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努力も才能なんですか?よく努力できるのは天才だとか努力の才能とか言葉聞きますが自分は違うと思います。確かに努力しても実らないことやスポーツや、勉強には天才たちがいます。けど努力に関しては天才とか言って る人は自分が努力してこなかった言い訳のように感じます。努力が天才とか才能とか言ってたら努力出来なかったでも自分には努力の才能がないからとサボっててしないだけでもっともな言い訳もできるわけだし苦しみ辛いことを耐えてきた人にまあ努力の才能があるかねといったら才能のせいにしてその人の努力を踏みにじるような感じがします。なので努力の才能とか天才とか言葉が嫌いなんですがみなさんはどう思いますか?

A 回答 (9件)

先ず、改行しようよ。



回答は、天才でも努力しなかったら何もしない人と同じ。
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この回答へのお礼

改行ですね!わかりました。それと回答になってないです。

お礼日時:2021/06/19 05:21

ほとんどのモノは、


・遺伝
・生育環境
・本人の意思
この三つで決まります。



努力も才能なんですか?
 ↑
才能の部分があります。




けど努力に関しては天才とか言って る人は
自分が努力してこなかった言い訳のように感じます。
 ↑
その通りです。
努力するのがいやなので、努力しないで
良い理由を探しているのです。
それが、努力出来るか否かも才能だ、という
論法です。




なので努力の才能とか天才とか言葉が嫌いなんですが
  ↑
ワタシも大嫌いです。

才能もない。運も期待出来ない。
親の七光りも無い。

そんな人間がやっていくには、努力しか
無いでしょう。

他に方法があれば教えて欲しいです。



みなさんはどう思いますか?
 ↑
努力出来るか否かも才能だ、なんて
ほざいている人は、逃げているだけです。
なんの解決にもなりません。
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努力の才能とか言葉聞きますが」←?



努力の賜物や努力の結果は聞いた事あるが 努力の才能ってのは 57年間生きてきて あなたの この質問で 初めて聞くが?
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えーと、僕は基本的に昔から何をやっても努力を継続させていくことができないんですね。


ずっと「飽き性なんだ、根気がないんだ」って思ってましたけど、今年になってテスト受けたことでADHDだったことがわかりまして、努力をし続けられないのもそのせいだとわかりました。
ということで、性質レベルで努力ができない人間って存在するので、そういう僕から見ると、努力をずっと続けていける人ってやっぱ努力の才能あるんだって思います。
努力は誰でもできるけど、それを継続するのは実はみんながみんなできることではないんです。
だから継続できるのは天才とか才能とかって言えるんじゃないのかな。と思います。
羨ましいですよ、根気があるのって。
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努力で天才にはなれない


才能ある人が努力すると天才かとおもいます
また天才は努力の仕方もうまい
同じ時間努力しても差がでるようにそれぞれの才能によるものです
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努力は才能ではありません。

でも、諦めずに到達するまで頑張る力は才能だと思います。
例えば、100mを9秒台で走れる人は走る能力にたけているので、才能があると言えるでしょう。100mを16秒台で走った人に努力すれば14秒台にはなれるけど努力してみる。結果努力して14秒に到達した人を、努力の才能があるとは言わないでしょう。よく頑張ってたね。努力のたまものだね。なのです。
100m走で
才能かあるのに努力しない人。走ることに興味ない。
才能ないのに努力する人。人より早く走りたい。(人並みに)
プロね世界で、
才能ある人でてっぺんとって、その地位を永く維持した人が、維持するための努力を、努力も才能だよ。と言えるのでしょう。
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結局、「天才」も「才能」も所詮は人が勝手に生み出した単語であって、その定義はあいまいですよね。



私が思うに、ヒトはどんなことでも努力をすれば上達するはずなんです。問題はその努力を開始し、そして続けられるかであり、その「始めたり続けたりする力」を、とかく世間は「才能」だとか、その力を持っている人を「天才」だとか呼びたがるのだと思います。

ですが、厳密に言えば、その「努力を始めたり続けたりする力」はさまざまな要因で成り立っているのだと思います。遺伝、環境、偶然の出会いなどなどです。

そういう意味では私も「努力を始めたり続けたりする力」を「才能」や「天才」の一言で片付ける風潮が、好きか嫌いかと問われれば、どちらかというと嫌いです。

ただ、例えば私は逆上がりができない子供でしたが、きっと当時、「逆上がりをできるようになるまで努力せよ」と言われていたとしても、なぜ努力せねばならないのかわからなかったので、その努力を放棄していたと思います。

しかし例えば、「いや、逆上がり自体はどうでもいいんだ。でも逆上がりというものが1つできるようになることで、自分の可能性を信じられるようになれば素晴らしいではないか」などと説得されていれば、ちょっと努力してみただろうと思います。そばでコツを伝授してくれたり、私の体を支えて励ましてくれる人がいれば、いっそう努力を重ねたでしょう。

でも、だからといって、逆上がりができたあとで「素晴らしい! 天才だ! 体操選手を目指せ!」と言われたとしても目指さなかったと思います。私にはどうしても体操に興味が出ませんでした。

代わりに私は、ある時から無性に翻訳作業をしたくなりました。たぶん、こっちの言語を使う人とあっちの言語を使う人とが理解し得ない状況をさんざん目の当たりにして、寂しくてたまらなくなったからだと思います。

ゆえに私にとって翻訳作業はセラピーでした。なので他人から言われるまでもなく、努力を努力とも思わずに勉強を続け、やめろと言われても勉強を怠らず、プロとして翻訳をするようになりました。

他人はこれを「才能」「天才」と呼ぶのかもしれませんが、私は「努力」と呼びます。ただし、「私でもできたのだから、あなたも努力せよ」とは言いません。やはり、何らかの見えない誘惑が私をこの努力に駆り立て、それを尊重してくれる奇特な先輩や学校や雇い主が存在したからこそ、私はここまで来られたのだと思います。

まとめます。確かに「天才」「才能」の一言で片付けて「努力」を放棄する姿は美しくはありません。ですが、人に「天才」「才能」という言葉を使わせるまでに「努力」をする背景には、さまざまな要因があろうかと思います。その要因となるべきものをその人に提供もせずに、周りが勝手に「あの人は努力を怠っている」と言うのも、同じくらい美しくないとは思います。
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努力は才能だと思います。



私は長いこと努力しない人間だと思い込んでいましたが、実際は違っていて、好きなことに夢中になっている時は辛いともきついとも思うことはなかったので、それが努力だと言うことに気づいていなかっただけです。

このことに気づいたのは60歳まじかで息子が闘病した時です。
あの時は息子の命がかかっていたので、全く基礎がないのに医学書を読み漁ったりネットで調べたりと必死でした。
息子は危機的な状況が何度かありましたが、無事社会復帰を果たすことができました。
この時の経験から、自分にとって切実な時は必死に努力して結果を出せることに気づきましたが、今までの自分を振り返って好きなことはそうだったということに気づきました。

弱点を克服することだけが努力ではないと思います。
得意なことを伸ばすことで弱点を克服することもあると思います。
丸い球にいくつかとがった部分があって、とがった部分を削ると丸くなりますが、逆にとがった部分を太く大きくしていくとやがて尖った部分が埋まってしまい元の球より大きな球になってしまいます。
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「努力」そのものが才能なのではなく、「努力できる性格」とか「努力し続けることができる性格」とかいったものが才能なのだと思っています。

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