1. 次の解説に示されたヨーロッパ人の真理論は どの説もあやふやであり 成っていない。という見解を示して ひいては幅の広い(=じつは 柔軟な)哲学のあり方を問います。
2. ▲ (ヰキぺ:真理) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%90%86
§ 1 西洋哲学における真理論
真理とは何か、についての研究を真理論という。以下に代表的な説を挙げる。
A. 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」(羅:res、レス)が一致ないし対応していることが真理であるとする。
アリストテレス、トマス・アクィナス、イマヌエル・カント、カール・マルクス、バートランド・ラッセル、前期ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、アルフレッド・タルスキ、カール・ポパー
B. 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理的で演繹的な真理観。
中期プラトン、ライプニッツ、スピノザ、ヘーゲル
C. 真理の明証説:意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。
ルネ・デカルト、エトムント・フッサール
D. 真理の実用説(有用説):生にとって有効・実用的な認識を真理であるとする。
フリードリヒ・ニーチェ、ウィリアム・ジェイムズ
E. 真理の合意説:合意された認識を真理であるとする。
チャールズ・サンダース・パース、ユルゲン・ハーバーマス
F. 真理の定義不可能説:命題 P は命題「命題 P は真である」と同値であるから、真理の概念は定義不可能であるという立場。
フレーゲ
G. 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題 P は命題「命題 P は真である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。
フランク・ラムゼイ
H. 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。
アンリ・ポアンカレ、デュエム、オットー・ノイラート
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
3. ▲ B. 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理的で演繹的な真理観。
☆ にちなんで言うとすれば 大前提を《公理》ではなく 《想定》とするとよいのだ。これは 仮説演繹法によって 公理としてではなく仮りに想定した大前提を 後追いしつつ〔その現実性をかすめ取り得たならそれによって〕証明していくやり方です。
3-1. 言いかえると 経験合理性を超えた絶対的な整合性の世界――それは 人間には《分かるか分からないかが分からないナゾ》である――を 真理として想定しますよというかたちを採るはずである。
3-2. これによって 絶対性(真理)と相対世界(主観真実なる有限性のわれ)との関係――すなわち 両者の間の絶対のへだたりや それでもひょっとしての(霊性や仏性における? 可能性としての)つながり――をあきらかにして捉えようとしているはずである。
4. 《イデア》では ダメである。いや 真理と想定したものを《イデア》と名づけたというだけなら よいのである。つまり イデアなる絶対真理の世界からこの仮象の経験世界のものごとをそのまま《演繹》して来ては ダメである。
4-1. その演繹の仕方では 絶対性(イデア)と相対性(経験世界)とが――人間の思考において/によって 隔たりを難なく超えて――つながったことに成ってしまう。人間が勝手につなげたことになる。自然の驚異かつ脅威は 神の神性そのものであり怒りを込めた天罰だという説をみちびく。
5. 経験合理性による《整合性》だけでは ダメなのである。なぜなら想定によれば 真理は 人知を超えており 人間に理解しうる整合性から自由であるのだから。
5-1. ものごとの有無を超えており 因果関係から自由であり 善悪の此岸ではなく彼岸であり 或る意味で人間の判定する真偽をも超えている。これが 真理。
6. ▲ B. 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。
☆ だから これはマチガヒである。《いくつかの命題》を 経験世界において並列させても それらを真理は超えており それらから真理は自由であるのだから。
7. 言いかえると 経験事象にかんしてさまざまな認識をおこない命題(その判断)として提出する。そのとき 命題の真偽がどうかという問題は 相対的な真実を問うている。絶対としての真理ではない。
7-1. 相対的な主観真実は 互いに認知し共同化し得て多くの人によって共有され得る。ときには 真理へとみちびく補助線と成り得るほど とうといけれど。
8. まづ 《事実》について人は認識する。これを自己表現する。その命題について まづその当人にかんしては 《明証性》があるなら おのれの主観真実であると見なすようだ。――これが:
▲ C. 真理の明証説: 意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。
☆ であり これは 厳密な定義としては 真理ではなく 相対的な真実のことである。
9. すなわち ここから《明証性に立つ主観真実》が その認識内容として《事実》と合っているなら それは一般に《事実認識》として認め合われる。(ただし 真理ではなく 真実である)。すなわち:
▲ A. 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」(羅:res、レス)が一致ないし対応していることが真理であるとする。
