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たたき台は つぎのようです。
 
1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。ウソ・イツ
ハリのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 動悸
を速め 時に顔を赤らめます。

2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方がある
はずです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲
がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。

3. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のもの
から独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していく
につれ現われるに過ぎない。という考えです。

4. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・またこの
善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことを
も 悪と呼ぶ。
  
5. 悪は 存在しない。その名で――善の関数なるものとして――
呼ぶ現象があるのみ。

A 回答 (8件)

善より悪のほうが定義しやすい



善は存在しない、、、
悪が欠落しているだけ
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この回答へのお礼

そのときの:
★ 悪
☆ とはどういうことになりますか? 定義ですが。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2020/06/29 09:16

悪とは、


「自己中心性によって起こされる人間の価値の棄損」
とでもしますか。

乳児は、悪の根源ってことになりますけど、、、
心は人間にもともと備わっている物でしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 悪とは、
「自己中心性によって起こされる人間の価値の棄損」
とでもしますか。
☆ ありがとうございます。

そうですね。

人間は大抵 自分たちの種・つまりヒトたることを中心として
=つまりは ものごとを判断するための物指しとして 世界を
認識し行動を起こすと見ます。

ですが 要するに 自分の欲望や主観に故意に必要以上に片寄
るといった意味でしょうか。ここでの自己中心性は。


もしそれでよいとしますと この感性の要求するものだとか理
性の考え求めたことだとかに関して やはりへそ曲がりといっ
た心のねじれや捻(ひね)くれの問題が 出て来ます。

主観に ヘソの曲がりが顕著に現われるかどうか。

つまり ヘソの曲げられていない〔おそらく〕自然本性の状態
から逸れる動きを 悪と定義しておられることになる。

同じことになりませんか?



★ 乳児は、悪の根源ってことになりますけど、、、
☆ この点ではわたしの場合は ものごころの着く前の幼児ら
にかんしては ひとえに――或る種の仕方で意志が中性にある
と見るかたちで―― 《あまえている》と見ます。

わがまま状態ではあるのですが それは むしろ相手に手放し
で底抜けに一方的に寄りかかって行っているのだと。

自己保存〔という善〕のためにでしょうか。




★ 心は人間にもともと備わっている物でしょうか?
☆ これは むつかしい問題ですよね。

最近でも:
【Q:こころは 果たして存在するか】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11651679.html
☆ で問いましたが 暫定的な答えしか出ていません。

環境事実――たとえば人の死という事態――を捉えた感性とし
ての表現事実――たとえば かなしい(そしてこれは 何とも
しかねるという意味。つまり 《かねる》と《かなしい》とが
同一の言葉――しか 見当たらないんですよね。

だから こころとは 身なる感性と超経験なる霊性とがあたか
もぶつかって何らかの反応を起こしたもの(こと)を言うのだ
ろうか? と考えました。


むつかしいですね。

お礼日時:2020/06/29 10:00

悪というのは自然の事


完全なる自由が、社会にとっては悪なのです
何をしようが自由
弱肉強食以外ない
これでは社会が維持できません
つまり自然イコール悪
逆に社会を維持するためこの悪を駆逐しようとする思考を善と呼びます
善は後から出来たご都合の概念
悪は自然だから最初からあった
社会を維持するために不都合だから悪いイメージを植え付けて回っているだけの事
自然なのです
悪が自然
自由です自由
何をしようが自由
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 悪というのは自然の事
☆ 《人は人に対して狼だ》や《万人の万人に対するたたかい》と
いった自然状態観でしょうか。


★ 完全なる自由が、社会にとっては悪なのです
☆ それは 《自由》の別の概念ですね。一般に《自己表現の自由》
と言えば その行動に答責性を持つことを前提とした場合の自由で
す。


