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自分と他人の関係の本質は何だと思いますか?

質問者からの補足コメント

  • 削除になったので、改めて質問します。

      補足日時:2021/01/12 12:32

A 回答 (20件中1~10件)

他人だから礼節をもって接するつもりでした

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この回答へのお礼

礼節が大切だということですね?

お礼日時:2021/01/12 12:33

同化し得ない、と云う事。

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この回答へのお礼

人間と人間が同化する、ということについて説明をお願いします。

お礼日時:2021/01/12 14:58

他者論



現代哲学での「他者」とは、「私の主張を否定してくるもの」「私の権利や生存にまったく無関心なもの」「私の理解をすり抜けるもの」などを意味し、多義的で抽象的な言葉である。
言わば、自己(私)の思い通りにならない、よく分からない、「他人的な性質を持つもの」は、どれもまとめて「他者」と名付けられる。
「他者」は「無限に続く『他者』の連鎖」を成しており、どのような言葉や理屈を述べても、それを否定する「他者」が存在することだけは決して否定できない。

例えば言動「x」が存在する場合、その言動を丸ごと「括弧」でくくって否定するような「他者」が存在し得る。
つまり「『x』は馬鹿だ」というような、「他者」による言動が存在可能である[3]。だが、その言動さえも丸ごと「括弧」でくくり、「『『x』は馬鹿だ』は馬鹿だ」と否定する「他者」も存在し得る。
さらにその言動さえも否定する「他者」も存在可能であり、このように「他者」は無限である。

哲学や科学や宗教はいずれも、世界を何らかの形で記述して説明するが、それは言葉の組み合わせであり、何らかの「囲い(文章)」を作っている。
その囲いの外側には、「囲いに含まれないもの」「違うと否定するもの」が ―― つまり「他者」が ―― 存在している。

他者論という観点から見れば、「誰にも否定されない絶対的な真理」を作り出すことは不可能である。
一方で「他者」は、単に真理への到達を妨害する忌むべき存在というわけではなく、「私」を自己完結の孤独から救い出す、「無限の可能性」でもある。
いかなる哲学、科学、数学を作り出しても、必ずその外部から「違う」と叫び叩き潰してくる、理解不能で残酷な「他者」が現れる。
「他者」が現れるからこそ、自己は自己完結して停滞することなく、無限に問いかけ続けることができる。

レヴィナス  wiki
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この回答へのお礼

レヴィナスの他者論を紹介していただきました。これは初めて知りました。
尤も私は哲学に詳しいわけではありませんけれど。

デリダの差延ということを、つい最近知ったのですが、どうも、現代哲学というものは、いや、新しい学説というものはしっくりこないものが多い気がします。

お礼日時:2021/01/13 05:36

構造主義とは、人間の社会的・文化的現象の背後には目に見えない構造があると考える思想


構造主義のアイデアは、レヴィ=ストロースが第二次世界大戦中に亡命したニューヨークで、同じく亡命中だった言語学者ローマン・ヤコブソンから得たもの
レヴィ=ストロースは人類学に言語学の理論を導入
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この回答へのお礼

構造主義の説明をいただきました。

お礼日時:2021/01/13 19:30

激むず~


( ̄~ ̄;)

端的に答えると

与えたり!与えられたり!する関係ですね
本質的には、自己の存在の確認だと思いますよ

追記
何故か削除だから、問い合わせしましたよ!
( ̄~ ̄;)手違いかな?
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この回答へのお礼

質問の形式になっていない、ということで通報があり削除という判断をしたものの、わしやけどさんの問い合わせがあったので、撤回されたといったところでしょう。

お礼日時:2021/01/13 19:35

無意識 主語無い


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この回答へのお礼

名越さんの動画、後でゆっくり見ることとします。

お礼日時:2021/01/13 19:37

自分そのもの



「他人」と言う言葉は、奥さん、子供を含むのでしょうか?

私は、「他人」と言う言葉を、「自分以外のもの」と考える。
詰まり、奥さんも子供も、その意味では「他人」です。

奥さんも大事にしたいし、子供も可愛い。
この感情は、結局、「自分の価値観」から発生しています。

その他の「他人」も、自分の価値観をもとに関係性を構築して
いるように思います。

例えば、人に道を譲る、は、私がその価値が有ると思うから
するので、誰かに言われるものではない。
迷子の道案内をしたり、挨拶をしたり、そうしたいからするので、
受け狙いでするわけではない。

或いは、上司に胡麻をする、にしても、それが自分に必要と
考えるからするので、それ以外の理由は無い。

そう考えれば、相手との関係性の根本には、「自分」があり、
「自分の価値観」に従っている、というのが、感想。
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この回答へのお礼

他人というのは、ここでは自分以外のすべての人としています。
他人には自分というものを投影しているということですね?

お礼日時:2021/01/13 22:29

同化し得ない。


しかし、それ故に、
共有し合う。

こんな感じ、です。
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この回答へのお礼

わかりました。

お礼日時:2021/01/13 22:30

構造主義とは


私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。
だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。
むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。
そして自分の属する社会集団が無意識に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。
私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自律性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法の功績なのです。
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この回答へのお礼

構造主義を更に詳しく説明していただきました。

お礼日時:2021/01/13 22:33

脱-中心化


ネットワークの中心に主観的自己決定的な主体がいて、主体の意思に基づいて全体を統御しているのではなく、
ネットワークの「効果」として、さまざまのリンクの結び目として、主体が「何ものであるか」は決定される、
この考え方は、「脱-中心化」あるいは「非-中枢化」と呼ばれます。
        
中枢に固定的・静止的な主体がおり、それが判断したり決定したり表現したりする、という天動説的な人間観、
中心を持たないネットワーク形成運動があり、そのリンクの絡み合いとして主体は規定される地動説的人間観、
「天動説的な人間観」から「地動説的な人間観」への移行、それが20世紀の思想の根本的な趨勢でしょう。
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この回答へのお礼

脱-中心化というものを説明していただきました。自分と他人の関係とは、このようなものであろう、ということですね?

お礼日時:2021/01/13 22:38

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