケースで学んでいくのですね。
☆ それだと では その親はその言葉を発するとき すでに過去に
おいてどうやって 善悪を知ることになったか? という問いがまだ
答えられずにのこされている・・・ように思われます。


★ 始めから絶対的なイメージで、学ばないでしょう。
☆ 分かりません。


★ ものさし=善悪という言葉のものさしは変わらなくても。
☆ あぁ。物差しが 時代や国によって違うという場合があるにはあ
りますね。

でも どの時代・どの民族にしても 初めはどのように知ったか?


★ 行動の価値を決める、善悪の起源は、善悪という言葉=ロゴスが、
起源でしょう。
☆ 善し悪しが 自然におのづから――たとえばそれのみだとは思い
ませんが 快不快の原則というのがあります その成り行きのような
過程において――決まるという見方ですね。

ただし ひとごろしが あいつの場合は不快だが こいつの場合には
快になるから その快不快の原則で 善悪が決まる・・・ということ
にはならないでしょう。

では 善と悪とは その言葉をどういう物差しとして持ち使うように
なったか? ・・・

お礼日時:2020/01/02 19:26

社会で共有されているルールを、親の口から、いい/わるい、の二値的な評価、ものさしを言語の学習=善悪の木の実を、内面化肉体化「=脳移植」することを通して、善悪分別をケースbyケースで学んでいくことになるのでしょう。

その時に、我々の頭に善悪の判断がなされ、意図的な善悪の判断=自由の起源=倫理的な行動の起源も発動するのでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ん?

つまり:
★ いい/わるい、の二値的な評価、ものさしを言語の学習=
★ 善悪の木の実を、内面化肉体化「=脳移植」する
☆ となると すでに《善し悪し》は 決まっているということに
なりますよ。



何を善とし 何を悪とするか?

その最初の最初の起こりは どうだったか?

が 起源論なんだと思うんです。

お礼日時:2020/01/02 18:55

選択行動できる、自由の起源は、意図的な善悪を選択できるという意味で、意図的に他者の利益のために善を選ぶこと、意図的に自己の利益のために、他者の利益、尊厳を壊す悪、いずれも善悪の起源は、倫理の起源でもあるのでしょうね。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


重箱の隅をほじくりますが:
★ 選択行動できる、自由の起源は、意図的な善悪を選択できるという
意味で・・・
☆ 悪の起こりにまつわる自由意志の自由度を発揮したという起源では
まだ《善とか悪とか》の区分や規定は なかった。わけなんです。

その意味で 創世記の記者〔たち〕は 《善と悪とを知る木から・・・》
というふうに そのとき《善と悪との区別を知った》とは書いたのだと
思います。



わたしたちは ものごころがついて よいことや よくないことを知る
ようになりますが その起源のときの様子は どんなだったのでしょう?

というような問題でもあります。

お礼日時:2020/01/02 18:14

創世記 第一章


1:1に付いて。
要するに、天と地を創る神が既に居たんですね。

1:2に付いて。
台地は混沌としていたのですね。それでも、やみが淵の表面を覆い、神の霊が水の表面をおおっていたという事が分かった、と云う事は多分ご自分が作った台地だからだと思います。
注目すべきは、やみが既にあったという事です。光より前に??。
もう一つは、神の霊と云う言葉です。これは神は霊であると云っていることになりませんか?。
であるならば、神は精神であると言い換えられますね。
その霊が水のおもてをおおっていた、と云う。これは、生命の源は水であるとの“思い”があったからではないでしょうか。
やみに対する霊、と云った感じも多少覚えます。

1:3に付いて。
台地が創造される前にすでに存在していた神は、自身が創造したこの台地に光を出現させて、神に“ちから”のある事を示しているように思えます。

1:4に付いて。
光を良しとしたのは、神の思いに適ったからでしょう。光=命(生命力)、と云った感じです。でもやみが混じっていて光もくすんでいたので、それで光とやみを分けたくなったんですね。どうやら、光よりもやみの方が先に“存在”していたらしい。なるほど!

