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1. 《絶対》は この経験世界には無いと言う。その概念は有ると言う。

2. では この経験世界を超えたところというのは 想定することができるか?

3. と言うよりも その《非経験の場》を絶対性としてすでに想定したゆえにこの《絶対》だとか《無限》といった言葉≒概念が持たれているのではないか?



4. 経験世界を超えているとは どういうことか? 

5. 絶対なる非経験の場は――経験世界とのあいだに絶対の隔たりを確認したあとその――経験世界を覆い包んでいると帰結される。

5-1. 非経験の場として経験世界に あまねく存在(非存在)していると考えられる。絶対性は どこへも逃げないし どこかに片寄ることもない。

6. これが 神の遍在として――初めの想定から辿り着て――理解されているコトである。

7. つまり この非経験の場なる神は 経験事象としては 存在するとも存在しないとも 人間が知り得ず 決めることの出来ないナゾである。

8. これが 《絶対性》である。

9. そこから しばしばこれを擬人化して《絶対者》と呼ばれることがある。さらにはチカラないしそのハタラキに着目して 《創造主》と仮りに表現された。物語化も成された。まだ ただの表現の問題である。

10. それだけのことであり すべては 想定の問題である。信仰は信仰の姿勢があるが 哲学としてはだ。




11. 経験世界を超えたところについて それは存在しないとわれわれ人間が証明し得ないゆえに この想定があるのだ。

12. これが 人間の――生きる・そして共に生きる――条件である。天与ゆえに仕方がない。

13. したがって 想定を承けて神を捉えるならば それは ただひとつの普遍神であらざるを得ない。《絶対》が 二つも三つもあっては困る。

14. 普遍神は 有るのか無いのか。これは 人それぞれにどちらか好きなほうをえらんで 信仰の立ち場とすることが――想定からの理論じょう―― 受け容れられている。

15. 有神論も無神論も どちらも《神と我れとの関係》を示している。互いに同等である。

16. 《有る神》としては さらに人(民族)によってそれぞれ互いに異なる名がつけられている。

17. それだけのことだ。これが 神のからくりである。(信教・良心の自由が 別にある)。

☆ 初めに戻って あなたのお考えになるところを述べてください。

A 回答 (1件)

禅では悟りがあって、その体験に拠って全肯定の立場に立つと云う言葉があります。

生も死も同じに見ると云う立場です。生死の問題が解決したと云う立ち位置です。

人間の脳内には仏性があります。それは人間を人間として働かせている働きの事です。それは右脳の人格です。処が禅では自意識が仏性と出会う事が出来ないと云っています。

その言葉は『没交渉』の関係性だとも云っているからです。従って仏に会う確率は限りなく少ない事を意味します。

桜でもカエルでも、蚊でも牛でも蜘蛛でさえも仏性は持っています。一切衆生悉有仏性だからです。牛を牛として働かせている働きが仏性です。生まれて直ぐに立ち上がって、歩き始める事を指しています。

人間なら人間として振舞う事が出来る働きです、素晴らしい演技などを見て感動するなどは生まれる前に習っていない事だからです。スタンデイングオベーションの事です、又笑う事も泣く事も怖い事も安心する事も同じです。習う事もないですが、全て知っています。知っている存在を仏性=命を働かせている働き、という様です。

道元が仏門に入ったきっかけは『人間には仏性が備わっている、というのにどうして修行をしないと仏性が分からないのか?』と云われています。

それは『この経験世界を超えたところ――非経験の場と呼びますが――は 想定し得ない事を意味しています。』
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 禅では悟りがあって、その体験に拠って全肯定の立場に立つと云う言葉があります。禅では悟りがあって、その体験に拠って全肯定の立場に立つと云う言葉があります。生も死も同じに見ると云う立場です。生死の問題が解決したと云う立ち位置です。
☆ 話の糸口が さとりのようですので この用語の定義が欲しいところです。

すなわち:
★ 生も死も同じに見ると云う立場
☆ は さとりがなくても成り立ちます。



★ 人間の脳内には仏性があります。
☆ という想定から始めるといった理論上の手続きが必要です。


★ それは人間を人間として働かせている働きの事です。それは右脳の人格です。処が禅では自意識が仏性と出会う事が出来ないと云っています。
☆ この程度の定義ならば 仏性と言わなくてもよいように思われます。



★ その言葉は『没交渉』の関係性だとも云っているからです。従って仏に会う確率は限りなく少ない事を意味します。
☆ もう小説の中に入り込んだ感覚です。《仏》とは何ぞや?



★ 桜でもカエルでも、蚊でも牛でも蜘蛛でさえも仏性は持っています。
☆ そう想定すると言って始めるのが 経験科学です。


★ 一切衆生悉有仏性だからです。
☆ 想定を説明した文句でしかありません。


★ 牛を牛として働かせている働きが仏性です。生まれて直ぐに立ち上がって、歩き始める事を指しています。
☆ 生命体・生物として ふつうです。


★ 道元が仏門に入ったきっかけは『人間には仏性が備わっている、というのにどうして修行をしないと仏性が分からないのか?』と云われています。
☆ で?


★ それは『この経験世界を超えたところ――非経験の場と呼びますが――は 想定し得ない事を意味しています。』と云う立場です。
☆ 想定は 自由です。想定およびそこから派生する内容が 経験事象といちじるしい不都合を起こさないかぎり 仮説は 持ちこたえます。

お礼日時:2022/03/12 16:16

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