10. そのことをもう少し具体的に細かく見てみよう。この一人のひとの主観真実が 当の事実と照らし合わせてほかの人たちによって検証される。やはり同じくそれぞれ自己の主観において真実として見解を同じくするなら そこでは 主観の共同化が成る。
11. この主観共同化が 地域を超えて歴史を超えて共有されるなら――たとえば意志自由とその相互尊重にもとづく民主制なる理念など あるいは 自然科学の仮説理論―― これは 共同主観(コモンセンス)と呼ばれる。これは 或る程度普遍的な真実であると見なされる。すなわち 次の説に相当する。(ただし 真理ではなく 真実である):
▲ E. 真理の合意説:合意された認識を真理であるとする。
12. 地域や民族の文化などによってその普遍性が狭(せば)まれたなら 共同主観は 部分的な真実となる。(ただし 真理ではなく 真実である)(つまり 次は 一地域・一時代にとっての実用・有用を実際には言っている。さもなければ 実用性や有効性は 時空間による制約はない):
▲ D. 真理の実用説(有用説):生にとって有効・実用的な認識を真理であるとする。
12-1. 箸が食べものを口にはこぶのに有用であるからと言って ことさら真理だとは言わない。
13. 民族(≒その一定の言語)の文化をさらにその独自性において重く見る立ち場では この《部分真実》をさらに限定するようである。(ただし 真理ではなく 真実である):
▲ H. 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。
14. この部分真実を けっきょく一人の個人(つまりその人の主観)にまでもう一度収縮させたものが 次の見解である。
われが思えば・われが言葉で語るならば それが《真実》である。のだから それの共同化などは 問う必要はないと。(ただし 真理ではなく 真実である):
▲ G. 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題 P は命題「命題 Pは真である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。
15. それではあまりにも独りよがりではないかと批判されたときには ふたたびのようにこの相対世界をあたかも超えて 絶対の真理なる理想郷(=《定義不可能》)を提示する道にのがれる。:
▲ F. 真理の定義不可能説:命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は定義不可能であるという立場。
15-1. これは《真理》を言おうとはしているのである。真理をこの目で見たいとは言っている。つまりむしろ[3]に戻って 真理を 《非知――知り得るか知り得ないかが人間には知り得ないナゾ――》として想定すればよい地点に立ち戻って来ている。
☆ ご批判をどうぞ。賛成票をもどうぞ。
A 回答 (21件中1~10件)
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No.2
- 回答日時:
哲学は天啓ですか。
啓蒙ですか。進路で悩んでいます。
ご回答をありがとうございます。
★ 哲学は天啓ですか。
☆ 天啓が――数少ない事例としての天啓が―― 基礎になることはあると思います。
単純に ヒラメキのことですが 基礎ですから 一生に数えるほどであってもよいので とうとい贈り物だと思います。
★ 啓蒙ですか。
☆ 啓蒙という捉え方は あまり必要が無いと思うのですが。・・・
誰でも 死ぬまで知らないことを知っていく道にあります。
そして先の者が後に成り 後の者が先に成ることもありでしょう。
むしろその知の活かし方が 大事であるのではないでしょうか。
No.3
- 回答日時:
変な人がいて、哲学に解答が確定するなんていう、大ぼらを吹く人がいるのですが。
可哀想なので、その方には黙っていましたが。哲学とは形而上学の問題が主で形而下の問題はあまり問わないと思えます。
主に、形而上の問題は人道の問題であり、所謂、道(タオ)を現すことだと私は考えており、形而下の問題は主に科学が担当していると思っています。
形而上の問題と形而下の問題が混在しているのが現世ということですが。
普通、哲学といえば、形而上の問題だと思われますが、貴殿はどう思われますか。
何か、貴殿は博識のようで、尻込みしているのが私の方ですが。
ご所見を窺われば、と思います。
★ 変な人がいて、哲学に解答が確定するなんていう、大ぼらを吹く人がいるのですが。可哀想なので、その方には黙っていましたが。
☆ たとえば ウソの問題。
ウソをつこうとすると 胸騒ぎがして顔が赤くなり舌がしどろもどろになります。
わたしはこれを ヤマシサ反応と呼んでいますが この反応は けっきょく自分が自分で起こすのではなく言わば天与のものではないかと見ます。われの意志を超えて起こる良心のハタラキであろうと。
そしてこの場合を 《解答が確定する》数少ない事例ではないかと見ます。
(このヤマシサ反応にさからうことも 自由意志の自由度に入っていますが)。
あるいはまた確証を得ているわけではありませんが 《ひとは 自分みづからをであれ 他人(ひと)をであれ その自然本性にあっては ひとをころさないものだ》なる命題も 確定だと――主観的に――思っています。
大ぼらの擁護をちょっとしてみました。
★ 哲学とは形而上学の問題が主で形而下の問題はあまり問わないと思えます。
☆ 形而上(天啓がからみますね)も形而下も あらゆるモノゴトを対象にすると思います。ちょうどいま 次のような質問もかかげています。:
☆☆ 【Q:哲学は 科学ぢゃないって?】 ~~~
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12356806.html
8. 哲学の特徴は ひとつに 世界のモノゴトないし事実のほかにも 超自然や超経験つまり 非経験の場ないしチカラについても その尋究可能性を扱います。
9. また あらゆる可能性をふくめたすべての世界を相手に――各分野の科学の成果にもとづき――その交通整理をおこないます。これは 特に哲学がになう役割りでしょう。
