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篤姫を毎週楽しみで見ています。
豪華絢爛な衣装も舞台を盛り上げてくれます。
しかし、実際のところ、末期の大奥はどんな状態なのでしょう。
末期幕府は経済的にも窮乏し、お城の修復費もないので
雨漏りや壊れ壁がそのままにされていた、とも聞きます。
そこで経済力豊かな薩摩からの興しいれがあったのでしょうね。
篤姫様のご入城は豪華絢爛な行列であったとも聞きます。
テレビにあるような江戸城の装備にしてもお金持ちの
篤姫様身の回りは納得できるが、それ以外の世界はかなり
古びれたものだったと推測します。

A 回答 (6件)

ogchanさんの推測に近いのではと思います。


平均、国家予算の25%が大奥に費やされていました。
しかし、米本位制は今や古び。幕府はあの手この手で各大名から貸し倒れ金を作られる。 薩摩などは極貧と言いながらも密貿易で裏金たっぷり。
今様の特殊法人ですね。
で、篤姫のお付きの給料を幕府に要求すると「しっかりしている事」と嫌みを言われたりしてますね。
京都特注の家具、衣装は大奥の羨望の的だったでしょう。
 で、次の和宮の時は経費がすべて幕府持ちであったため30%以上にはねあがります。食うに事欠いていた天皇、姉宮の生活費まで幕府が出す条件でしたから。
天守閣の再建をしなかったのも、「天下泰平だから要らない」と言う表向きの理由より、 金銭面でのショートだと言われています。
天守閣跡地に立つととっても狭いです。
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幕末の幕府財政は破綻していましたが、年貢収入は順調といえないまでも一応確保されるので、通常予算は自転車運転でも確保出来たわけです。



この状態は各藩とも同様で、借金を御用商人や家臣から減封、借り上げなどあの手この手でやりくりして通常予算は運営していたのです。

海外貿易や密貿易による資金調達は特定の藩しかできませんでした。

従って特別行事や軍事予算はやりくりせざるを得なかったのです。
例えば江戸城の畳替えなども毎年や行事毎に実施していたものを延長したりして凌いでいました。

つまり借金して自転車操業していたのです。
節約も大奥の反対で思うに任せぬ状態でした。
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財政破綻状態にあった江戸幕府ですが、その資金繰りは大奥に最優先でまわされます。

というのも大奥の経費というのは、将軍さまの生活費となるわけで、家臣が削るには恐れ多いとなるわけです。なかには水戸候のように大奥の経費節減を訴えるものもいましたが、基本的に吉宗のように将軍自ら経費節減をしない限り、贅沢は続いたといえると思います。

ただ大奥の女性にとって、手に入るものは江戸の御用商人から仕入れられるもの、文化の中心地である京よりの品は羨望の的となったことと思われます。
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幕末の幕府の財政は火の車のイメージがありますが、イギリスが起こしたアヘン戦争など、その後の太平天国の乱で中国やアジア市場の混乱の中、安定していたのは日本市場ですからうまく立ち回っていた感じですね。


アジア情勢の混乱による特需で幕府財政は持ち直しております。
対外貿易で財政再建にシフトしたのが今も昔も評価が低い田沼でしたからスルーされてしまうとか。
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推測です。


篤姫は後世、質素に暮らしたようですね。

周りを見ての反動のように思います。

大奥は着飾った世界でしょうね。

懐事情まで気が回らないと思いますし、権力闘争で気が回らなかったのだと思います。
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19世紀初頭の薩摩藩は500万両(現代に直すと50億円)の債務超過ですが・・・


これを150年ローンで踏み倒し…ではなくローン返済に恫喝して実現しました。更に生麦事件での賠償金も幕府から数十年ローンで借りて踏み倒しました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
債務超過であろうと薩摩藩は現実的にはキャッシュフローが
あったのです。経済力と借金体制は関係ないことは現代の
企業でも同じことです。
わたしの質問は幕府末期江戸城の実情です。
きらびやかなのか質素なのか、ということです。
質問の仕方が悪くてすみません。
そのあたりお分かりなら教えてください。

お礼日時:2008/06/20 15:44

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