マーベル映画シリーズの伝説の始まり『アイアンマン』を紐解く! >>

全国1億2千万信玄ファンの皆さん、こんにちは。

自宅で資料整理をしていたら、往年の名作「信長の野望 戦国群雄伝」のガイドブックが出て来てしまいました。仕事で忙殺されてるというのに、思わずよみふけりですよ!(嗚咽

生来の里見家フリークな私は、別に武田信玄に対して悪意を抱いているわけではないのですが。
果たして信玄が長篠の戦いまで存命であったなら、信長に勝てたのでしょうか?

どう考えても、無理ゲーと申しますか、馬で柵は突破できないだろ的な考えを抱いてしまいました。

甲斐の虎、戦国最強の呼び声も高い武田信玄のファンの皆さまからの熱いご意見をお待ちしております。
(煽っているわけではありませんので念のため。徹夜明けでテンションが高いだけです)

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A 回答 (9件)

 他の回答者の方々が指摘していない点について



・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としていた武田家に対して、木曽・揖斐・長良の河川運送と伊勢湾の海上輸送に基礎を置いた津島や熱田の商業都市から始まって、琵琶湖の水運に基礎を置く近江商人の活動域、瀬戸内海運と淀川の水運に基礎を置く商業都市である堺を支配することにより、織田領では平時にも大規模な物品流通が確立しており、徳川領も織田経済圏の東の部分を形成していました。


・武田軍の戦い方について
1、三方ケ原では、武田軍は圧倒的に有利な位置に陣を構えながらも、徳川軍との戦端をなかなか開こうとは  しなかった。
  結局開戦は、午後4時ごろから始まったようだ。
2、武田軍は、有力な領主の連合体によって形成されている。
3、織田軍のような高度の兵站能力は持っていない。

 1・2・3から見て、信玄の場合、「上洛」とは、甲斐・信濃から西に向かって、有力な戦国大名を傘下に収めて領土を拡張して京に至るというやり方であるようだ。

 三方ケ原の戦いでは、信濃を領地化した時と同じように、遠江・三河を領地に編入することが第一目的であって、その結果上洛できる条件が整うなら、実行に移すという考えではなかったかと思う。

 つまり、信玄の上洛は、徳川軍が武田軍の軍門に下り、その戦力が武田軍に加わるということが条件であったのではないかと推測している。
・三方ケ原の戦いでは、両軍の対峙が長く、開戦時間が夕刻と言っても良い頃になった。
・敗戦の程度の割に、徳川軍の武将の死者が少ない。
・三方ケ原の戦いの後、浜松城に対して包囲攻城戦が行われていない。
この様な疑問に対する答えとして、信玄が家康を武田軍に組み込むことを考えていたと見ている。



 
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この回答へのお礼

>他の回答者の方々が指摘していない点について

質問者からしますと、ご回答の内容の確度に加えて、こういう細かなご配慮があること自体とてもうれしく思います。

お寄せいただいた兵站を視点とするご考察もさすがだなと思う次第です。あつく御礼申し上げます。

お礼日時:2014/04/09 21:18

勝てたかは分かりませんが、当時の武田軍は織田に劣らない鉄砲隊がいましたので、鉄砲の威力を知らない勝頼が真っ向から織田の鉄砲隊に突撃して柵で食い止められて三段撃ちで壊滅したというのはフィクションだそうです。


むしろ信玄も勝頼も鉄砲の恐ろしさはよく理解していたそうですね。
ではなぜ信長に負けたかと言えばシンプルに戦略の差ではないかと。
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この回答へのお礼

なるほど!

何時の世も「わかってる」ことと「実行できること」の間には天地の開きがあるということなんでしょうか。

勉強になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2014/04/09 21:12

そもそも武田信玄は長篠に来ない。



理由1
信玄の最大遠征距離は200キロ
※ 下記は最短距離(三河方面では駿府経由)だが信州経由でも+20キロ程度

理由2
1573年から1575年の間に近畿地方は信長の圧倒的優位で情勢が変化している。
※ 信玄が死んだので信長が動きやすくなったという点もあるが、勝頼も積極的に遠江・三河に攻勢をかけており東からの圧力という意味ではあまり変わっていない。

理由3
長篠の戦いの起因は、武田家による奥三河支配の弱体化(奥平家の離反)となっており、信玄が死んでいなければ、奪回戦としての長篠攻略は発生しない。



甲府 = 小田原
約100キロ

甲府 = 野田城
約200キロ

甲府 = 善光寺
約150キロ

甲府 = 土岐市
約200キロ

春日山 = 小田原
約320キロ


甲府 = 長篠
約200キロ

岐阜 = 長篠
約115キロ

浜松 = 長篠
約35キロ

(1573年)
三河野田城、武田信玄に降伏。
武田氏は西上作戦の途上で三河から撤退し甲斐へ帰国。信玄は帰途の信州で死去。
信長、足利義昭を放逐、室町幕府の滅亡。
朝倉義景が織田信長に攻められ自害(一乗谷城の戦い)
浅井長政が小谷城を織田信長に攻められ自害(前日には父の浅井久政も自害)(小谷城の戦い)
松永久秀が織田信長に降伏
1574年)
越前国で一向一揆(越前一向一揆)、守護代桂田長俊が自害
長島一向一揆が鎮圧される
1575年)
三河国長篠城を武田勝頼が攻囲
設楽原で織田信長軍と徳川家康軍が武田勝頼軍と激突、武田軍が敗走(長篠の戦い)
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この回答へのお礼

