タイトル通りです。
小学4年生の子供に聞かれました。
わたしは、以前戊辰戦争で明治新政府側に付いたところは同じに、賊軍となった所は見せしめの為違う名前にさせられたと聞いたのですが一部県(例えば山形・福島)などは東軍として新政府と戦ったのにそのままです。
真相はどうなのでしょうか?

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A 回答 (6件)

愛知県の場合、明治4年当初、「名古屋県」(旧:尾張藩)と「額田県」(旧:三河藩)という別の県が、翌年合体して「愛知県」となってます。

県庁所在地は名古屋ですね。

行政区画の都合や合併、歴史的な由来などにより偶然「県名」と「県庁所在地」が異なっているだけであり、官軍云々とは関係ないようです。
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この回答へのお礼

実際に異なる地域の方の説は論理的で説得力があります。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2005/04/02 14:10

県名と県庁所在地名との関係、私も疑問に思っておりました。


このサイト内でも過去に何度か質問が出ていると思います。
過去の回答は概ね戊辰戦争時の官軍幕府軍で区別されたとあり、その根拠として宮武外骨という学者の本に書かれているとの事。
どの本になんと書かれていたのか判りませんでした。
公文書やそれを示唆する文書があるのかどうかも判りませんでした。

ただ、この説でふと疑問に思ったのは各県名が明治維新後、いきなりつけられたのではないこと。
廃藩置県でそれまでの藩が廃止され県となったのですが当初は藩の土地と名称がそのまま県の土地と県名になった例が多数を占めます。
(藩によっては分割されたり等、例外もあるようですが。)
それが昔の国(越後とか信濃)に近い単位で併合されていき今の県境と県名に「近い」形が出来たのが明治4~5年頃かと。
(富山・福井県が石川県に属したり、大阪府南部と奈良県が堺県であったりと若干異なります。)
この当時、各県に「市」は存在しませんでした。
市制は明治22年から。
県名と県庁所在地が出来てから県庁所在市名が出来た訳です。

この事を考慮していくと、当初の県が併合されていくうち合併後の県名をどうするか議論になった事が予想されます。
(平成の市町村合併後の新市名をめぐる騒動と同じでしょう)
A県・B県・C県が合併すると大きい県・力の強い県が名を残す事になってしまう事も考えられます。
現代ほど市民の声は行政に繁栄されませんから政治家・役人の力関係の差がでてくると思われます。
基本的に県名と県庁所在地名が同じで名称でなければ成らない道理はありません。県名を選択する際に政治家の力関係の差・・・それが結果的に明治中期の政府の中心となった長州勢に近い政治家・役人の我が旧藩・我が町へという声が強く反映されたのではないかと感じます。

一方、何故県名制定時に越後・信濃といった旧国名にしなかったのでしょう?
現在でも県境と国境は一致しているラインの方が多い。これは、旧体制の国制度から明治政府に変わり新しい権威を含めた変革を狙った様にも思えます。
本来、藩という武家政権の威光の様な名称など存続させたくはなかったのかもしれません。
故に出来れば旧反体制を連想させる名称を新体制の県に残したくなかったのかもしれません。


つまり
「旧幕府側だから嫌がらせで県名を変えられた」
のではなく
「官軍出身で力があるから強引に県名にしてしまった」
と、いう見方もあるのではないかと感じた訳です。

あくまでも自論ですが、・・・宮武外骨説の論拠の文書が見当たらないので、ご参考までに。

ちなみに全部調べていませんが県名と県庁所在地名が違う県名は県庁所在地の旧名・・・つまり県庁所在地市名ではなく県庁所在地郡名である事も多いように感じます。
例:
尾張藩→名古屋県と犬山県に分離後、再併合名古屋県。
    明治5年2月に愛知県と改称
    (県庁所在地は愛知郡名古屋)
三河各藩・天領→各県と三河裁判所など込み入った
    併合を経て、明治4年11月額田県
    (県庁所在地は額田郡岡崎)
愛知県と額田県が合併して現在の愛知県。
    (県庁所在地は愛知郡名古屋)
明治22年、名古屋市市制開始
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この回答へのお礼

やはり官軍云々は関係ないみたいですね。
県名と県庁所在地名が違うのも戊辰で賊軍とされた藩の怨み節がまことしやかに広まったという事なんでしょうか。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2005/04/02 14:08

私が昔小耳に挟んだのは、栃木県の話です。


栃木県の県庁所在地は宇都宮です。
これは昔、栃木県と宇都宮県が合併したときに、件名を栃木とするかわりに、県庁所在地を宇都宮にしたのだということでした。
子供の頃聞いた話なのでソースはわかりませんが・・・。
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この回答へのお礼

栃木はわたしも不思議に思っていましたがそういう訳だったんですね。
宇都宮藩は栃木でも雄藩でしかも官軍方。
戦には勝ったのにナゼ?でした。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2005/04/02 13:18

