あなたは何にトキメキますか?

鎖国について。

日本が鎖国鎖国をした理由には①宗教上の理由、②貿易上の理由、③大名統制上の理由があるそうですが②③の理由が分かりません。その理由とはなんですか?

A 回答 (4件)

大人世代が習った歴史が近年いろいろ書き換えられています。

 聖徳太子が厩戸皇子になったり、聖徳太子の存在自体に疑問符がつけられたり、鎌倉幕府が作られた都市が1192年(いいくにつくろう)ではなく、1185年(いいはこつくろう)に変わったり、日本最古の貨幣が和同開珎でなく富本銭になったりしています。 江戸時代の鎖国についても同様です。 確かに、かつての教科書には、「江戸時代の日本は鎖国していた」と明快に書かれていました。 「貿易は長崎の出島のみを通じ、清とオランダだけに制限していた」「江戸時代の日本人は世界の情勢に暗く、それがペリーの来航によって慌てふためいた挙げ句、何とか幕末維新を成し遂げた」という解説が常でした。
しかし、最近ではこうした説には大きな修正が加えられています。 長崎を通じて日本の金や銀が大量流出し、それ以前の「資源大国・日本」ではなくなったほどです。 江戸の銀相場が、スウェーデンの市場をも動かすほどでした。 経済に関しては、グローバル化に巻き込まれていた部分もありました。 逆に江戸後半、8代将軍吉宗の頃からは西洋の文物も流入し、知識人たちは海外事情をかなりの程度、理解していました。
近年、こうした状態を「鎖国」と呼ぶのは適切なのかと言う疑問が起こったのです。 もちろん、幕府が主導した貿易統制はあったので、近代のように国を完全に開いていたわけではありません。 そこで最近の教科書では、カギカッコをつけて「鎖国」と表記したり、「いわゆる鎖国」「鎖国と呼ばれる状態」という表現にしていたりします。 あるいは2014年度用の山川出版社「新日本史B」のように、鎖国という用語そのものを用いず、「江戸時代は国を閉ざしたのではなく、唯一の開港地長崎に渡来を特許したオランダ・中国商人と貿易し、(中略)東アジアの諸国・諸民族とのあいだに、自国を中心とした通交・貿易体制を築いていた」と記述する例もあります。
なお、清・オランダと貿易していた長崎の他に、対馬(朝鮮)、薩摩(琉球)、松前(アイヌ)を合わせ、「四つの口」と表記するのが通例です。
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幕府が貿易を独占するためです。

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宗教上の理由は、キリスト教の信仰が日本に入り込むと、幕府の支配力が弱まることを懸念したからです。

後に「天草四郎の乱」が起きました。しかし、西洋の新しい文物が貿易を通じて入ってくるのはいいことだし、その代わりに日本の生産物が輸出されるのもありがたいことです。この二つの間で選択を迫られた幕府は、旧教(カトリック)系の厳しい戒律を持つ、ポルトガル人などを国外に追放し、オランダなどの新教の国だけを相手に選び、長崎の「出島」など住まわせて、貿易をしました。しかし、この貿易によって各大名などが武器を輸入して経済力・兵力を増大させるのを警戒し禁止しました。特に既に入ってきていた鉄砲が大問題だったのです。
 結果的には西国の大名は、脱藩者に名を借りた浪士が武器の輸入などに携わり、幕府を倒す勢力を築きつつあったのです。薩摩・長州・土佐などの藩がその中心でした。
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百害あって一利なし、とにかく欲とプライドだけが異常に強い民族なので関わる事は自ら厄災を招く自殺行為だったのです。

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