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しない善よりする偽善という発言もありますが、大体偽善って悪く言われる気がします。
何故でしょうか。
自分の心が綺麗だと思い込んでいる?
自分の名誉のために人を利用している?
綺麗なことは綺麗な心でしなければならない?
それとも、全ての人は綺麗な心を持たなければならない?
??

でもここでまた一つ疑問。
心は個人の力ではどうにかするのはかなり難しいと思うけど、じゃあ「偽善者」は一体どうしたら良いのでしょうか。
そういう意見はあまり見かけません。
頭で分かっていても何もするな?
やり方が売名的で、そのやり方を変えろ?(チャリティーイベントについてなら、こういう発言は見たことあります)

以上、些細なヒントでも下さるとうれしいです。

A 回答 (39件中1~10件)

偽善は確かに悪ですが、なぜ悪かといわれたら、


それは裏切りがあるからでしょうね。
全に見せかけた裏切りは最大級の悪といっても
いいでしょう。
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この回答へのお礼

お答えありがとうございます。
人への偽りという事ですね。
想いが込められていると思った、心のキレイな人だと思った、でも違う・・・と。
うーん。ならば偽善ですよ、買い被らないでねと言って行動するしかないかな。

お礼日時:2008/09/12 02:55

 はじめまして。


 人に何かをしてあげたのに、その人が喜ばなかったとき、偽善かそうでないかの違いがわかります。
 「せっかくしてあげたのに、もっと喜ぶべきだ」「感謝すべきだ」と思うのだとすいれば、それは偽善です。
 「ためを思ってしたけれど、喜ばれなくて残念だ」「力不足でさびしい」と感じるのなら、本物です。
 この二つを比較して気付くのは、偽善は(あなたは)が主語で、本物は(わたしは)が主語だということです。そう、本物は自分の中の“してあげたい”という欲求に忠実で、それにしたがって行動したまでだという自覚があるのです。一般的には良い響きではない「自己満足」と言う部分に意識が向けられています。それに対して偽善のほうは、「自己満足」ではいけないと思うあまり、相手の心情に意識が向けられています。だから、『もっと感謝してくれてもいいのに』と、つい思ってしまうのです。今一度、行動の発端となった“してあげたい”という自身の欲求に目を向ければ、『お気に召さなくて残念です』とか『お役に立てなくて残念です』という大人びた言葉が出ると思います。
 では何故、“してあげたい”と思うのでしょう。私たちには、自分のことを「価値ある存在」だと思いたい、という“自己重要感”に対する欲求が常に存在します。手のかかる子どもは、親にとっては自分を「価値ある存在」と思わせてくれるものに違いありません。この無意識の欲求があるからこそ、人は子育てする気になるのでしょうね。また、人類の進歩も、この無意識の欲求による浮力に支えられていると思います。
 自らのこの無意識の欲求に気付くかどうか、類推力の問題でしょうね。誰だってエゴがあります。そのエゴを無いかのように思う点が矛盾を生みます。親が子を育てるのもエゴです。「無償の愛」など、もともと存在しないのです。ただ、自己完結(つまり自己満足)しているので、見返りを必要としないまでです。喜んでくれるだろうと、その笑顔を想像するだけでじゅうぶん満足なのです。

参考URL:http://www.h5.dion.ne.jp/~takata/06/1.html
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
したいからするを大事にする。自分の中のエゴに目を向ける。
出来なければ、他人に依存する「他者中心的」となり、喜ぶべきだ感謝すべきだという人間になってしまう。
参考URLにあるように、よい意味での自己中心的になれ、ですね。

お礼日時:2008/10/03 19:23

#31です。



>なぜ善行にそこまで求めてしまうのか。
:一人ひとりにとっての善というものが多様だからかもしれませんね。
偽善的な行為によってでも、結果的に救われる人も多いわけですし、それはそれで善ではないと完全に言い切ることも難しいでしょう。
ただ、善の本質は、他者の問題をどこまで自分の問題として思慮できるか、という点だと思います。
偽善の場合、この視点がおそらく抜け落ちていそうな気がします。
相手を対等の存在として見ているか否か、という視点、と言ってもよいかもしれません。

蛇足ながら、この場における「自分のため」の最たるものは、「他人のために善を成していることを強調すること」です。
それを「はしゃぎすぎないこと」と表現しました。
 
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
やはり多様だからですか。
他者の問題をどこまで自分の問題として思慮できるか、親身さですね。
そうするとここは想像力でしょうか。頭の中で相手を自分に置き換えてみたり。

