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この世に「悪や善」「絶対」は無いと思いますが、誰にとっても当てはまるような事項、「普遍性」「本質的なもの」はありますよね。

「子供は愛して育てるべきだ」「健康でいたほう不健康より良いに決まっている」というようなは誰にでも当てはまることです。
誰にでも当てはまるはずなので愛さないで育てるべきというのは間違えていることになりますよね。

そのような小さなことから、もっと壮大なことでも思いつくことがありますか?

皆様の思う普遍的なものは何がありますか?
正義と悪はありますか?
真実はひとつなのですか?

皆様の考えを教えてください。

A 回答 (9件)

皆様の思う普遍的なものは何がありますか?


地球は太陽の周りをくるくる回って日本に四季があり、月は地球の周りをくるくる回って潮汐がある。こんなのは人間にとっては普遍的ですね。

正義と悪はありますか?
ありますよ。ただ正義と悪は人間にとって普遍的では無いだけですね。

真実はひとつなのですか?
一つですね。真実がたくさんあると混乱しますからね。
北極星に例えれば理解で来ましょうかね。北極星の周りにくるくる回る無数の星がありますね。その星ぼしが皆、我こそは真実なりと言えば観ている者は目が回りますよね。でも動かない北極星が真実であれば皆安心できますよね。そのようになっているのですね。だから真実は一つなのですね。ただ北極星はいつも輝いているのですがそれを観る者は少なくグルグル回る星を見ているものが多いというだけですね。
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「悪や善」はある。

「絶対」は無い。真実はひとつ。
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子供に「それはどうして?」「なぜ?」と聞かれて、“玉ネギの皮むき”の


ようにエンドレスに疑問が派生して、大人が回答に窮することがあるように、
現象的真実には表面的な多様性と原理的な無限性があります。

ただ、最新の量子論的世界観における超弦理論、人間中心原理によって、
無限に続くと思われた“疑問の連鎖”が、無に到達する(=無から全てが導かれる)
ことにより、断ち切られることとなりました。
即ち、どのような経路による“疑問の連鎖”も、原理的に解析して無に至り、
それ以上遡れない=無こそ根源にして普遍となります。

「無から生じるには何か原因が必要」と考えられがちですが、「無」の対極のはずの
「有」が、実は突き詰めると、無とオーバーラップすることが分かります。
全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限につめこむと存在確率の
山が平らになって、無と等しくなります。
この「絶対無=不確定性無限」において、その無限のゼリーの中に仮想的な認識体の
断面を切ると、その認識体にとって、相補的不確定性を伴う存在による宇宙が見えます。
しかしその「存在」は、認識される階層的現象の表面的に生じるもので、根源的に
絶対化しようとすると、元の無限不確定性に発散します(=不確定性原理)。

実は、相対性理論にしても、量子論にしても、認識体との相対によってしか
存在は無い、という帰結を潜在的に持っています。
客観的時空や絶対的存在というのはない、というものです。
認識性を除外した存在は、無=無限不確定性になります。
その無限の闇に、認識体の仮定断面の運動(プランク定数hの収束の時系列化)を
想定すれば、相対的に無の風は光になり、認識体はその光の向うに、自我仮説の
補完としての時空仮説=宇宙が認識されるのです。

即ち、「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)の相補として
生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」という無の射影として、
存在は生じていると言えます。
無いとは分からない事が有なのです。
(有限的存在性が“自我成立のための相補”なら、現象的な絶対性は全て相対的です)
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私達の生き様を捉えようとしたときに、例えば「普遍性」の言葉のように、それを凝縮する概念がありそうだと気付いたことは、貴方にとって、世界の見方に対する巨大な一歩を踏み出したことになりますね。

しかし、先はまだ長いようです。

貴方の普遍性の論理をそのまま使わして頂きます。

先ずは小さなことから:
嘘をついたことがある、というのは誰にでも当てはまることです。
誰にでも当てはまるはずなので嘘を付かないというのは間違えていることになりますよね。

次にもっと壮大なこと:
戦争を経験したという国は、何処の国にでも当てはまることです。
何処の国でも当てはまるはずなので戦争をしないというのは間違えていることになりますよね。

貴方の言う普遍的な例はこの他に幾らでもありますね。ですから、正義とか悪、あるいは真実を語る時に、貴方の切り口は余りにも物事を単純に見過ぎていませんか。

さて、私には、普遍性に対する言葉として多様性という言葉が思い浮かびます。生物の進化を見ていると、はじめに均一で普遍的統一的だった生物は、次々と分岐しながら、あれではなくてこれだという、特殊性を手に入れてくる方向に進化して来ました。均一と言う何処を見ても同じ対称性をもっ状態から、その対称性を破って特殊性を手に入れるてきた。その特殊性のことを我々は個性と呼んでいます。各生物が種の個性を手に入れることで、この地球上の生物の世界は多様で豊富な複雑性を手に入れて来たのですね。