1:5に付いて。
これを見ると、今までのやみと光は昼と夜のことだったの?なんて思いますね。
そんなことないでしょう!
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 創世記 1:1
要するに、天と地を創る神が既に居たんですね。
☆ そういうふうに――そして 絶対性が絶対者として擬人化されていますから
―― 物語として述べられているのだと思います。


★ 1:2
・・・やみが淵の表面を覆い、神の霊が水の表面をおおっていたという事が分か
った、と云う事は多分ご自分が作った大地だからだと思います。
☆ まぁ どうなんですかね。天邪鬼ぶりを発揮するなら 神の霊は遍在してい
ます。いつ・どこにでも。



★ やみが既にあったという事です。光より前に??。
☆ いえ それは違います。
▲ 1:3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
☆ そのあとに 闇も出来たのではないかと。光がさえぎられた場所に。


★ 神の霊と云う言葉です。これは神は霊であると云っていることになりません
か?。
☆ なりますよ。《息・風》を意味するルーアハと言います。

★ であるならば、神は精神であると言い換えられますね。
☆ いつも言いますが その場合の《精神》は 人間の心という意味での精神と
は別です。

ヘーゲルが 《世界精神》と言ったので 神の霊性を精神と平気で言っています。
それは 《 Geist = 英語の ghost 》という言葉です。


★ その霊が水のおもてをおおっていた、と云う。これは、生命の源は水である
との“思い”があったからではないでしょうか。
やみに対する霊、と云った感じも多少覚えます。
☆ これについては いくつかの――ふさわしい――解釈が可能でしょう。



★ 1:3
大地が創造される前にすでに存在していた神は、自身が創造したこの大地に光を
出現させて、神に“ちから”のある事を示しているように思えます。
☆ あるいは 宇宙の成り立ちを できるかぎりで物語として表現しようとして
います。



★ 1:4
光を良しとしたのは、神の思いに適ったからでしょう。光=命(生命力)、と云っ
た感じです。
☆ そうですか。

つづく

お礼日時:2020/01/02 18:07

つまり、善も悪も、二人の風景の、あのときに、エヴァが、行動として選択できることになっていた。

悪の起源は自由の起源と共に始まりだったのですね。
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この回答へのお礼

いやあ まだ自信がありません。――ご回答をありがとうございます。


自由意志とよばれることになる人間の意志。

その自由には 考えられる限りの自由度があり 何かよくないと思われて
胸がはげしく打っているとき それでも好奇心からか欲望にさそわれてか
その心の反応にさからってでも 行動を起こした。

それが あとから思えば ウソをえらぶ悪の始まりだったんだろうかと。


光も 陰のところへ食い込んでいきますからね。

ってまだ分かりません。

お礼日時:2020/01/02 17:46

ブラジェさんのおっしゃってるのは、倫理の領域の「あるべきでない姿=悪」のことを仰ってるのですか。

いわゆる法で罰する領域のものでなく、個人の判断の「あるべき姿=善」「あるべきでない姿=悪」という、自身に向ける倫理=指針のことなのでしょうか?その観点から見れば、木の実を食べる食べないの行為は、その選択肢を、神から委ねられていたのでしょうか。その物語は、倫理の教えだったのでしょうか?
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この回答へのお礼

悪の起源は どこにあるか? です。――ご回答をありがとうござい
ます。


法律に対する違反という行為が 人類にとって最初の悪だということ
でしたら そういう見解になります。


創世記の話は なかなか決まりません。わたしには 《悪の起源》論
としてまだはっきりしません。


もっとも 次のようにおおざっぱな解釈をしたことはあります。

〇 ~~~~~
エワは 光が影のところで直進するだけではなく曲がって入っている
(回析している)ことを発見して このあたかも光の曲がりを真似て 
夫アダムとのやり取りにおいて 自分(エワ)の心に逆らって応答し
た。ウソをついた。

以前は アダムのつくる料理に対して おいしいならおいしいと ま
づいならまづいとそのまま言っていた。このたびは 少々まづくても
おいしいわと言って ウソをついた。

ウソをつくときには ヤマシサを感じた。つまりやましくない場合と
やましいと感じる場合との違いを知った。
ゆえに 《善と悪とを知った》!?!?