>そもそも武田信玄は長篠に来ない。

スマホで最初の一行を読み、よくありがちな「歴史にifはありません」的な回答を寄せてきたのかとカチンと来たわけですが。(笑い)

その後の地政学的な距離の概念を持ちだしてのお話になるほどなあと感じ入る次第です。

ご回答をお寄せいただいてありがとうございます。

お礼日時:2014/04/09 21:15

勝てたでしょ


長篠で武田が負けたのは信長の鉄砲のせいじゃありません
大将が勝頼だったからです

信玄が生きていれば勝てましたよ
当然信長が強化してくれば信玄はそれに合わせた対抗策で来たはずです
上杉謙信や北条氏康と組んででも信長と戦ったはずです

それに信長が甲斐に侵攻したのは 内部から武田を崩壊させてから
信玄の娘婿木曽義昌を寝返らせてからと言う下地を作っています
そうしなければ崩せないほど信玄が鍛えた甲斐は強かったんです


武田ほどの大勢力と当たるなら信長も総力戦でしょう
となると 織田家の諸将はほぼ出陣となります
戦力を甲斐信濃に投入すれば当然 中国の毛利・四国の長宗我部は織田領を狙うでしょう
そうなれば西と東から挟み撃ちで戦いどころじゃなくなります

そこまでの大きな視野で見ると 織田信長は武田信玄には勝てません
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この回答へのお礼

なるほど。壮大な政戦両面の大戦略ですね。
勉強になります。
ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/04/09 21:20

私は、勝てないだろうと思います。



信長は、戦力が相手の数倍になってから
戦争をしています。

桶狭間だけです。
相手よりも少ない戦力で戦ったのは。

信長ほど段取り八分を徹底している武将は
ありません。

戦う前に、勝敗は決している、というのが
信長の戦法です。

そうなる前には、平気で膝を屈することが
出来る人間です。
武田信玄に対しても、親と思う、なんてごますり
の手紙を出したり、豪華な贈り物を届けたり、と
プライドもあったものではありません。

こういう武将は強いですよ。
武田信玄が上手いのは、戦法だけです。
戦略は信長の方が上です。
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この回答へのお礼

ご回答をお寄せいただいてありがとうございます。
私も同感です。

お礼日時:2014/04/09 21:20

こんにちは。



武田信玄のファンって程ではありませんが…。
武田信玄が生きている時、信長は千挺しか鉄砲を持っていませんでした。
ローテーションを組んで撃つ事にしてはショボいですし、
戦う場所も違ったでしょう。
…って事で武田信玄に軍配が上がるでしょう。
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この回答へのお礼

当時は千挺しか持っていなかったんですか。
勉強になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2014/04/09 21:22

氏康ファンです。

小田原城を落とせるものなら、落としてみよ。

さて、信玄存命ということであれば、元亀3年から4年にかけて行われた西上作戦を論じなければなりません。一般にはあれは上洛作戦だったといわれています。
青崩峠から信玄本隊が侵攻、三河へは山県隊が入るルートは、東西に長い徳川領を分断する作戦ですし、秋山隊が東美濃に侵攻することで信長への牽制もバッチリです。史実では朝倉義景が兵を引いてしまったので信長に行動の自由ができてしまいましたが、もし朝倉義景が兵を引かなかったら、信長は完全に手詰まりになっていたでしょう。

・・・確かに手詰まりになったと思うんですよ、信長は。だけど、それが戦略的にどんだけ意味があるのかというとちょっと微妙なんす。信長は完全包囲をされても、清州―岐阜-横山のラインは保持できたんです。この範囲の中では信長本隊は行動自由です。
一方、信玄は伊勢に抜けるにしても少なくとも清州のラインは東西に突破しないと京都には行けません。信玄本隊は1万ちょっとの兵力ですし、何より長期行軍ができないのでどう考えても清州辺りが「攻勢限界点」なんですよ。信玄公がそれに気づかなかったはずがないですから、果たして本当に上洛を考えていたのか?
一方の信長からすれば手詰まりで完全に打つ手はなくなるのですが、手を打たないと破滅するかというとそうでもありません。最低限、美濃と尾張のラインを保持すれば破たんはしないわけです。結局、「時間がかかればかかるほど有利なのは信長」です。
そして信玄公の戦略というのは、信濃平定から西上野進出まで一貫してそうなんですが、負けないこと重視でまあはっきりいってどんくさい。信長や秀吉のような一気呵成にばあっというのはないんですね。まあそれは当時の軍事事情とかを考えれば電撃作戦というのは現実的には無理なんですが、そこから考えると、あの元亀時代の攻勢作戦は、せいぜい「家康を追い詰める」程度の効果しかなかったと思います。家康にとっては悪夢ですけどね。

では、長篠合戦まで行っていたらどうだったのか。
実は長篠合戦のときの双方の兵力は、武田軍1万5千に対し、織田・徳川連合軍は約4万の兵力を用意したといわれています。いくら名将信玄公といえど、倍以上の兵力と野戦をするほどバカじゃありません。ていうか、野戦指揮官としての能力は、私は信玄公より勝頼のほうが上ではなかったかと思っています。
長篠合戦のとき、信長は息子信忠の兵を弾正山の向こうに隠したというんですね。むしろ野戦を望んでいたのは信長で、信長が一番恐れたのは勝頼が決戦を回避して兵を引くことだったんです。
じゃあなんで勝頼は兵力に劣るのにわざわざ決戦に出たのかというと、実はこの頃手詰まりをしていたのは勝頼側で、勝頼としては「乾坤一擲の決戦で一発大逆転でもしないとジリ貧の現状が打開できない」というところだったんです。
熱狂的武田ファンのオヤジなどは「武田の1兵は織田の3兵に相当する」とあり得ないことをいってるのですが、仮にそうだったとしてもさ、「徳川の1兵は武田兵と互角」なのは三方ヶ原合戦で大敗を被りながら主だった武将を誰一人失わなかったことからも明らかです。徳川軍が8千だったとすると、武田軍の差引の兵力を仮に3倍にしても2万程度の数字になるんだからどの道敵わない。
長篠合戦の勝利は、「戦略家信長の勝利」であり、長篠に信長が到着した時点である意味勝利は決まっていて、勝頼には死亡フラグが立っていたのです。そして勝頼は「戦略の敗北を戦術的勝利でなんとかしようとした」わけであり、現実的に勝頼が信長に対して勝利ができるとしたら「野戦に持ち込んで勝つ」しかなかったと思います。

