上杉謙信は「生涯不犯」を称して一生正室も側女も置かなかったと言います。
実際、「謙信の正室・側室」や「謙信の実子」は存在が確認されていないようですが、「子供は多ければ多いほど良い」戦国大名が、女に生涯接しないとは極めて異常かつ損なことと思われます。現に、謙信の死後は相続を巡って「御館の乱」が起き、上杉家に著しいダメージを与えています。
ついては、
1. 謙信が「自分は生涯不犯を通し、婦人と接しない」と言明した手紙やそのように記した文献は存在するのか?「生涯不犯」という一般に流布している言葉は何が出典なのでしょうか?
2. 謙信は最初は仏門に入っていて、還俗して長尾家を継いだと記憶します。その後、「生涯不犯」を通したとされていますが、「謙信公が一度だけ当家の娘と懇ろになり、その結果のご落胤」といった伝承は存在しないのでしょうか?
3. 謙信はなぜ「生涯婦人と接しない」などという、戦国大名として極めて非常識なことを思いつき、実行したのでしょう?
宜しくお願いします。
No.4ベストアンサー
- 回答日時:
1.戦国時代の色々な話、及び文献・資料を収集・編集して1698年に成立したとされる「北越軍談」には、謙信について、「発願の趣旨有て女色を禁じ、一生不犯たる故、実の継嗣なし」と記されています。
2.ご落胤の話は聞きませんが、恋の話なら3人の女性の名前があがっています。
直江実鋼の娘と、関白近衛前嗣の妹の絶姫と、上野国の武将、千葉采女の娘、伊勢姫です。この中で特に伊勢姫との別れ(死別)は、謙信にとりショックだった為、この時、生涯結婚はしない事を誓ったという話もあります。
3.一般的には戦勝祈願の為に不犯の願掛けをしたと言われています。
私の考えでは、謙信は武将という立場だけでなく、僧でもあったから、不犯という考えが出たのだと思います。謙信は幼少の頃に一度仏門に入り、後に還俗しています。還俗はしても、仏道を捨てた訳ではなく、それどころか厚い信仰心を維持していました。戦にも神仏像を複数伴ったほどですし、陣中には護摩堂を作って祈っています。敵地にある神社仏閣にも詣でていたと言われます。
それどころか、27歳の時には、国主の座を捨て出奔し出家しようともしました。謙信は僧ではなくても、とても信仰心の厚い人だったのです。
結局、国主の座に就いたまま、1574年には高野山から法印大和尚に任じられ、正式に僧になって剃髪しています。これ以降、謙信は、侍女さえ身辺に近づけていません。
ちなみに高野山は女人禁制であり、開祖の弘法大師は生涯妻帯する事はありませんでした。
謙信は、そうした仏門、宗派の影響を色濃く受け、武将としてだけでなく、僧としても生きていた為、生涯不犯という考えが出てきたのではないかと思います。
上杉家の後継者については、実子がいなくても養子がいれば充分と考えていたのではないでしょうか。「御館の乱」は謙信が急死したから起こった結果に過ぎません。急死するような事がなければ、景勝か景虎か、きちんと後継を決めていたと思います。
ご回答ありがとうございます。
(1)について出典を教えて頂きありがとうございます。
(2)については確かな情報ソースはあるのでしょうか?
(3)謙信の「生涯不犯」は真言密教への深い帰依によるもの、というご説明ですね。
鎌倉時代から戦国時代には、武士が「入道」して法体になることはごく普通でしたが、社会生活・家庭生活は入道の前後で何ら変わらなかったようです。何のための入道なのか現代人には良く分かりません。
信玄も謙信同様に比叡山から「大僧正」の僧としての最高位も得ていますが、あくまで「入道」の域を出ず、入道後に当たり前のように子供が生まれています。それが当時の常識です。
謙信の場合、若年の時から真言密教の信仰篤く、
「1574年には高野山から法印大和尚に任じられ、正式に僧になって剃髪」(44歳、死の数年前ですね)
の後は「入道では在家の僧」という心境だったのでしょうか。
今回、諸賢のご回答を得て、上杉謙信という武将の「異常性」がより良く理解できたように思えます。ついて行けない家臣が続出するのも納得ですね。
No.6
- 回答日時:
私と、質問者さまのレベルの違いは、よく、わかっていますが、3のみ回答することをお許しください。
