チョコミントアイス

侍は剣以外にも沢山の術を学んでいましたが、兵庫助や連也斎が新陰流の剣をブラッシュアップしたのに対し、十兵衛は杖術の型を残しました。
農民や商人なら杖もわかりますが、侍なら腰の大小の方が自然だと思うのですが、普段から杖を持っていたのでしょうか?

A 回答 (2件)

新陰流の刀法を応用した杖術と、それに用いるための特殊な杖の製法を考案したとされます。

この杖術は新陰流(江戸柳生)でも、代々ごく限られた者のみに伝えられる秘伝として扱われた;明治維新後に一度失伝したとも言われるが、大正4年頃に、尾張柳生十一代当主・柳生厳長とその父・厳周によって伝書を元に復伝されました。現代でも、尾張柳生を伝えるいくつかの団体でその技を伝えているとのこと。

下記に詳しい記述がありますが、詳しい伝承があるわけではなさそうです:
https://ja.wikipedia.org/wiki/柳生三厳
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この回答へのお礼

ありがとう

昔、たまたまYouTubeで見た尾張柳生(春風館の加藤館長だったか)の身体操作に感銘を受け(今は消されています)、しかも型まで本で公開されている事から、5年程、一人で学んできました。多分、あなたが書かれた厳周、いわゆる厳周伝だと思います。
刀法を応用したとありますが、確かに、沖縄在住時に見た伝統空手も、互いに応用できそうだと思った事から、熟達者なら造作の無い事なのかも知れません。
杖術は秘伝、限られた者のみとの事。いつか見てみたいですね。
リンクもありがとうございます。

お礼日時:2021/08/05 15:32

若い頃は腰の大小だと思いますが、晩年に杖に変わったのかも知れません。

もちろんただの木の棒ではなく金属を仕込んだ鈍器のようなものらしいです。腕力に自信があればそういうモノで相手の刀ごと叩き割るといのも可能なのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとう

新陰流の術理はよくできているので、熟知した上でそんな仕込棒を使うのは、ヤバいですね笑

お礼日時:2021/08/05 12:01

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