★ 何をしようが自由
弱肉強食以外ない
☆ 自由放恣といった概念ですね。責任などは問わない。


★ これでは社会が維持できません
☆ そりゃあそうです。


★ つまり自然イコール悪
☆ これまでの趣旨からは ふつうはそうなります。

でも そのような放恣自由なる自然状態から出発するときには ひょ
っとすると その自然淘汰の状態こそが よろしいと言う説も出て来
るかも知れません。(ちょっとした お遊びですが)。


★ 逆に社会を維持するためこの悪を駆逐しようとする思考を善と呼
びます
☆ つまり わたしが前項で言いたかったことは これらの善と悪と
を入れ替えてもおもしろい。ということです。


★ 善は後から出来たご都合の概念
☆ あっ。これは まだ納得いきません。なぜなら あとから出来た
にしろ そういう思考や意志や心が元からあったのではありませんか?

善はいっさい無かった自然状態の中から その自然状態のひどさに嫌
気がさして悪をおさえる善が 芽生えたということですか?

もしそうだとしても それは 悪と善とを入れ替えてもよい理論では
ないですか? という反論の問いを繰り返します。



★ ~~~
悪は自然だから最初からあった
社会を維持するために不都合だから悪いイメージを植え付けて回って
いるだけの事
自然なのです
悪が自然
自由です自由
何をしようが自由
~~~
☆ つまり その《自由》こそが 言うとすれば《善》なのではない
のですか?

社会を維持するために不都合なことが 善。これを制御するのは 悪
だと。
自然は 善だと言いたい向きもあると思いますよ。

お礼日時:2020/06/29 10:20

あ、今回は5項目で比較的スッキリしてますね(笑)



人間が社会的動物として人間関係や社会が成立する上で「非道徳的」「反社会的」な行いが悪(あるいはキリスト教的な考え方では罪、その心根が悪?)ということだと思います。

善と悪が対義的な定義であるなら、他の回答者かんが延べてるように「善を減らすことが悪」なら「悪を減らすことが善」もまた真なりと言えるのでは?


単に「性善説」か「性悪説」かの議論になると思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ あ、今回は5項目で比較的スッキリしてますね(笑)
☆ よろこんでもらえて よかったかも。



★ 人間が社会的動物として人間関係や社会が成立する上で「非
道徳的」「反社会的」な行いが悪( あるいはキリスト教的な考え
方では罪、その心根が悪?)ということだと思います。
☆ №3のように 社会が維持できない・つまりよい社会が成り
立たないという自然状態こそが 悪または善であり それに対し
て反対の行動をおこなうのが 善または悪だという仮説であって
も おもしろいのでは?


★ 罪
☆ だって ざっくばらんに言えば 《恥ぢ》の問題であり得る
とは思っています。(論証抜きになりますが 直観としてでも)。



★ 善と悪が対義的な定義であるなら、他の回答者かんが延べて
るように「善を減らすことが悪」なら「悪を減らすことが善」も
また真なりと言えるのでは?
☆ これについては まだ説明していませんが 《悪を減らすこ
と》は――それが善であるとしてもいいのですが―― 一般に人
間がおのれ一人のチカラと努力とでは むつかしい。と思います。

自然治癒と言っておきます。



★ 単に「性善説」か「性悪説」かの議論になると思います。
☆ ところが 細かいところになると 孟子の性善説というのは
かなり別の筋から発想しているようです。悪は 人間の外にある
とかどうとか。(不案内のままになりますが)。



お礼欄が 二千字制限というのは かなり残酷です。

お礼日時:2020/06/29 10:31

遵法という観点がぬけていませんか?

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この回答へのお礼

あぁ 道徳的あるいは倫理学的なんですね。

――ご回答をありがとうございます。

ここでの観点ないしむしろ発想のあり方をのべます。――問い求め
の仕方が 規範や学問の手法とは別だということになります。優劣
をくだす以前の事情として説明します。


6. ここでの善悪論は あくまで実践論である。少々理論の不備
があっても 実践に役立つことを旨とする。

7. 主観を基礎とし理論としてもそこから出発するかたちを取っ
ています。そしてそれは 必ずしも《心理》の問題を重んじて扱う