地域にもよりますが官軍による報復ではありません。

まず県の大半が旧外様領か国で出来ています。外様領の場合はお城のあった場所が県庁所在地です。問題は譜代領があった場所です。譜代領があった場所の大半は国毎にまとめ県にしていきました。藩は市となります。その際、大きな市は経済・行政・軍都の何れかとなりました。当時は行政中心地より軍都であることの方が格上でした。会津・佐倉・高崎は軍都を選んだだけのことです。また、県名も地域合併の際に中心地に近い場所が選ばれました。そのため南出羽は山形となり、南陸奥は福島になったのです。
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この回答へのお礼

なるほど。
そうなると、やはり報復措置ではなかったなかったのでしょうか。
中部・東海以北に県名と県庁所在地が違うの所が多いのは偶然なんでしょうか。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2005/04/02 11:47

質問者さんのいわれるように明治政府は旧幕府側についていた地域に対してはイジワルをしたようです。



質問にある山形県は当時最大の街は米沢であり、福島県は会津若松が最も栄えていた街だったので順当であればそれらの街が中心になる筈ですが、やはり一番大きな街に県庁を置かずにイジワルされたようです。
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この回答へのお礼

やはりそうなのでしょうか。
戊辰における官軍の錦の御旗に刃を向けた藩への徹底した弾圧はひどかったと多くの歴史書及び市町村史にもあります。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2005/04/02 11:44

こちらに参考HPがあります



参考URL:http://www.jca.apc.org/rekkyo/newfile2001/tiri.htm
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この回答へのお礼

やはり戊辰が関係しているのですね。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2005/04/02 10:26

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県庁所在地かどうかって、多くの人はあまり気にしてないような気がします。
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 前述の高島秋帆が考案したトンキヨ笠は、前につばが付いていることと横に耳当てが出ていることを除いて薩摩藩のものと似ています。

 絵についてご覧になりたい時は『ビジュアル版 史料日本歴史図録』/笹間良彦編著 (5800円)をどうぞ

 No.1です。再度答えさせてもらいます。

 黒ずくめの服装については、別に薩長の専売特許ではなく、天保11(1840)年には高島秋帆が考案した筒袖・裁付(たつつけ)袴に始まって、安政3(1856)年講武所調練で用いた服装、嘉永6(1853)年江川担庵が調練に用いた筒袖・裁付袴など和装ですが全身黒いです。

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近代国家建設で、武士の既得権益をどんどん奪う政策を実施したので、明治初期は全国のあちこちで武士階級を中心とした反乱や暴動が発生しています。それまでの年貢制度から税制度にも変えて、そのときに新政府は税金を国民に理解させるために「血税」という言葉を使ったら、みんな「血を抜かれる」と勘違いしたんだそうです(本当)。それだけなら単なる笑い話ですが、役人がある村に税金の調査のためにやってきたら「血を抜きにやってきたぞ」とたちどころに噂が広まりなんと暴動となって死者が出るほどの騒ぎになったという話もあります。そのくらい、日本中が騒然としていて治安の安定も明治政府の重要課題だったわけです。

そして、江戸という場所はかつての敵であった徳川将軍のお膝元の土地であり、江戸市民は徳川将軍の支配には何も不満はなかったわけです(だから江戸時代を通じて江戸で反乱は一度も起きなかった)。新政府が政策をしくじろうものなら、江戸で大規模な反乱や暴動が起きる可能性は高く、そうなれば関東全域や東日本全体に影響を与える可能性だってありました。それは何としても避けないといけなかったわけです。

さて、「マキャベリズム」でも知られるマキャベリは「習慣なんかが違う地域を征服したら、君主はそこに住め」と「君主論」で書いています。君主が直接支配して目が行き届けば速やかに平定できるからです。
その実践例はいくつもあります。有名なのがオスマントルコ帝国です。オスマン帝国はコンスタンティノープル(イスタンブール)を占領しましたが、そこはキリスト教国の中心国でもあったビザンツ帝国の首都だった場所です。敵地も敵地の超どアウェーの場所です。この地を支配するにあたってオスマン帝国がやったことは、皇帝自らがコンスタンティノープルに住んでしまうことでした。かくしてイスタンブールは今やすっかりイスラムの地となったわけです。他にも、岐阜や安土など居場所をどんどん変えた織田信長や、自分の生まれ故郷である三河や駿河ではなく、江戸に幕府を開いた徳川家康も同じといえましょう。

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しかし、京都は天皇にとってはホームの地ですから、ちょっとやそっと裏切っても反乱が起きるほどの騒ぎにはならないのです。

慣例や前例に縛られて改革ができなくなったとき、国家(国家に限らず企業もそうですけれど)は衰退に向かいます。伸びていく組織というのは、決して前例や慣例にとらわれないのですね。明治新政府はそういったフロンティア精神があったのでたちまちのうちに近代国家を作り上げることに成功したのだと思います。

「王政復古」ということに名目上はなったわけですが、現実問題としては世界の一等国に比肩しうる近代国家を作らなければならない、というのが明治政府の喫緊の課題でした。それに対して質問者さんとしても異論はないと思います。ウカウカして近代化に取り残されると容赦なく列強の植民地にされてしまいます。アジア最強帝国であった清帝国でさえ欧州列強の草刈り場となっていたわけです。
だからこそ、明治政府はどこからその資金をねん出したのか知りませんが、明治5年にもう鉄道を開業しています。大政奉還から...続きを読む


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