謙信は、天下を取り、上杉家が日本を治めるという心根が薄かったのだと思います。
戦いの末の土地の切り取り、利権をわが子にという、欲望の権化のような、他大名とは、一線を画したかったのでは、ないでしょうか。
わが子を設けてしまえば、その可愛さから、志が萎えることを畏れたのかもしれません。
朴訥な土地の生まれですから、女性に興味なしで、生涯不犯の願掛けなどは、しないと思います。
不能説も、女性説も、初恋破局説も退けたいと思います。
かけがえのないものを葛藤の中で、退けてこその「願」だと、信じていたのだと思います。
生意気なことを言って申し訳ありません。
聞き流してください。
No.5
- 回答日時:
NO.4です。
私のお答えした2.についてですが、1600年代に書かれた「越後軍記」「上州治乱記」、成立年不明の「松隣夜話」という文献に、そうした記述があるそうで、後世に謙信の恋について書かれた本は、そうした文献を拠り所にしているそうです。
あと謙信が真言宗の僧になったのは晩年ですが、若い頃より色々な宗派を学んでおり、その時、真言宗の和尚から真言密教を学び、その中に「女犯戎」「肉食妻帯戎」という戒律があり、これを謙信は守ったと「上杉年譜」という文献にはあるそうです。
補足を頂きありがとうございます。正直、戦国時代といわず江戸時代でも「武士や大名と『恋愛』というものは無縁のもの」だったように思いますので、謙信が何人もの女性と「恋愛」関係にあったというのは違和感を覚えるのですが、17世紀に成立した本にそのように書いてあるわけですね。ありがとうございました。
「上杉年譜」の記述のご紹介も頂き、勉強になります。
No.3
- 回答日時:
(1)彼が生涯不犯を誓った手紙を書いたというような記憶はないですね。
私は結果論というか、結果として不犯だったことと、(3)で言うような願掛けをしたらしき形跡があることから、若いときから「生涯不犯」を決意していたようにいわれるのだと思っていますけどねぇ。(2)恋人がいたと書いた小説はありますよ。「天と地と」だったかな。好きな女性がいたのですが、嫁に行ってしまってガックリしたことになっていたはずです。但し、Hはしていないので子供はいません (^_^; 。
戦後、熊沢天皇などという人も登場しましたが、これまで上杉謙信の子供の子孫だという人が出ていないのですから、伝承もないのではないでしょうか。
(3)この時代の日本でさえ、「願掛け」をして「お茶断ち」などをする人も珍しくありませんし、ヒンズー教では大きな串みたいなのを何本も体に刺したり、チベット仏教では「五体投地」などということをしながら巡礼する方もいらっしゃいますからねぇ。
1番やりたいことを我慢することや、べつな苦痛を甘受することで、何かを達成する(させてもらう)という考え方は、全然不自然ではないと思いますけど。
ちなみに、謙信女性説の根拠は、謙信のかぶっていた頭巾が、「おこそ頭巾」という女性がかぶる防寒頭巾だったこと、謙信の死因として女性の病気名を書いたもの(死んだ直後の文書?)があることなどです。あと2つ3つあったと思うのですが忘れました (^_^; 。
ご回答ありがとうございます。
「戦勝祈願のために女人を一生絶つ」ですか。絶つなら、もっと他の穏当なものにしておけば良いのにと思いますが。子作りも戦国大名の大事な仕事なんですから。(笑)
No.2
- 回答日時:
上杉謙信については、
”「子供は多ければ多いほど良い」戦国大名が、女に生涯接しないとは極めて異常”という
あなたが思った理由から、女性説を唱える人もいるぐらいですが、
私は、もうひとつの可能性も考慮に入れるべきではなかろうかと思います。
それは上杉謙信が”真性のゲイ”だったという可能性です。
戦国時代に男色は武士のたしなみとされたぐらいで、
珍しくなかったのですが、謙信もまた男色家だったことは広く知られています。
だとすれば、本物のゲイだから女性との関係を持つ気にもならなかったのではないか
という推論はそれほど的外れではない感じです。
考えてみてください。
自分が異性愛者の男性だとして、男とやりたいと思うでしょうか?