・・・
~~~
★ 主に、形而上の問題は人道の問題であり、所謂、道(タオ)を現すことだと私は考えており、形而下の問題は主に科学が担当していると思っています。
☆ 後者は 上の引用での[9]で触れていると思います。
前者は けっきょく《神論》です。よろしかったら 次をどうぞ。
【Q:神とは何か?・・・異なる意見に聞く耳を持つために】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11447078.html
【Q:一般および個別絶対性理論 ならびに 特殊絶対性仮説 または 宗教への絶対的批判】
No.4
- 回答日時:
真理って哲学分野なのでしょうか。
宗教が担当しているのではないのでしょうか。ご所見を窺いたいです。
可能であれば。
最近のものです。どうぞ。
【Q:《真実》は 相対的な主観真実。《真理》は 絶対性としての真実。《事実》は・・・】 ~~~
1. 一般的に言って 《真実》は 有限の存在である人間の認識や判断にもとづいてくだした相対的な主観真実を言う。
2. 《真理》は 絶対性としての真実内容。言いかえると 人間の知性を超えている。真理の内容としての真実性 これは 人間の能力で知り得るか知り得ないか それが知り得ないナゾである。
3. 《事実》というのは 知り得ない客観としてあたかも絶対性たる真理のごとくであるがそれは 飽くまで経験的な事物や現象について言っている。ゆえに 絶対性ではあり得ない。つねに人間の知性の――自然に当然の――対象である。
4. 事実について人間がおこなう認識は――つまり 《事実認識》は―― おのおの主観としてこれがただしい認識だと考えてくだした判断として――つまりは 主観真実として――成っている。
4-1. 世界たる事実の認識ないし世界観は それぞれ主観のくせをまぬかれない仮説である。
5. 仮説の中で一般に多くの同感を得た或る主観真実〔としての事実認識〕が 共同主観としてまた定説として 共有される。
5-1. 定説も つねに自由な批判を受ける姿勢にありそこからさらに高い次元のあたらしい共同主観へと揚げてすすむことになっている。
☆ ほとんど定義の問題ですが ご見解をどうぞ。
~~~
No.5
- 回答日時:
院卒の方ですか。
失礼でなければ。博士号お持ちですか?ざんねんながら 博士課程には進みませんでした。
しかも持っているのは 経営学専攻の経済学修士です。
失望させてすみません。哲学は 独学です。
No.8
- 回答日時:
#7
矢張り恥をかきました。済みません。
ギリシャ語もヘブル語もアラム語にも精通なされていらっしゃるんですか。
精通も通暁も ざんねんながら とおいです。と言わざるを得ません。
もう昔になりますが ここで仏典についてのやり取りがありました。
原典をも出して来ます。(いまは ウェブ上でテキストが見られます)。
短い一節ごとでしたので サンスクリットとその俗語であるパーリ語について辞書を片手に引き引き 何とか読めたときには われながらうれしかったです。梵語をやった人が もうひとり――そのときには――いました。ふたりでねじり鉢巻きでやりました。
アラム語は やっていません。
昔のアッカド語だとかフェニキア語だとか。系統が違うシュメール語だとか。
No.10
- 回答日時:
私、帰国子女なので、二年ダブっていることになるのですが。
文学部自体が就職が悪いのです。
更に、哲学科だと就職先が絶望的なのだと思うのですが。
更に、女だし。
そうなのですか。
お話しましたように 哲学の専門課程については 目で見 耳で聞いた経験的な知識は持っていません。
それと わたしの場合生活の糧について父親にたよった部分が大きいので あまりよいアドヴァイスがないかも知れません。
考えられることは もし哲学をみづからの主題としたいならば ふたつのえらぶ道があると思います。
学部から院生としてからその道を行くこと。それとも まづは就職の問題を片付けて ゆっくりじっくり哲学をすすめていくかだと。
どちらが有利かというような選択にはならないと思いますよ。やりやすいほうを選ぶのがよいかと。
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№3つづきです。
★ 形而上の問題と形而下の問題が混在しているのが現世ということですが。
☆ 次の見解が参考になると考えます。
▲ ヘーゲル:無限と有限 ~~~
無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は
どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない
ないしはこれを 我慢できないであろうが
この矛盾を持ちこたえることができるのが
人格(☆ ――もしくは《わが固有の時間》――)の高さである。
(『法の哲学』§35追加(講義録)藤野渉・赤澤正敏訳 1967)
~~~
☆ ふるくは 《神の国と地上の国とが その国境の捉えがたいほどに入り組んでいる》や《その国境に 非武装中立地帯( no man's land )は無いのだ》とか(アウグスティヌス)だと思います。
№7をおぎないます。
聖書の勉強・研究には いまではそうとう便利になっています。
ヨハネの福音の冒頭は こうなっています。:
▲ BlueLetterBible ~~~~
https://www.blueletterbible.org/kjv/jhn/1/1/t_co …
Jhn 1:1 In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.
1:1 Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος καὶ ὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν καὶ θεὸς ἦν ὁ λόγος
~~~~~
☆ 語義や参考になる諸研究も 容易に見ることができます。