こと戦略家という点に立てば、戦国オールスターズの中での信長の戦略眼というのは他の追随を許さないものがあると思います。磯田道史氏はテレビ番組で「信長ってその場その場で打つ手はメチャクチャに見えるけど、終わってみたら『その手が正解だった』ということが多くて、凄まじい戦略眼だ」とおっしゃっていましたが、その通りだと思います。
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この回答へのお礼

里見家フリークを明言する質問者に対し、氏康びいきを語るとはふてえ野郎だ。お礼入力なんてできねえな!(嘘

……詳細な考察をお聞かせいただいてありがとうございます。

お礼日時:2014/04/09 21:11

勝頼が惨敗したのは、家臣団からの信頼を失墜していたためです。


その兆しは、信玄存命中から有りました。
嫡子を殺し、妾である諏訪氏の娘との間に出来た勝頼を後継者としたためです。
信長・家康連合軍側は、早くから武田の家臣達を籠絡し、決戦に備えていました。
その証拠に、武田滅亡後に家康の配下となった有力家臣は、1~2に止まりません。
信玄の死も、味方の裏切りかも知れませんし。
武田騎馬軍団は確かに強力でしたが、知略の上では今一歩でしたか?
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この回答へのお礼

非常に興味深いご指摘です。
大変参考になります。
ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/04/09 21:22

長篠も何も信玄が無事なら三方が原直後に撤退する必要がないわけですから根本的に戦場の想定が違うと思いますが。


あの時期は信長が腹背に敵を迎えていた時代ですから、勝頼が長篠の戦いをした時期より信長がずっと不利ですよ。

信玄が勝っていた可能性も多分にあるとは思いますが、正直信玄がどういう戦略行動をしていたかが全然読めないので何とも言えません。
遠江三河美濃に楔を打ちこんだうえで謙信の小田原侵攻のごとく相手の本拠地を荒らしまくって撤退するつもりだったのか、あるいは浜松を囲み遠江を攻略して制圧するつもりだったのか、それが成功していたのかしなかったのか、正直誰にも予測はつかないと思います。
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この回答へのお礼

誰にも予想がつかないので、伺ってみました。
歴史のロマンという奴でしょうか。(笑

ご意見をお聞かせいただきありがとうございます。

お礼日時:2014/04/09 21:23

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Q武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。

武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。
徳川家康は三方原の戦いでなくなっていたのではないでしょうか。
信玄が天下統一をできたとは思えませんが、戦で信長には負けなかったと思っています。皆さんどう思われますか?

Aベストアンサー

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと思います。
1573年4月、義昭が信長に降伏。
1573年7月、信長が義昭を追放。室町幕府滅亡。
まして、信玄がこの時重病(死亡)に陥り、武田軍が引き返すことがなければ、信長は一旦戻った岐阜城から再度上京し義昭と対峙することなく、武田軍と戦うことになる。
そうなれば信長は逆に篭城し、兵農分離されていない武田軍が一旦兵を引くのを待つか、あるいは打って出、武田軍、義昭をはじめとする信長包囲網の挟み撃ちにあい敗れる、または和平交渉した可能性が高い。

信玄があと5年生きていれば、
(1):徳川家が史実のような形で存続できた可能性は低い。
(2):武田家の世代交代も違う形になっている。
(3):1582年3月織田・徳川・北条連合軍の侵攻により、武田家は滅亡したが、(1)(2)であれば、違う形になっている。
(4):(3)の武田家の滅亡がなければ、1582年6月本能寺の変もない。

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと...続きを読む

Qもし武田信玄が長生きしたら・・・

武田信玄に関してお聞きしたい事があります。

私は数多くいる戦国武将で武田信玄が一番好きです。
ただ52歳で亡くなっており、短命でした。
京都に軍勢を進める最中に亡くなったのですが
もし信玄がもっと長生きして、三方ヶ原で徳川家康を
打ち破った後、織田信長と戦さになったとしたら
どちらが勝ったでしょうか?

織田信長を討ち滅ぼし、武田の世の中になった可能性はありますか?

また武田信玄の一番優れている所はなんでしょうか?

それから武田信玄と言えども、かなり悪い事もした様です。
皆殺し、人質を売ったり等…
これは事実なのでしょうか?