ちなみに。善行にそこまで求めてしまうのは何故かで私が可能性というか要素の一つとして考えたのは、善悪に関わらず実際の言動において心をどう捉えるかの違いです。
「思ってしまった」なのか「思っただけに過ぎない」なのか。
31で挙げられている視点とは異なりますが。

はしゃぎすぎないことはつまり、自己満足的感情を見せびらかさないってことですね。

お礼日時:2008/10/03 02:03

これまでの回答者の方々も言っておられるとおり、偽善は本当の善行の第一歩なので、「しない善よりする偽善」なのだと思います。


けれど質問者様が感じておられる悪のイメージの偽善は、善を装った詐欺行為のことで、そういうのとは違うんじゃないかと。だから混乱しておられるのではないでしょうか。チャリティを利用して詐欺行為をする人は、偽善でもいいから善をしたい人たちを悪用している悪人で、最初から偽善から善の一歩を踏み出すつもりなんかないでしょう。そういう人にダマされている人たちは悪に加担しているだけなので、それはダメでしょう。
そこが大きな勘違いだと思うのですが・・・。

本質的な善を知るすべのない環境にいて、流されて悪を行っていたとしても、善を行いたいという心があって、機会があってその一歩を踏み出したとしたら、それが本当の善に程遠くたって真っ直ぐに善に向いていればその人の心はキレイでしょう。
マグダラのマリアなどはそういう人だと思います。ブッダの弟子にも確かそういう人がいたと思いますが。
宗教や哲学にはあまり詳しくない者の意見で失礼しました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。偽善から善へという話が多いですね。
確かに私がイメージする悪い偽善というのは善を装った詐欺行為です。
(心がどうこうではなく、騙すという言動への反対というか)
その考えだと。
善の一歩を踏み出すつもりがないのは悪。
善の一歩を踏み出すつもりがある人は偽善者でも悪じゃない。
誤善は悪。でも心はキレイ。
と言う事ですね。

お礼日時:2008/10/03 01:22

>やり方が売名的で、そのやり方を変えろ?(チャリティーイベントについてなら、こういう発言は見たことあります。



表面上はチャリティーだからと参加していても、心の中は名前が売れるから、、、と裏腹な心の持ち主と言う事でしょう。
ま、外面が良いのと似ているかもしれません。
本当に心が綺麗な人はそんな事は思わないでしょうね。

募金泥棒と同じかなと私は思います。
恵まれない人に募金を・・・と街頭で活動していて、実は自分の私腹を肥やすのと一緒です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
確かに募金泥棒のような悪用は許せませんね。
裏腹な心の持ち主かあ。
そうなると「ただ思っただけ」では済まないということですね。
前に、自然な心でないから悪く言われるのではないかという説が出ましたが。
うーむ。厳しく感じます。心はどう捉えるべきか。

お礼日時:2008/10/01 13:23

善、悪、偽善


こういったものは辞書や常識で定義されていても
主観と客観で見方が変わると思います。

本人が善であると思っていても、
他人から見て偽善だったり悪だったりすることもあるでしょう。

本人が悪であると思っていても
他人から見て善だったりすることもあるでしょうし、

本人が偽善だと思っていても
他人から見て善であることも少なくないでしょう。

自分が善であるかどうか主観で考える場合には
論理的に、整理すれば分かるのではないでしょうか。

そもそも、善、悪、偽善というのは、非論理的で
あいまいな定義が氾濫していると思います。

なので、論理的に考える際には、紙を使い
自分で、善、悪、偽善とは何であるかを定義し
答えを導けばよいのではないかと思います。
(答えを導く際、主観的、客観的、共通部分で分けて考え無ければならないでしょう)

私がそれを追求して答えを出したとしても
それは他の人とは違う答えになるでしょうから
自分で考えるしかないでしょう。

私もチャリティなどは、ほとんど偽善に見えます。
しかしそれは、情報を集めたわけでもないし真実を知らない
とくに信頼もしていないからで、チャリティなどを
運営している側の収支を知っているわけでもありませんし
勝手に、こういうもんだろうと、見たり聞いたり
した話から判断しているに過ぎません。

運営が情報を公開したり、実際にそれに参加して信頼するように
なったところで、それを素直に受け止める人もいれば
何か隠しているだろうと思う人もいるでしょうから
結局のところ、見る人によって、善なのか偽善なのかは
変わるわけですから、大事なのは、本人の気持ちでしょう。

