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桶狭間の戦いのとき今川義元は京都へ何しに行こうとしてたのですか?
さほど領土も広くなく、有力武将も多数いますので、天下に号令できるとも思えないのですが。
また人数もそんなに多くなかったと聞きます。
天下を取る順序としては、隣国との戦いに勝利を収め、徐々に京都へ進めばよかったのではないでしょうか?
いきなり複数の国を通って京都へ登る行動に不自然さを感じます。

朝廷との関わりを持つためでしょうか?

よろしくお願いします。

A 回答 (7件)

当時の大名で京都に上って天下に号令しようと考えた者はいないと思います。


現在で言えば「世界征服を企む」と同義語で、そのようなことが可能な大名は一人もいません。
戦国の覇者、織田信長がそれを可能にしたのは、尾張西部の津島の有力者と深く結びつき、商業を基盤とする大名で、これは彼一代のことではなく、父親の信秀が娘を商人に嫁がせたり、かなり将来を見据えた布石を打った結果です。
織田家は商業大名ですから、他の大名のように農業生産に左右されずいつでも戦が出来、また領土の伸張により本拠を、古渡→清洲→小牧→岐阜→安土と移動させるので、領国に帰る必要もなく、常に最前線で戦えます。
また部下も土地との結びつきがないので、恩賞は金銭や名誉というもので働くという特徴があります。
一方今川家は、北条・武田と結び、東への備えをして出陣してますが、農業型大名ですからそのまま一気に京都を目指すことは出来ず、徐々に領土を広げつつ・・ということになります。
尾張を落としても、美濃の斉藤、近江の浅井、六角氏などがいますから、このときは尾張東部を侵食するつもりで、それ以降は考えなかったと思われます。
ところで今川家の実力ですが、家格は足利家に次ぐ家柄で、遠州・駿河・三河の3カ国を領し、温暖で豊穣な地域ですから、当時としては日本一の実力大名になります。
当主の義元も数々の修羅場(3男で、兄から当主の座を奪う)を切り抜けた猛者で、けっして無能な人物ではなく、恐らく当時は5指にはいる武将と思われます。
彼の手腕で関東の北条家を破り、三河の松平家を併呑してるので、無能どころか斉藤道三や毛利元就に匹敵する能力はあります。
彼の軍団も豊臣氏や徳川氏の数十万に比べれば少ないですが、2万もの(25,000とも40,000とも)軍勢を動員できるのは当時としては空前のことです。
ただ近代大名ではないので、農業の関係でいつでも動員できるわけではなく、このときも三河を完全に平定して尾張東部を併呑し、引き上げる予定だったと予想されます。
もし成功すれば、織田家内部の内紛は高まり、分裂状態で、いずれ名古屋市あたりは今川領になり、小牧市などは美濃の斉藤氏の後ろ盾を頼りに反抗するという形で落ち着いたと予想します。
時代が下って、武田信玄の上洛もいささか無理があったようです。
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今川義元が尾張に侵攻したのはやはり京都を目指す前哨戦としての意味であったと思います。


その理由は
1.家格、由緒共に中央政府に上位を占める事が可能であった。  義元自身その思いがあった。
2.今川家の実力は最盛期にあつた。
3.武田家、北条家とも同盟関係を成立させ、後方の憂いを防ぐ配慮が成功していた。

勿論当時の戦争では農民を動員するので農繁期を避け、次年度の収穫を確保するため長期にわたる戦闘はできず、短期の侵攻作戦を繰り返して支配地の拡大をしていく必要がありました。
また兵糧の輸送も道路の整備、輸送労力の確保が必要で、直ちに京都を目指すことは殆ど不可能でした。

もしそれを可能にする手段は途中の国々の支配者が全部味方につく場合だけです。
義元は自分の力に頼るだけでそのような事前工作をしていた証拠はありませんから尾張攻略だけが当面の目的であったと見るのが妥当でしょう。
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定説では、今川義元は上洛途上に桶狭間で戦死した…ということになっていますが、果たして彼は、本当にこの時、上洛を目指していたのでしょうか?


今川家と織田家は、長年、尾張と三河の国境付近で何度となく戦っていました。この小競り合いに決着をつけようと大軍を擁して出陣したのが、この時の今川義元であったという説が浮上しています。
つまり、この時の今川義元の出兵の目的は、せいぜい尾張平定ということです。

武田信玄の場合だったと思いますが、当時の戦国大名の出兵期間、換言すれば当主が合戦のために国元を離れていた期間を調べた学者がいます。それによると当主が国元を離れた期間は、長くてもせいぜい3ヶ月なのだそうです。その間の重要政務はストップしてしまうので、3ヶ月が限界なのでは…と想像ができます。
ですから古い体質が残っていた今川義元の場合も、国元を長期間留守にすることはできなかったはずですから、上洛は考えていなかった…となるわけです。

それを考えると、織田信長はやはり凄い人物だと思います。領土拡大と共に本拠地を移動し、その本拠地と京、さらには各地の戦場へと、度重なる移動を可能にしたわけですから…。

よくゲームや小説で、戦国大名はみな天下統一を目指していた…と出てきますが、それはみな嘘です。後北条氏なら関東統一・長曾我部氏なら四国統一…くらいが関の山です。
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反論になってしまいますが、僕の友人で史学科に通っている人は、義元が上洛の意思をもっていたわけはないと言っています。



ただ単に、尾張国内の領地拡大を意図していただけの軍事行動だそうです。

なぜこんなことが言えるかというと、当時の戦国大名に天下統一という観念がなかったから。天下統一を意識して行動したのは信長が初めてで、それこそが信長の独創的な部分であるそうです。

よって、義元も信玄も天下統一という意識はなく、自身と家臣の領地を守ることが主だったようです。

まあソースがない、人から聞いた意見ですので説得力がないですが、こういう見解があるというご参考までに。。。
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こんばんは


今川氏は、清和源氏・足利氏の支流ですね。足利一門には細川や斯波・畠山・山名など有名な一族もいます。中でも今川氏は、足利将軍家から御一家として重んじられた吉良家の庶流にあたり、名門中の名門でした。
室町幕府においては「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」とされ、将軍家が断絶した際には将軍継承権をもつ家でした。
義元も、(桶狭間で敗北したためか)公家好みの三枚目として描かれることが多いようですが、武将・政治家としてはそれなりに優れており「海道一の弓取り」と称され、今川氏を戦国大名として成長させます。

最終的には、上洛・天下に号令することをめざしていたことは間違いないところですね。桶狭間に先立つこと6年、1554年には武田氏、北条氏と「甲相駿三国同盟」を結び、東の憂いを除きます。そして西(尾張・美濃)の攻略、都へのルート掌握にかかりますね。美濃を抜くのは難関だったでしょうが、尾張はなめてかかっていたと思います。

確かに1560年の時点での義元が、何を目的として行動したかは正確にはわかりません。しかし一般的には、戦国動乱の時期、京の将軍家(13代義輝)を支え、場合によっては将軍になることも考えていたのではないでしょうか。家格としては、それに相応しい家柄でもありますから。
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一説では何らかの野望をもっていたとも言われているようです。



また、京都に行こうとしていたのではなく、尾張をとろうとしていたという説もあるみたいですね。

下のサイトに詳しく載ってます。

参考URL:http://homepage2.nifty.com/inutomononohu/newpage …
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本当に京都へ行こうとしていたかどうかは、わからないみたいですね。



戦国物では有名な小和田哲男・静大教授は『義元がなにを考え、なにを真の目的として出陣したかは永遠の謎になってしまった』と書かれています。

三河掌握説や、尾張奪取説などもあるらしいですよ。
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