皆さんの予想をお聞かせ下さい。

Aベストアンサー

武田軍団が織田軍を破ったとしても『天下人』にはなれなかった。と思います。
何故なら武田軍団のみで織田勢力の領地を統括する事は物量的に無理がある。と判断するからです。
何より武田の本拠地は甲州で、京とは距離が在り過ぎます。
信長の様に京周辺で事態が起こった時即座に対処出来ません。
つまり、信玄が京都に居る間は周辺の小勢力は大人しくしているでしょうが、一旦京都を離れたら武田には従わなくなる事が予想されます。
信玄が本拠地を甲州から動かす事は主力となる軍勢を捨て新たに軍団を再編成しなければなりません。
そうなると他勢力に対抗する為の力が0になるか、もしくは畿内での小勢力を拠り集めて力を再建するしかありません。
旧来の武田軍団の「鉄の結束」が畿内勢に適用出来るとは思えない故に信玄は「天下人」にはなれない。
成れたとしてもその地位を維持出来ない。と推測します。

仮に信玄と信長の直接対決が成ったとして戦場は美濃の岐阜城周辺
全軍団を美濃に集結させられない程敵に囲まれた信長とは言え、不要な戦闘は避け、動員出来るだけの兵と鉄砲で岐阜城に立て篭もれば信玄とて足踏みせざるを得ないハズ。
そうやって時間を稼いで北条や上杉に武田の背後を脅かす様にもっていけば、事態は信長有利に働きます。
ましてや武田軍は遠征軍ですから兵站の確保に難があるのは明白。
三河で家康に止めを入れていないのですから兵站の運ぶにも障害が0%になった訳でもありません。
信長も苦しいでしょうが、信玄も一気決戦に持ち込めない場合は相当に厳しい状況に追い込まれます。
また、信玄が信長の首を上げたとしても、信長包囲網の一翼を担った「将」の立場であり、足利義昭が信玄を如何に扱うか?は推して知るべし。です。
つまり、武田軍団としては犠牲は多いものの信玄自身が即天下人になれる保障はどこにもない。と言う訳です。

小生が武田信玄の一番優れていると思う点は「工夫により」破綻寸前の後進国甲斐一国から『戦国時代最強』と言われる軍団を作り上げた手腕です。
信玄が甲斐の事実上の宗主になった時の国の実情は相当に厳しいモノでしたが、天下に認められる程の軍団を創出するに至りました。
クセのある軍団ではありますがその強さは天下屈指。
信長の様に経済力で押し切るのではなく、様々な工夫を凝らし軍団を運営増強していった所は素晴らしいと思います。

武田軍団が織田軍を破ったとしても『天下人』にはなれなかった。と思います。
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つまり、信玄が京都に居る間は周辺の小勢力は大人しくしているでしょうが、一旦京都を離れたら武田には従わなくなる事が予想されます。
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Q武田勝頼体制はなぜあそこまで脆かった?

武田勝頼は人間的にも問題なく、能力は高かったとの話を聞きますが、家督をついでからは裏切りが多くて、長篠の戦い以後はさらにそれが加速して組織はがたがたでしたね。。
出生が良くなくて繰り上げ当選で家督についたということと、もともと武田は中央集権体制ができてなかったこともあるのでしょうが、それは
上杉景勝だって家督相続の時に泥沼化して、武田と同じく越後の国の豪族連合の盟主的な立場から脱してなくて同じことですよね。

なぜ他の大名家に比べて武田勝頼の元での組織は脆かったのでしょうか?

Aベストアンサー

「勝頼は信勝の陣代」という話は甲陽軍鑑にその旨書いてあるだけで、他に裏づけとなる史料はなく、学問的には否定されています。武田家の家督は信玄から勝頼に引き継がれたことが全ての一次史料で一致しております。

さて、武田家の滅亡は、天正10年(1582年)正月の末に武田領国の西端で織田領の美濃と接する地域を領する木曽義昌(武田信玄の娘婿、武田家の一門待遇)が織田家に寝返ったことで始まりました。

ところが、その前年の11月に、駿河戸倉城の松田新六郎という武将が、北条家から武田家に寝返っている史実があります。
※ 岩波新書「武田信玄と勝頼」197ページに記載。
http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/31863126

この松田新六郎が、武田家の滅亡後にどうなったのかは分かりませんが、1581年末の段階でも、武田勝頼の勢力はとりあえず揺るぎないもの、北条家を捨てて武田家に寝返るに足るものと認知されていたということを示します。

武田家があまりにも急速に崩壊した理由ですが、

(1) 木曽義昌、穴山信君という二人の「信玄の娘婿」が、いち早く織田・徳川に寝返ったこと。
穴山信君は、武田家の中でも有数の知行と兵力を持ち、江尻城主として駿河を預かっている立場でした。この穴山が裏切ったとなれば、徳川と北条の連合軍が駿河から甲斐へ一斉に攻め込んでくることになります。

木曽義昌の寝返りと共に、織田信忠が率いる織田主力軍が伊那方面から武田領国に侵入し、3月2日に高遠城を攻め落として諏訪付近に達しました。この段階で武田領国は甲斐と信濃の二つに分断されたことになります。後は「掃討戦」となり、勝頼とその一家は3月11日に天目山で織田信忠麾下の滝川一益の軍勢に討ち取られました。

ここまで迅速に武田家が崩壊した理由ですが
「木曽殿と穴山殿が武田家から離反した以上、武田家に織田・徳川・北条に戦う力は残されていない」
と武田麾下の諸武将が判断した結果といえます。実際その通りでした。
ただ、木曽と穴山の寝返りを受け入れた織田信長が、他の武田諸将の寝返りは受け付けず、降伏して出てきた武田諸将をことごとく処刑したのは予想外だったと思いますが。