仮に最初から偽善者だと自分で思っているのであれば
別に問題ないのでは。
偽善者として偽善的な活動を行えばよいだけのことで。

善になりたい(そのように客観的に見られたい)のであれば
偽善と見られる可能性のある行為についての誤解をといたり
そもそも偽善的ならば、その行為をやめていけばよい
だけだと思います。

というのが私個人の考えです。
参考になれば幸いです。
以上です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
なるほど。整理ですね。
ここでは善、悪、偽善の定義はせずに回答する方に任せています。
今の私が定義すると、
【善】最大多数の最大幸福に近づく力になるもの
【悪】善に逆らうもの
【偽善】本心からでない善。悪事の隠蔽を図るものや、自己の利益をやたら追求するものなら悪の一つ。

共通となると、偽善の部分があやふやになるなあ。本心からでないところが共通かな。
これが人と一致しても、モノの見方がそれぞれである以上どう分類されるか分かりませんね。何であれ、必ずしも人から良く思われるとは限らないのは間違いないし。
偽善者としての自覚があればOKですか。

お礼日時:2008/10/01 13:08

私が思うに、偽善というのは初学者の下手なピアノです。



ピアノに慣れないうちは、指も巧く動きませんし、一音一音意識してやらないと進みません。傍から見れば、これみよがしで、音色も調べも聞くに堪えないでしょう。
この部分だけとれば、誰でも不愉快に感じ批判したくなりますし、その批判はほとんど当たっているでしょう。
本人も歯がゆかったり恥ずかしかったりするでしょう。
しかし毎日繰り返しやっていると、段々と上達し、やがて意識しなくても身体が勝手に動くようになります。
他人が見てもその行為がいとも簡単に見え、音色も調べも心地よくごく自然に受け入れられるようになります。

結局偽善というのは、善の訓練の一場面ということではないでしょうか。他の全ての訓練と同じように、才能の多少もあるし、一定以上に達するまでに止めてしまえば無駄になってしまうし、練習を怠れば腕は鈍る、ただ一度掴んだコツはなかなか忘れない、そのようなものだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
良い例えだと思います。一言で分かりました。
ここまででも、偽善も善になる、心は使えば成長するという論が出ています。
ANo.16のお礼欄に、綺麗な心を求めるのは無理ではないかと思ったと書きましたが、そう思っているので、ここは意外な発見です。
多くの人からすれば私こそが非理性的と言えるのかな。
ちなみに私は人を祝う気持ちがなかなか出てこない人間ですが、ここがどうしても改善できません。
ここは運が悪かっただけなんだと思い、恥じてはいません。

お礼日時:2008/09/26 07:44

 こんにちは。

題名にひかれてついついみに来てしまったんですが、色んな見方があって非常に参考にさせてもらっています。チャリティーの現場の方々が、こういう命題をどういう風に乗り越えてらっしゃるのかは私も興味があります。
 前置きが長くなりましてすみません。「心は個人の力ではどうにかするのはかなり難しいと思うけど、じゃあ「偽善者」は一体どうしたら良いのでしょうか」に対する私の意見としては、「自分の自由意志で決めたことならやり遂げるべき」と考えます。要は、「別に偽善行為だからって特に「日常行為」となんら変わることは無い」ということです。
 質問者さんと同じく、私も偽善は心の問題と捉えている人間ですが、ゆえに同じ行為(=ある「偽善」行為を)を「善」ととるか「偽善」ととるかも心の問題と考えています。まぁ、ぶっちゃけた話が「偽善って言いたい奴には言わせとけ」って事です。前提となる「善悪」という考え(何が善で何が悪か)からして感情論に似たようなもんですから。
 大切なのは「誰のためにどういう方法でやるのが一番良いのか」って事だと思います。質問者さんのチャリティーイベントの例えでいうなら、募金総額がいくらで、そのうちのどれだけが目的に適った使い方をされたかということになりますか。
 私も「偽善者」と度々言われた時期がある者ですが、その度に「お前に善悪の区別なんてできるのか」「今やってる事が善か悪かなんて知るか、やるべきだからやってるんだよ」なんて言ってましたよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
そう言われると、偽善かどうかが心の問題でただ思っているだけの話であるなら、偽善嫌いもただ思っているだけの話とも考えられますね。
だからやり遂げれば良い。
偽善嫌いに対し言わずにいられないのなら「お前に善悪の区別なんてできるのか」は良いかもしれません。
「あなたは自分の心が美しいという自信があるんですね?」のような事なら実は言ったことあります。