ことではありません。そうではなく 言うなれば むしろ《生理》
です。

8. 広く生理として人には 《顔を赤らめる・動悸がはげしくな
る・言葉がしどろもどろになる》といった反応があります。ここに
少しく《心理ないし倫理》を含めて そのとき《やましさ・うしろ
めたさ》をも感じると見られる。とすると それはおおむね《うそ・
いつはり》という自己表現にかかわっているはずだという見方をす
る。

9. 《やましさ》でこれらの生理的心理的反応を代表させるなら 
この疾しさを持つということは 《しかるべき心の状態・また立ち
帰るべき心の状態》から背き離れる心のウゴキである。と見る。

10. 《しかるべき心の状態〔とおのれが心で思っているそれ〕》
を《善》とよぶべき自然本性のあり方と規定する。したがって こ
の善に背き離れる動きは 負の善であり ひとことで《悪》と呼ぶ。

11. このような定義から 次の命題をみちびく。
( a ) 悪は存在しない。

( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。

( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損
傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。


☆ これらの基礎的な定義のあと 倫理学や法律論が展開されるもの
と見ます。

お礼日時:2020/06/29 10:50

コスト子のレッド吉田で気になったのですが、


吉田神道というのは新党とはいえ民族的には日本系以外の
民族による新党なのでしょうか大菩薩峠とか

転びバテレンと日本人の混血だとか
混血というのは差別的な感じもしますが

満月から新月へと掛けていくのでしょうか。

眠り教師牢はろうdとっくい
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悪、善のある/なしは、物質、3次元体への誤った定義ですね。

悪、善はある/なしではなく、人物の振る舞い、物事への「価値評価尺度」ですね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 悪、善は・・・人物の振る舞い、物事への「価値評価尺度」です
ね。
☆ 物指しです。ただし その際 善と悪とは どういう関係にあり
互いにどんな異同がああるか。

★ 悪、善のある/なしは、物質、3次元体への誤った定義ですね。
☆ たぶん これこれのモノが(または 一定のコトが)善であると
か 悪であるという性質のものではないと。


★ 悪、善はある/なしではなく、人物の振る舞い、物事への「価値
評価尺度」ですね。
☆ で この尺度は それぞれどういうふうに決まっているのか?

善も 悪と同じように その現象を呼ぶに過ぎないと言えるかも知れ
ないのですが やましさ反応が起きて そのウソは実行に移さないほ
うがよいと言っているとしたら 《ウソをつかないこと》は 善だと
規定し得ます。

ウソ〔をつくこと〕は いま悪ですが それは 《ウソから自由な心
の状態にあること》を善とすれば この善に背くことだと規定できま
す。負の善 あるいは 善の欠け・損傷といったふうに。

そういう意味で 善は 起点と成り得ます。生まれて来た自然本性と
して規定できます。善の維持は 善であり 善の損傷は 負の善であ
りこれを悪と呼ぶと。


悪は 自然本性なる善を傷つけるおのれの自由意志の――へんな――
自由度として現象しているが 善が起点となったりするようには 存
在していない。

というような感じで論じています。

お礼日時:2020/07/01 13:04

その時代、その地域、その習慣慣習、その利益関係人間関係、世間、社会、家庭、友情、状況文脈それぞれの項目における「あるべき姿」「あらぬべき姿」のアンサンブルで、善悪は価値付けられると考えます。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 「あるべき姿」「あらぬべき姿」のアンサンブルで、善悪は
価値付けられると考えます。
☆ たとえば 《われも生きる。なれも生きる。また かれも生
きる》といった《あるべき姿》が考えられます。

これを善だとすると この姿に悖ることは 善の欠けであり悪で
あると。


――というふうに受け留めます。

お礼日時:2020/07/01 17:13

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