(2) 1582年、本能寺の変がなければ、他に3つの大大名が織田家に潰されるか軍門に下ることが確実でした。

越後の上杉景勝:
武田家の滅亡後、北陸を進んで能登と越中を制した柴田勝家率いる「織田家北陸方面軍」が、本能寺の変の当日に越中魚津城を攻略し、越後に乱入する所でした。
上杉景勝は、魚津城を救援するため出陣しようとしましたが、武田家の滅亡によって織田領となった信濃の北部から、別な織田軍(森長可など)が上杉家の本拠地の春日山城を襲う恐れがあり、動くことができませんでした。
同時に、上野にいる滝川一益が、三国峠を越えて越後に攻め入る構えを見せていました。旧暦の6月、真夏ですから、冬は雪に閉ざされる三国峠も容易に通行できます。小田原の北条氏は、明確にではありませんが織田家の軍門に下った状況でしたので、一益の越後侵攻を妨げる者はいません。
本能寺の変がなければ、越後一国を領するに過ぎない上杉景勝は、恐らく武田家よりもっとアッサリと織田の大軍に三方面から押し潰されていたでしょう。

中国の毛利輝元:
本能寺の変の時、備中高松城は羽柴秀吉率いる「織田家中国方面軍」の水攻めを受けていました。
毛利輝元・小早川隆景・吉川元春が率いる毛利のほぼ全軍が救援に来ていましたが、高松城を包囲する築堤と水が障害になること、「織田家中国方面軍」と兵力が近似していたこともあり、毛利家側は手を出せない状況でした。
この状況で、信長が「毛利を倒す時が来た。畿内にいる明智光秀以下の諸将を信長自らが率いて出馬する」と決断し、その準備のため京都の本能寺に滞在している時に起きたのが本能寺の変です。
本能寺の変がなければ、信長率いる主力部隊が備中に到着するという知らせと前後して備中高松城が陥落し、毛利軍は安芸へ退き、羽柴秀吉に領国の大幅割譲を条件とする和睦を申し出たでしょう。実際、高松城の包囲戦の段階で和睦交渉が進んでいました。
この和睦は、毛利家の領国の過半を信長に譲る過酷な者であったとされています。

四国の長曾我部元親:
元親は四国全体を概ね勢力下に収めていましたが、織田家の四国遠征軍(織田信孝、丹羽長秀)が本能寺の変の時点で大坂に集結し、まさに淡路島経由で四国に渡ろうとしていました。

四国には織田方についている三好氏の勢力があり、スムーズに渡海が出来たでしょう。元親の勢力は60万石程度と見積もられますが、織田軍の前では「鎧袖一触」に潰されたはずです。

(3) 本能寺の変がなければ、歴史には
「1582年 織田信長が武田勝頼と上杉景勝と長曾我部元親を滅ぼし、毛利輝元を降伏させた」
となったはずです。

この結果、毛利家と北条家を麾下に従えた織田家の勢力は、
東は越後、上野まで
西は長門と四国全域
まで広がり「残すは奥羽と九州のみ」となったはずです。

武田家滅亡後に、織田家が3つの大大名を同時に滅亡させる(降伏させる)体制に入っていたことから分かるように、1582年の織田家の兵力は、他の大名家の数倍に上る隔絶したものでした。ちょうど、今日のアメリカ軍のようなものです。

仮に武田家の諸将が叛かずに最後まで勝頼と共に戦ったとしても勝ち目はなかったと言えましょう。

「勝頼は信勝の陣代」という話は甲陽軍鑑にその旨書いてあるだけで、他に裏づけとなる史料はなく、学問的には否定されています。武田家の家督は信玄から勝頼に引き継がれたことが全ての一次史料で一致しております。

さて、武田家の滅亡は、天正10年(1582年)正月の末に武田領国の西端で織田領の美濃と接する地域を領する木曽義昌(武田信玄の娘婿、武田家の一門待遇)が織田家に寝返ったことで始まりました。

ところが、その前年の11月に、駿河戸倉城の松田新六郎という武将が、北条家から武田家に寝返ってい...続きを読む

Q大阪の陣のとき、豊臣方は負けずにすんだのでは?

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官である淀の方を精神的に
追い詰め、和睦に持ち込んだと聞きます。
大砲はめったに当たることがなかったものの、運悪く居間に落ちたものが次女数人をバラバラにして、淀の方を恐怖させたとか、柱が折れたとか。

しかし、大砲が何発撃たれようが無限ではないのだし、滅多にあたらないため大阪城の防御力を下げたり、落城させたりするような威力まではなかったと思うので、私としては、最後まで戦っていれば豊臣方が勝っていたのではないかと思うのです。。
(運悪く、淀の方のいるところに弾が落ちて、命を落とす可能性もありますが、その確率は低いと思います。精神力の戦いだったと思います)

jこの考え方について、どうでしょうか?
ご意見等、お願いします。

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官であ...続きを読む

Aベストアンサー

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
そもそも徳川方は真田丸での敗北後に神経戦を仕掛けるようにしています。
夜に鬨の声を上げたり、鉄砲をうちかけ大阪方を眠らせないようにし、さらに大砲での攻撃です。
兵の士気をどうやって維持するのか…

一方、徳川方は兵糧不足に悩まされた事もあるようですが、これは一時的な混乱という説もあります。京を遠く離れた遠方ならともかく大阪近辺は堺など港も多く商業地帯としても発展していましたから、兵糧の確保も一旦、道筋をつければそう難しくないかと思います。

ただし、豊臣方が籠城で持ち堪えるのは難しくても、作戦によっては勝てたのではないかと思います。

そもそも「夏の陣」でさえ、真田幸村と毛利勝永らの活躍により徳川方は叩かれ、家康本陣は崩れ、三方が原の敗戦以来、初めて馬印が倒され、家康も敗北を覚悟し切腹をしようとしたという話があるくらいです。
もし豊臣秀頼が出陣し全ての予備兵力を戦線に注ぎ込んでいたら…
もし明石全登の別働隊の作戦が成功していたら…
豊臣方は家康の首をとり状況は大きく変化し勝利する事ができたかもしれません。