人類の発展も、先ず旧石器時代と言って、地球の何処からも似たような石器が出てくる普遍的で統一的な時代を100万年程経験した後で、新石器時代と言う、場所よって石器に独特の異なった地方性を持った個性が出てくる時代へと移行して来ました。人類も、はじめは普遍的で家族的な統一されら状態から、地方による特殊な文化を手に入れる方向で、人類の持っている文化を多様で豊なものに来ました。少なくとも、生物の進化の世界では、一つの普遍的方向に種が統一さてれきたことは無く、もしそれが在ったら、進化とは言わず退化と言うでしょう。人間の社会も、圧倒的な影響力をもった一つの普遍的な価値観に統一されることがあったら、それは、進化とは言わず退化と言うべきでしょう。

トンボはチョウより優れているの、いないのと、何か普遍的で統一的な価値観が存在しているかの如く議論するのは、この生物の進化の歴史を見ていると、如何にも的が外れていますね。その反対に、各々の個性という統一できない特殊性を互いに認め合い、多様性を認め合うことで、複雑で豊かで奥行きのある世界が出来上がって行く方向に、時間の流れは向いているようです。そして、その尽きない奥行きの存在が、人類が存在する限りこれからもいつまでも生まれてくるはずの未来の若者達にも、我々と同じような興奮や喜びを今後も経験できることを保証してくれているようです。その喜びとは、世界を既に解き明かされたものとして単に彼らの先人達の到達した認識を勉強するだけの退屈な世界ではなく、彼ら自身が挑戦して新たに解き明かさなくてはならない問題が尽きることなく残っており、したがって、すでに存在している他の人達の見つけ出して来た知識を理解する営みだけではなく、その未来の若者達も先人達と同じ様に無から有を創り出す発見や創造的な営みに参加できる喜びです。

即ち、自然界の歴史を見ても、人類の歴史を見ても、普遍から特殊へという方向が進化であって、その反対に、特殊から普遍へは退化の方向に向いているというのが、我々の手に入れて来た経験則のようです。

貴方自身は、確かに幼児から成人へと成長する過程で、家族から学校や町へ、学校や町から日本という国へ、そして、日本から世界へ人類へと、誰でも経験して来た、特殊から始まって、順々に普遍の存在の認識へと目覚めて来たことは良く判ります。しかしそこで話が終わっていないのが、どうもこの世界の面白さ、複雑さ、そして尽きない深みなのだと思います。ある意味で、普遍性の存在に気付いたと言うことは、いよいよこの世界の本当の面白さを理解できる入り口に到達したのだと思います。これからいろいろと遭遇するであろう自分の経験とそれに対する思索を積み重ねて、普遍、永遠、変化、特殊、個性、多様性、豊富、対称性の破れ、などなどのキーワードに凝縮された概念をいろいろいな側面からいじくり回すことによって、遂には「自分という特殊な存在」が何であるのかを考える切っ掛けが与えられるようになることを期待致します。
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 key1569さん、そうやって性急に結論を出してしまわずに、しっかりと疑いの目を持って下さい。

例えば、貴方が「誰にも当てはまる」とした二例についても、その普遍性を疑うことは容易なのです。

 というより、まず「絶対」は無いとしながら、その二例が(絶対に)誰にでも当てはまる、としているのはいかがなものか。「絶対」が無いと貴方が言うならば、貴方の意見もまた「絶対」ではないのですよ。


>「子供は愛して育てるべきだ」「健康でいたほう不健康より良いに決まっている」というようなは誰にでも当てはまることです。

 この記述だけでは、「子供は愛さないで育てるべきだ」「不健康でいたほうが健康より良いに決まっている」という思想・信条を持つ人間が存在する可能性を否定するに至っていません。人間の思想・信条は多様なものであり、上記の二例に該当する思想・信条を持つ人間の可能性を十分に保証しえます。

 もっと根本的に言うと、貴方の行ったような結論を出すためには、貴方が人間より上の階層に立ち、人間の全体を俯瞰的に見下ろすことができなければなりません。そうすることによって初めて、先に述べたような「例外」の可能性を消去できます。逆に言えば、貴方が人間の中で人間を仰視している限り、「例外」の可能性を永遠に消去しえません。


>皆様の思う普遍的なものは何がありますか?

 真に普遍的なものは想定しえないと考えます。人間にとって普遍的なものは想定しえると考えます。

 まず、自己の外にあるいかなる事象をも、明白なものとして認知しえたとしましょう。しかし、その認知するという時、その事象は自己の外にあり、その事象は世界のうちにあり、自己は世界のうちにあり、すなわち自己と事象はともに世界のうちにあるがために、自己はそのものを仰視しているに過ぎない。したがって、いかに事象を明白に認知したように思えても、そこに「例外」がつきまとう可能性を我々は消去しえない。

 であるからして、自己の外にあるいかなる事象に対する認知は不完全であり、普遍的なものは想定しえません。我々が一般的に普遍としているものは、一時的にそうであると規定しているだけの、人間的普遍でしかありません。

 一方、自己のうちにある事象ならば、自己を俯瞰的に見ることができないような気もしないでもないので、明白に認知しえる部分があるかもしれません(このあたりは面倒臭いので割愛します)。ところが、いずれにせよ、自己と他者の同一性を完全に言い得ないがために、これまた普遍的な認知には到達しえません。あるいは、普遍化するということは、その認知を自己の外に出そうとする作業ですから、先ほどと似たような流れで「例外」が生じます。

>正義と悪はありますか?
>真実はひとつなのですか?