色々な回答やアドバイスが集まっていますね。
偽善反対論が思ったより少ないなと、個人的には思いました。

お礼日時:2008/09/26 06:43

こんばんは。




回答の前に少しの余談です。

インドでは善をほどこしたほうが「ありがとうございます」
と頭を下げるのだそうです。
「善をほどこす」機会を与えられ、
「善をほどこす」ことを「ささえていただいた」
ということに、感謝するのでしょうね。


ここで少し考えてみたいのですが、

「善をほどこす」というのが、
自分以外の人間「だけ」のため、ということは
あり得ないと思うのですがいかがでしょうか。

お金をもらって動いている「プロ」ではない限り、
その「動いている」は「自分が」「満足する」ためでもあると思うのですが。



それでは回答に入ります。

>偽善は何故「悪である」のか?
:偽善というのは、
感情や思考と、発する言葉や言動が一致していない
という状態で行われる善、ということになります。
ウソをついている、ということですね。

なぜウソをつくのかというと、
「何か」から自分を守るため、だと思うのですが、

その「何か」というのが何なのか、というと、
「自分」なんじゃないかと思います。

で、「自分」というのは何なのか、というと、

なぜか生まれて、
いろんな人や組織(学校とか会社とか国とか)の影響を受けて、
変化しつつ、形成されてきた生き物、
周りの環境に服従すると同時に庇護されつつ、
形成された生き物、なのではないかと思います。

少し話を戻します。
「何か」から自分を守るため、ではないかというお話をしたのですが、
その「何か」というのは、
「自分」であると同時に「他人」である、ということにもなりそうですね。



ところで、
自分が受ける害を減らし、自分の受ける益を増やし、
自分が受ける損を減らし、自分の受ける得を増やしたい、
生きやすく生きたい、快適に生きたい、
これは当然のことなので、

そのために自分の欲求と妥協して、
自分や他人にある程度のウソをつく、
というのも「自分が必要としていること」なのですが、

それは「いけないことである」と学習しすぎたとき、

本心とマッチしない自分の言動に「悪」を感じるのではないですか?
そして「悪」を持っていることを「いけないことである」と学習しすぎて、
「悪」を持っていたら生きていけない、と学習しすぎてしまった場合、

偽善はその人にとって「してはいけないこと」になるのでしょうね。
このとき、どうして「してはいけないこと」だと感じるのかというと、
やはり「自分を守るため」、
「自分」および「他人」から自分をではないかと思うのですが。



どうしたらよいのですか、ということでしたね。

「偽」を、当たり前に持っている自分を、
堂々と眺めることに耐えられるくらいの精神力を持ち、
自分、つまり他人に温かいまなざしを送る余裕を持つ、
ということになると思います。

そのために必要なのは、
最初に、自分が、安心・満足・幸福を当たり前に求め、
求めたものを手に入れる、ということではないかと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
情けは人のためならずですね。人を利することだけを考えよは難しいかもしれません。
快適に生きたく自分を守るための欺瞞、でもそれを悪いと考える。
本心とマッチしない自分の言動、嘘を吐くのは悪か?に似ていますね。
例え悪と認識してもそれを受け入れれば良いんですね。
それには心の余裕なのかな。

お礼日時:2008/09/26 06:28

善を為す、ということ自体、相手のためでもあると同時に自分のためでもあることは明らかだと思います。


相手の利益のためだけになる行為というものは、おそらく存在しないでしょう。

ところが、善というのは(かわいそうな)他者を利するためだけに行われるものだ、という誤った認識を私たちは持ちがちです。
ですから、自分のためという要素を全く表面に出さすに善を為す人は賞賛され、わずかでも自己満足的要素を垣間見せてしまう人は偽善者と呼ばれる。
それだけのことだろうと思います。
つまり、善と偽善との差は、必ず内面で生じているであろう自己満足的感情を、内に秘めておくか、これみよがしに見せびらかそうとするか、という違いなのかもしれません。

>じゃあ「偽善者」は一体どうしたら良いのでしょうか。
:はしゃぎすぎなさんな。
ということになるように思うのですけどね。
 
 
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この回答へのお礼

お答えありがとうございます。はしゃぎすぎなさんな、「自分のために」は人に見せるなですね。
そういえばそこの認識については、ボランティアについての話でも聞きます。
ボランティアとは志願という事なのに、無償の愛や使命感を求めてしまう人がいる、それは誤りではないか、、と。
それは善行全般について言えるのかもしれませんね。
うーむ。ならば、なぜ善行にそこまで求めてしまうのか。

お礼日時:2008/09/25 20:39
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