そういう事を勘案すると、もし「冬の陣」においても、籠城するばかりでなく機を見て南の家康本陣に対し攻撃に出ていたらどうなったか…
徳川方は大阪城の四方を囲みました。
浅野、蜂須賀、鍋島、上杉、佐竹等は東、西、北に配置されており、南に徳川方の全軍がいたわけではありません。
確かに南の家康本陣は厚いです。前衛には前田、伊達、藤堂らもいました。
しかし、兵力の減った「夏の陣」でさえ正面攻撃で家康を追い詰めたのです。
ならば「夏の陣」より兵力の多い「冬の陣」において乾坤一擲の突撃を茶臼山の家康本陣に向け行えば、あるいは家康の首をとれたかもしれません。
ちなみに真田幸村は12月20日に家康本陣への奇襲を進言しましたが採用されませんでした。

「冬の陣」では籠城策よりも、籠城策からの野戦への転換ならば豊臣方にも勝利の希望はかなりあったのではないかと思っています。

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
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Q関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

小早川秀秋がもし東軍(家康側)に寝返らなかったら関ヶ原の戦いは西軍(石田三成側)の勝利となっていたのでしょうか。
小早川秀秋は家康から寝がいりを要求する手紙をもらっていたらしいのですが。
もし寝が入り、の決断をできなかった、もしくは家臣に反対されて西軍を裏切らす東軍と戦ってた場合

関ヶ原の戦いの結果はどうなっていたのでしょうか
あと裏切りという作戦を家康が立てていたのですが
裏切ってくれなかったとしたときのために
家康は何か策でも立てていたのでしょうか

皆様の考えをどうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮していたら家康も無謀な関ヶ原の野戦にでることはなかったでしょう。義弘の朝鮮の役の活躍や関ヶ原以後の対島津の扱いから見ても誰もが納得できるでしょう。
 後一つは、立花宗茂がいたらです。小早川を大津に残し立花を関ヶ原につれてきていたら、宇喜多と立花、島津と並んでいたら、西軍の勝ちになるでしょう。
 といっても、石田は、小早川に(関白)を約束していたので決戦場にいないわけにはいきませんね。結局これも実現の可能性はゼロです。
 ただ、一つ重要な点は、徳川軍本体は強かったかと言うことです。秀吉に対抗した当時までは、徳川は最強でした。でも、関ヶ原前の20年くらいは大きな戦争もなく人数はともかく経験不足でとても精強とは言えない武士団でした。もし、徳川本体が戦って強くないことがばれたら本当に大変なことになるところです。
 いろいろな書籍を読んでみてもホントにうまく進めた物です。家康という人物の戦略眼と組織作りは見事です。最終勝利者というのでしょうね。参考になります。

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮し...続きを読む

Q戦国大名の最大版図

タイトル通りなのですが、戦国大名の最大版図の石高がどれくらいになったのかが大変興味があります。

関ヶ原後の石高はかなり有名なのですが、その前に最大版図を迎えた武将も多いと思います。

人数が多いですが下に書いてある武将の石高を教えて頂けると幸いです。


・伊達政宗
・北条氏直
・上杉謙信
・上杉景勝
・武田信玄
・徳川家康
・豊臣秀吉
・織田信長
・柴田勝家
・明智光秀
・長宗我部元親
・毛利元就
・毛利輝元
・島津義久


人数が多くて申し訳ありません。

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせると30万石を越える程度はあったようです。

上杉謙信
越後の半分程度が直接的に支配できているところなんだとは思います。
揚北衆と呼ばれる(本庄、色部、新発田)勢力は北越後の広大な範囲を領地にしていましたが、家臣という感じではなく「協力者」というイメージが近いです。勝手に外交したり人事権も及ばない状態でしたから。
そういう独立勢力を束ねて越後、北関東、越中、能登まで支配している感じです。最大版図は私もどこまで含めて良いのかさっぱりわかりません。
味方と言い切れない独立勢力が大勢いるということです。

信長、秀吉、家康のそれぞれの時代によって最大版図のとらえ方も様々に違っているようには思いますね。

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせ...続きを読む

Q織田信長が本能寺の変で死ななかったらどうなっていたでしょうか??

織田信長が本能寺の変で死ななかったらどうなっていたでしょうか??
個人的には信長が天下統一をして、他の国を侵略していたんじゃないかと思います。
(すぐに病死したなどはやめて下さい)実際塩分を取りすぎて健康ではなかったようですが・・・

Aベストアンサー

 織田信長の経済感覚や「天下布武」と言うスローガンから見て、もしあと20年、信長が生きていたら相当違った世界があったでしょう。

 信長の過去の方針や、商業振興による富の蓄積・天下平定による武士の余剰(秀吉の朝鮮出兵や徳川家による大坂の役・大名の取り潰しなどはその影響という説も。)からみて、フィリピン・東南アジアへの進出はかなり大規模であったと考えられますが、他国への侵略という面の支配ではなく、当時のヨーロッパ諸国がやっていたような植民都市建設=貿易拠点整備という形で、既に出来上がりつつあった東南アジアの日本人町をネットワーク化していったのではないかと思います。(経済感覚が並外れた政治家である信長ですから。)