この全く逆ですから、同性愛者の男性なら女性とはやりたくないと思っても不思議ではないでしょう。
もちろん謙信が女色を絶ったまじめな理由は、毘沙門天に
必勝と平和(だったかな?)を祈願するためのことです。
「生涯不犯」はたしか神社の祈祷文かなんかに残っていたはずです。
しかし実際には、不犯は女性にだけであり、男の穴ついていたら
せわないや・・という感じなのですが、
ま、女性を不浄のものとする当時の信仰では許容される行いということでわりきるしかないのでしょう。
ところで、女性説は、生理時期に休みとっていたというぐらいの、
偶然で片付けられそうな説得力に欠けるような理由しかなく
特に何という根拠はないのですが、もし謙信が女性だったら
少なくとも神様には嘘ついたことになるわけで、そこら辺からもありえねー感じです。
上杉謙信は、野戦ではほどんど不敗で、戦国最強の武将の一人ですが、
その不敗神話も毘沙門天の加護あればということなので、
ご落胤説のようなものは具体的にはありません。
まじめに上杉謙信の実像を思うに、この人は相当に宗教的な人物で、
頭はかなり古い。若干浮世離れもしていて、天才肌というところです。
個人的野望も天下も望んでなかった人なんで、
自分の子孫を残して長尾/上杉家を繁栄させることは念頭になかったようです。
宿敵だった北条家から(跡取りとして)養子をもらうような人ですから。
相当の変人です。
ご回答ありがとうございます。「謙信は真性ゲイ」ですか。実際にそのような人がどのくらいいるのか分かりませんが、アメリカあたりでは相当数がカミングアウトして「ゲイの人権を認めろ」と主張しているようですね。クィーンのフレディ・マーキュリーは、生涯「真性ゲイ」を通して亡くなったようです。同じく「真性ゲイ」だったらしいホロヴィッツは、トスカニーニの娘と結婚して一応子供も作っていますが。
謙信が真性ゲイだったとして、家臣が謙信を越後国主に推戴した時はそのことは「公然のこと」ではなかったでしょう。国主の座についた後に側女も置かず正室も迎えず、真性ゲイである事実が明らかになっても、今さら「そんな主君はダメ」と引き摺り下ろすわけには行きませんね。
実際問題として、「真性ゲイで正室も側女もいず、勿論子供は一人もいない」大名は、いくら越後に利益をもたらす軍事的天才(他国の越後への侵入=略奪を許さず、他国への侵略=敵地での略奪や領土拡大で越後を富ませる)であっても「大名家という組織の安定」や「他国との同盟戦略」などで甚だ不都合です。当時の倫理としても、「両刀使い」は良くても「真性ゲイ」は「変態」「猟奇」と看做されたのではないでしょうか。
最近、謙信についての別な質問で「謙信ほど配下から謀反を起こされた戦国大名はいない」という識者の指摘がありましたが「あんな変態大名に仕えられるか!」という一部家臣の意識も、謀反者の多さに影響していたのかもしれません。
ともあれ、「謙信は真性ゲイ?」というNo2さんのご指摘は、「謙信は男装の麗人?」というNo1さんのご指摘と共に、謙信を考える大きな材料になりました。御礼申しあげます。
No.1
- 回答日時:
便乗質問のようで、恐縮なのですが‥
30年くらい前に、「戦国武将の墓」のような題名の本をペラペラ
めくっていて、謙信の墓のところで、
謙信は女性で、支えとなった男性が存在し、傍の小墓は謙信の生ん
だ子供である‥‥という墓相がある
といった内容が書かれていたと記憶しています。墓相がこうだと言
われても、私には評価する能力はないのですが‥
ただ、謙信女性説は学問的には問題外とされてはいるものの、他に
も種々の論説?を何度か目にしており、よくある珍説の類だろうと
は思いつつも、気になるところです。
ご回答ありがとうございます。総大将、あるいは国主には個人的な武勇は必要ありません。例えば日本史上最高の天才軍人とされる源義経は、ごく貧相な小男で個人的な武勇はなかったようです。しかし、一の谷、屋島、壇ノ浦と、陸上でも海上でも当時の軍事常識を破る軍事行動(キーワードは「高速機動」「敵の想像もしない攻撃」です。織田信長やナポレオンに通じるものがあります)で赫々たる戦果を収め、現代に記憶されています。「女だから総大将が務まらない」ことはないでしょう。
上杉謙信の場合、私は以前から「謙信の手紙や感状を見ると、戦国武将の書いたものとは思えない情緒的な表現、激越な感情の表現が見られる」と素人ながら感じておりました。何と言うか「ヘンな感じ」なんですよね。男装して越後国主を務める女武将が書いた文章なのだとしたら納得できる感じがします。
また、謙信と直接に接した人は、長尾家(上杉家)の内部の人間を除くと僅かであったようです。京都に上った時に(護衛の兵を連れて京都観光に行ったという表現が似合う)、関白職にあった近衛前久と意気投合し、近衛を伴って関東管領の権力権威回復のために関東に攻め込むという「不思議な」行動を取っています。正直私には謙信が何を考えていたのかさっぱり分からないのですが「謙信が女で、近衛と恋愛関係にあった」とすれば一応納得できます。
ただ、仮に謙信が女性であったとすると、
「嫡子である兄の晴景が病弱・無能であったため、家中の支持・越後守護である上杉定実の調停で、晴景を隠居させて19歳で長尾家を相続」
したという経緯が、
「女である謙信(景虎)の軍事才能を家臣が見抜き、男性であるという建前にして家督の座に押し上げた」
ということになります。荒唐無稽これに極まれリ、という感じになりますよね。
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