
No.1ベストアンサー
- 回答日時:
加賀藩の場合は、仙台藩などと異なって八家のような最上級家臣でも知行地は細かく分散されていましたし、かつ領地百姓とも直接的な関係はなく、完全に家臣化されていました。
八家は年寄と人持組頭は世襲でしたが、小普請支配と小普請のような関係(幕府で言えば人持組はどちらかというと寄合に相当すると思われますが)ではなく、組頭と組士の間で派閥のようなものはないことはなかったかもわかりませんが、それよりもほかの関係の派閥のほうが強固でした。
また年寄職についても、藩主の意向には逆らえず、藩主の信頼を受けたものが藩政を運営していれば年寄とてそれを掣肘することはできませんでした。
加賀藩の重役には年寄、家老、若年寄がありますが、そのほかに藩主の側近職として近習御用があり、実際の政務についてはこのものたちが強い発言力があったようです。
この回答へのお礼
お礼日時:2005/12/11 17:15
御回答ありがとうございます。
人持組頭といっても組士に対してたいした実権はなかったのですね。
加賀騒動の様に、藩主の寵臣が門閥の年寄を凌駕する事もあったのでしょうか。
No.2
- 回答日時:
>加賀騒動の様に、藩主の寵臣が門閥の年寄を凌駕する事もあったのでしょうか。
凌駕するといっていいかどうかわかりませんが、近習たちの意見は取り上げられるけれど、年寄などの意見はあまり取り上げられないということはあったようです。
加賀藩の場合は藩主の権力が強いので、年寄とて藩主の意向に反することはできなかったようです。
この回答へのお礼
お礼日時:2005/12/11 21:23
御回答ありがとうございます。
加賀藩主は藩主としての実権を持っていたのですね。加賀宰相綱紀は、御家騒動を機に長家が統治していた鹿島半郡を収公して家臣と知行地とを切り離したみたいですね。綱紀の頃になると八家の様なそれ自体が大名然としている門閥勢力は疎ましい存在でもあったという事でしょうか…
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