 信長の行動から見る限り、天下布武とは、武士だけに当てはまるのではなく、常にその分野で革新的・積極的(=戦闘的)であり続けることを意味しているように思います。

 宗教であれば、より哲学的で民衆救済に努力し続けるものを良しとする。
 商人であれば、より安く安定した物資供給を目指す者を良しとする。
 農民であれば、開墾・治水に努力し、より多くの収穫を目ざす者を良しとする。

 つまり、今の自由主義のような、貿易・経済活動を目指していたと思われます。

 また戦争がなくなっても、織田軍団は得意の土木工事(豊臣政権に引き継がれます。)をする公共・インフラ整備部隊として(ローマ帝国の軍団がそうでした。戦いのないときは、都市建設・道路・水道・港湾整備などの公共工事をやっていました。)全国展開・海外進出したと思われます。

 更に一つの夢物語ですが、アメリカ西海岸への植民が行なわれたかもしれません。1620年、イギリスからアメリカへメイーフラワー号に乗っていった移民が、今日のアメリカ合衆国の基礎となる移民の始まりとされています。

 信長が本能寺で死ななければ、1585~90年ごろには、日本全土の統一は十分可能ですから、1595年頃からアメリカに移民が始まり、1650年ごろには、アメリカ西海岸に広大な日本の植民地が出来上がっていたかもしれません。(日本からアメリカは、ヨーロッパから行くより大分遠いのが難点ですが・・・)
 新大陸に、アジア系仏教国が出来ていれば、世界史における白人・アジア人種の立場が逆転した世界になっていくはずです。

 織田信長の経済感覚や「天下布武」と言うスローガンから見て、もしあと20年、信長が生きていたら相当違った世界があったでしょう。

 信長の過去の方針や、商業振興による富の蓄積・天下平定による武士の余剰(秀吉の朝鮮出兵や徳川家による大坂の役・大名の取り潰しなどはその影響という説も。)からみて、フィリピン・東南アジアへの進出はかなり大規模であったと考えられますが、他国への侵略という面の支配ではなく、当時のヨーロッパ諸国がやっていたような植民都市建設=貿易拠点整備という形で、既に...続きを読む

Q武田信玄は優秀か

信長の野望などの歴史ゲームでは武田信玄の評価がきわめて高いのですが、信玄は本当に優秀な人物だったのでしょうか。私としてはかなり疑問です。
以下少し長くてすいませんが私の考えも述べます。
まず政治家としてですが、諏訪よりしげを特段の理由もなく暗殺してますが、このようなことをすると後々政治家として信用されなくなりまとまる話もまとまらなくなり、調略もうまくいかないと思います。父親を追い出しているのも汚点です。儀に厚い(?)謙信からもかなり憎まれてます。
騎馬軍団も強かったかもしれませんが、隣の謙信との川中島の戦いでかなりてこずっていて断トツで最強だったとはとてもいえないと思います。勝頼が長篠の戦で惨敗してますし。
彼ははやくも20才で大名になりその後30年近く大名として政治を行ったわけですが、期間が長い割りにあまり勢力が大きくなってないような気がします。
というわけでなぜ彼が極めて高い評価を受けているのかよくわかりません。ご意見お願いします。

Aベストアンサー

ゲームでの評価は別として
1.諏訪頼茂と講和後謀殺したのは頼茂自身に謀反の動きもあり、また諏訪は要衝の地で確保しておく必要もありました。 
戦国期このような行為は日常茶飯に行われていて意外でもなんでもなく、とくに汚点となるものではありません。
従って信玄の謀略を嫌う事なく、足利義昭なども同盟を申し込んでいます。

2.父親を追放したのは臣下の信望もなく、甲斐経営の意志も弱く、そのままでは国を保てなかった為でやむを得ない事情があったのです。
家臣達も同様の意見でしたから追放後信玄を国主としてよく補佐したのです。
勿論潔癖な上杉謙信などは嫌ったでしょうが。

3.信玄は治水や直線的軍道の建設、金山の開発など領内の統治に気を配り、領民の信服も厚く甲斐の内に城を築く必要はないほどでした。 領土を拡大して甲斐の中では戦争もない平和を維持し続けたのです。

4.信玄の軍の統制手段は特に優れていて、戦闘中も陣立ての変更を整然と行われる程で敵将をうらやませました。 手足のように軍勢を動かすので後に徳川家康は武田家滅亡後、武田の遺臣を多数召し抱えその軍制を採用し、先手を勤める井伊直茂に集中配備し朱色の具足で井伊の赤備えと恐れられた位です。

5.上杉との戦いは能力伯仲で、当時の上杉軍の強さは有名でしたから互角の戦いは当然といえましょう。

ゲームでの評価は別として
1.諏訪頼茂と講和後謀殺したのは頼茂自身に謀反の動きもあり、また諏訪は要衝の地で確保しておく必要もありました。 
戦国期このような行為は日常茶飯に行われていて意外でもなんでもなく、とくに汚点となるものではありません。
従って信玄の謀略を嫌う事なく、足利義昭なども同盟を申し込んでいます。

2.父親を追放したのは臣下の信望もなく、甲斐経営の意志も弱く、そのままでは国を保てなかった為でやむを得ない事情があったのです。
家臣達も同様の意見でしたから追放後...続きを読む

Q北条氏はどうして秀吉に最後まで逆らいましたか?