 人間的な正義と悪は存在します。人間的な真実は確かに存在しますが、複数であるか、一つであるかは分かりません。
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普遍ってのは、条件に依存していないもの。



時代や人によって、捉え方が変わらず、どんなことにも変化しないってことです。

子供は愛して育てるべき、健康でいたほうが不健康よりいいに決まっている ってのは普遍じゃあないってことです。


人類はまだ 普遍を発明できていません。
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真理とは宇宙の銀河系や太陽系等の成長や崩壊等、又、宇宙の法則や原理やあらゆる生物(万物)の生命の息(宇宙の意識)の源泉の現われ等、この宇宙の無数の銀河系の全ての活動現象、そのものが真理であります。

2000年前の昔、偉大なる導師が「我語る言葉こそ真理なり」と言われましたが、人々は理解する事なく真理を求め続けました。「自分自身を自由にする真理を与えよ」とあらゆる主義主張や議論が多くありますが、さしずめ、その人々に、とってはそれが真理であるのです。

地球上においても海辺の打ち寄せる波や微風や太陽の陽光、月の満ち欠けや四季の移り変わり、森羅万象等、それらも大自然の真理なのです。真理とは本来、悠久普遍の摂理が真理であって誰がみても真実の道理であると考察され認められるものです。川の水は上流に向かって流れませんし又、太陽が太陽系の中心から外れて、外宇宙へ移動する事もありませんのでこれらは真理では、ありません。

真理とは宇宙の万物の現われや活動の総計が真理であります。人間はこれ等の諸活動の原因(万物の宇宙の意識の表現)を認識して、宇宙の万物の現われの総計の活動に対して深い知識と熟慮が必要となります。それが宇宙の万物の原因と結果を理解し知る事になるからです。その時に人間は自由になれるでしょう。

あらゆる宇宙の生命(万物)は創造主(父)の体現であり一体です。生命体に表現されている「至上なる叡智者(父)」に対する、へりくだった謙虚な尊敬感と畏敬の念を我々の思想とし、又。創造主(父)の息子や娘として、万人の神性を促し表現して愛と奉仕を社会で実行する事が要求されます。これらは人間の進化の為の根幹の宇宙の法則として子供や孫達に伝え実行主義として教育して行くべきものです。

本来、自由とはお互いに責任の伴うものであり、宇宙の法則や原理に則った、ものが自由なのです。そして人間は真理という範疇において人間的進化進級をして行くものです。我々は進化の階段を一歩々、確実に、ゆっくりと登り成長し学習すべきです。私達が転生の法則に則り、どこの進化した惑星で生まれ変わろうとも永遠に学び続けなければなりません。それが人間の目的でもあるのです。一時的に停滞をする事が、あっても上方への進化こそ人間として進むべき正道です。
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真実はひとつです。


しかし、いろんな形に見えます。
生命というものがひとつの枠で見れますが、現われ方はサマザマです。

善悪は人の心の中にあるといいます。
悪は破壊のエネルギーとなり、人は怒りで自暴自棄になれば、自己を破滅させますし、破滅があったことについて、自己の中の悪を見つめるべきです。
 またインドでは、正義は神の名前として扱われています。
 つまりは、自己の精神の中にそれはあり、現れたり見えなくなったりしています。
 現実は残酷な事件があり、自分のエゴのために、子供をおきざりにしたりという悲惨な現実があるのは事実です。
 無いようである。あるようでない。
 それは生命が誕生して、ある」という状態で、死ねば『ない」ということになります。
 これは生命現象の一側面です。
 ですから、あるという人にはあり、ないという人にはないということでしょう。
 その意見がもし変更しないのなら、その次元で絶対ということがいえます。
 しかし、あるかないかの存在で言えば、正義という言葉は存在しある。
 また正義とは、ある精神を呼ぶための名前であり、その心が存在しているかというと、その思いによって警察や法律が形作られてますね。

 あるないということを知りたいなら、自己、自分自身が存在してるかどうかを問えばいいと思います。
 ないという人は盲目であり、意識が低い状態だということでしょう。
 赤ん坊の認識力意識の状態で、存在も見えなくなり、意識があがると見えるものもあります。存在があるというのも、雲に隠れた太陽のように存在はしていても、目に雲がかかって汚れてると見えないということもあります。存在していても、知らないという状態がそれです。
 ですから、見えない人はないといい、見える人はあるといいます。
 この世界は、すべて存在の世界だということでしょう。
 自分も含めて。
 人間にとって意識をあげるのがもっとも難しいことです。
 人は経験しないとわからない存在ですから。
 人はあるものについて否定しますが、ないものは否定できません。わからない状態だからです。
 常識でいえば、幼児期に善悪は身に着けましょう。
 善と悪の精神は、他者とのかかわりでエゴかどうかによって判別できます。
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「悪や善」はある.「絶対」はある.真実は大きくひとつあり.

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