――そういう自由意志の自由度の問題だと思われた。善だけではなく
悪をもおこなう自由度。
~~~~~
☆ これでいいだろうか? です。

お礼日時:2020/01/02 14:24

契約約束法を破って良いというと、始めから、他者との共生は、意味をなさいですね。

そもそも他者と共生するのは、分業協業して生存可能性を向上させるためですから。契約約束法を守ることを前提とすることで、共生分業協業生存可能性の向上ひいては社会の持続可能性が可能になるのだと思います。聖書の、神との取り決めは、このような生存の哲学を、寓話的に=喩え話=アレゴリー、として伝えてくれているのだと私は理解しています。
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この回答へのお礼

★ 契約約束法を破って良いというと、始めから、他者との共生は、意味を
なさいですね。
☆ いえ。悪の起源を 約束違反ということに置くと あとの・悪への対応
の仕方がひとつのパタンに決まってくるのではないか? という問題です。

そのまま法律を制定し違反には罰をあたえるといった共同自治のあり方がそ
ままにさだまってきます。

言いかえると 法律による安寧秩序の保障という手段は――たとえば哲学と
しての人間理論とそれの応用といった手法などの――基本の倫理制度をおぎ
なうものなのではないか? という見方があります。

その意味で 悪の起こりは どうだったのか? が主題になると思います。


★ そもそも他者と共生するのは、分業協業して生存可能性を向上させるた
めですから。
☆ つまり その段階では まだ悪は起きていなかったのか? という問い
になるかと。

社会的共存を図るという段階で やっと人間のおこなう悪が 約束の違反と
いうかたちで始まったのか です。


★ 契約約束法を守ることを前提とすることで、共生分業協業生存可能性の
向上ひいては社会の持続可能性が可能になるのだと思います。
☆ むろんそうですが やはり悪の起源はどうなのか です。

つまり 法による共同自治なる方式は 秩序維持のための補助手段であるの
ではないか? という問いをどこかに持っています。



★ 聖書の、神との取り決めは、このような生存の哲学を、寓話的に=喩え
話=アレゴリー、として伝えてくれているのだと私は理解しています。
☆ この善悪を知る木の木の実の話は そのように解釈されると思います。
一般には。


《起源》論として 突っ込む問い求めの余地は もうないでしょうか?




☆ たとえば ひとは ややもすると――心がふと曲がるゆえ―― ウソを
つく。だから たとえウソをつくことが現われたとしても 補償ないし賠償
をも取り決めておいて社会として互いの信義の原則を守る(守らせる)よう
に法律を制定した。

――というふうに考えられますまいか? 考えられ得るとすれば 悪の起源
は――この場合 ウソをつくことであり―― 約束違反よりふるいというこ
とになります。

お礼日時:2020/01/02 13:29

木の実を採って食べてはいけない、という神との契約を「満たさすこと=欠かすこと」こそ、悪なのではないでしょうか。

契約=約束=法を満たさないこと、欠かすこと=破ることは、共同体の秩序をみだし、引いては共同体の混乱破滅の要因、持続可能性不可能の要因となりうるからです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


(1) 《善と悪とを知る木の》木の実を採って食べてはいけない というのは
神との契約だった・・・のですね?

(2) 現代からすれば 良心の言葉として何らかのヒラメキがあった・・・と
いうようなことでしょうか?

(3) でも 単なる《木》でありその実ですよね? 《善悪を知る木》なんて
ありません。それとも 何か特定の木として 説明できるものがあるのでしょう
か?

(4) (2)は あるいは共同体での人びとの取り決め(掟・法律)のことな
のでしょうか?



(5) でもですね――としつこく訊きますが―― 実践上の問題としては 悪
の起こりよりも 実際に起きている悪に対する共同自治を どうするか? だと
も思えます。

(6) つまり 実践上の問題に反映するような《悪の起こり》についての説明
あるいは理論があると 分かりやすいと思われます。なぜなら それによって対
処の仕方が 決まってくるでしょうから。


(7) 神との約束あるいは人びとの互いの取り決め これらを破ってはいけな
いという対応の仕方は イタチごっこで永遠につづきますまいか? というのも
《決まりを破ること》が 悪の起こりだという理論であるならば です。

(8) 法とその違反といった視座のみによるならば 中国共産党による監視社
会なる政策も 秩序のためには 一理あるといった評価にすらなるのでは?



☆ その意味でも 悪の起源についての理論ないし哲学としての問い求めは 大
きな意味を持つものと考えています。

お礼日時:2020/01/02 10:37

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