秀吉の天下統一は北条攻めにより完成しました。
北条氏はどうして最後まで秀吉政権に屈しようとしなかったのでしょうか?
周囲が次々と秀吉側に組してゆくわけですから、とても危険な状況ではなかったのでしょうか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

北条氏の問題は、成長している最中であったこと。しかも、数年で急激に成長したのではなく、時間をかけて成長したこと。ここが、他の大代妙と違う点です。
戦国大名はおしなべて、実は家臣団の連合体という側面が実は強い。大名のトップが、「負けました」と宣言したら、家臣団に殺されます。

豊臣家に頭を下げたのは
徳川家:1582年以降に駿河・甲斐・信濃など急激に膨張
長宗我部:1585年に四国平定、そして四国征伐が同年
島津家:1584年の沖田畷の戦いで、九州のNo1へそして九州平定へ
伊達家:1589年、摺上原の戦いで、芦名氏を滅亡させ、奥州No1に
上杉家:1582年、信長に潰されるカウントダウン状態
毛利家:1582年、信長に潰されるカウントダウン状態

など、信長に潰される直前で、家臣団として「潰されるより、頭を下げましょう」という合意がなされやすい状況であったケースと、直前に領土を拡大させ、まだまだ、本領としてしっかり統治できていなかった(捨てても、まぁ いいやと諦められる)領土の大きかった大名家です。家臣団も、しょうがないやと思える。

ところが、北条家は、五代にわたってじわりじわりと領土を拡大し、五代目氏直の段階で、史上最大の領土を確保したところでした。
※ 氏政・氏直の無能論というのがありますが、領土を拡大させたという意味では有能であったといえます。
ただ、100年かけて獲得した領土なので、家臣団はギブアップ宣言ができない、しかも、毛利家における宇喜多家のように、新参の半分同盟国のような扱いの家臣団でなく、重代の家臣団であり、結束が強いがために、氏政・氏直としても、簡単にギブアップできなかった。
ということではないかと

北条氏の問題は、成長している最中であったこと。しかも、数年で急激に成長したのではなく、時間をかけて成長したこと。ここが、他の大代妙と違う点です。
戦国大名はおしなべて、実は家臣団の連合体という側面が実は強い。大名のトップが、「負けました」と宣言したら、家臣団に殺されます。

豊臣家に頭を下げたのは
徳川家:1582年以降に駿河・甲斐・信濃など急激に膨張
長宗我部:1585年に四国平定、そして四国征伐が同年
島津家:1584年の沖田畷の戦いで、九州のNo1へそして九州平定へ
伊達家:1589年...続きを読む

Q長篠の戦いに負けた理由

武田軍は何故長篠の戦いで敗れたのでしょうか?
これまでは織田軍の3000丁の鉄砲の一斉射撃で馬場・山県など名だたる猛将が討ち死にして壊滅し敗れたと言うのが定説でした。
しかし最近では長篠の戦いで鉄砲の一斉射撃は無かった説が有力となっています

とすればです
いくら信玄亡き後の武田家とは言え高坂・山県・飯富・馬場などの武将が健在であり
完全に織田軍を凌駕していたはずの武田軍は一体何故負けたのでしょうか?

鉄砲がなければ騎馬隊こそが最強ではなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

簡単に言ってしまえば戦力差です。
長篠合戦時の両軍の戦力については諸説ありますが武田軍は1万5千、これに対し織田・徳川連合軍はその2倍を大きく越える3万8千人と言われています。
これだけの戦力差があれば個々の質の差は殆ど問題になりません。

それではこの戦力差でなぜ武田軍が戦ってしまったのかですが、これについて「信長の出方を見誤った」のと「信玄以来の宿老衆と勝頼および勝頼が抜擢した若手の将との意見対立」の二つの要因があると言われています。
信長は前年までは第二次織田包囲網の最中で戦力が不足しており、武田方との大規模な戦闘は避けていたのですが、長篠の合戦時にその包囲網はほぼ崩壊しており、武田軍との決戦を行うだけの戦力を整える事が出来たのです。
しかし武田方は前年までの経験則から、織田方がこれだけの戦力を投じてくる事を想定していなかったと思われます。

戦力差を知った時点で当然、武田方でも意見対立が発生した事は間違いありません。
資料によっては宿老衆が「撤退」を唱える中、勝頼が側近の意見を入れて決戦を挑んだとするものもありますが、むしろ宿老衆も勝頼側近もそんな単純な図式ではなく、いずれも意見がまとまらない中で勝頼がやむなく決戦の断を下したと考えた方が自然でしょう。

そして決戦の最中、長篠城の包囲が破られて背後を脅かされた事を知った勝頼は撤退を決断します。
この場合、ある程度の犠牲を覚悟で一度、総攻撃をかけて敵軍の一部を切り崩し、敵軍が体勢を立て直している間に撤退するのが常識的な戦法であり、勝頼もその指示を下したでしょう。
しかし宿老衆と勝頼が意思疎通を欠いていたとしたら、この指示の意図が正確に伝わらず、宿老達が自殺的といえるほどの無謀な突撃に転じてしまったことは十分にあり得ることです。
長篠の戦いにおける武田宿老衆の多大な犠牲はこのように生じてしまったと考えられます。

簡単に言ってしまえば戦力差です。
長篠合戦時の両軍の戦力については諸説ありますが武田軍は1万5千、これに対し織田・徳川連合軍はその2倍を大きく越える3万8千人と言われています。
これだけの戦力差があれば個々の質の差は殆ど問題になりません。

それではこの戦力差でなぜ武田軍が戦ってしまったのかですが、これについて「信長の出方を見誤った」のと「信玄以来の宿老衆と勝頼および勝頼が抜擢した若手の将との意見対立」の二つの要因があると言われています。
信長は前年までは第二次織田包囲網の最中で戦...続きを読む


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