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明治維新直後(明治元年~十年くらい)の日本についてです。
政権が新政府に移り変わり、日本は、「脱亜入欧」や「廃藩置県」など、徳川幕府の頃の国の形を変えていきましたよね。
ですが、それまでずっと徳川が第一と考えてきた市井の人々、特に天領や旧幕軍についた藩の人々は、すぐに国の西洋化を受け入れたのでしょうか?
そこで疑問があります。
1.その頃、軍や政府は洋服を着用する人もいたようですが、一般市民はどれくらいの割合で洋服を着用していたのでしょうか。
2.天領や幕府に味方をしていた藩の人々は、徳川がなくなったことに戸惑ったり、新政府の支配下におさまることへ抵抗がなかったのでしょうか。
3.江戸末期の藩主はほとんどが版籍奉還でそのまま県知事に任命されていますが、人々は「藩主」に仕えているという感覚だったのでしょうか。それとも、全く別の、命を懸けてまで仕える必要などない存在と思考を切り替えたのでしょうか。
細かい質問で申し訳ありませんが、ご存知の方がいらしたら、教えてください。
また、当時の人々の様子が分かる書籍やホームページを紹介していただけると、参考になります。
よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

>明治維新直後(明治元年~十年くらい)の日本についてです。


政権が新政府に移り変わり、日本は、「脱亜入欧」や「廃藩置県」など、徳川幕府の頃の国の形を変えていきましたよね。
ですが、それまでずっと徳川が第一と考えてきた市井の人々、特に天領や旧幕軍についた藩の人々は、すぐに国の西洋化を受け入れたのでしょうか?

即時というのは難しいでしょうね。西洋文化の受容は、政治的背景から推し進められたわけですが、庶民が西洋文化を受容するには、まだ西洋文化の生産基盤が日本にない状態ですから、限界はあったはずです
よく史料として文明開化の事例として紹介されるものは、大概が、東京周辺・横浜などの都市部であって上方や地方では庶民に即時受容されたとは言えないように思おます


>そこで疑問があります。
1.その頃、軍や政府は洋服を着用する人もいたようですが、一般市民はどれくらいの割合で洋服を着用していたのでしょうか。

統計が存在しませんね。明治維新の初期には史料が存在しないので、回答はしかねます
下着に関しては詳しいですが、下着の普及ならば、大正時代以後ですし、トイレなどの西洋化も大正時代以降の話です


>2.天領や幕府に味方をしていた藩の人々は、徳川がなくなったことに戸惑ったり、新政府の支配下におさまることへ抵抗がなかったのでしょうか。

抵抗があったのは、士族と士族に近接した庶民と限られていたように思います
抵抗する気力さえなかった・・というのが実情でしょう。なにせ、幕末の農村部は厳しい時代でしたから
同時に、世直し運動などから旧態依然とした権力基盤の動揺は維新前の20年には発現していましたし、抵抗勢力が一致団結するような求心力のある指導者が存在しなかったのでしょう
同時に、抵抗するメリットがないのですから、抵抗しないのは必然でしょうね


>3.江戸末期の藩主はほとんどが版籍奉還でそのまま県知事に任命されていますが、人々は「藩主」に仕えているという感覚だったのでしょうか。それとも、全く別の、命を懸けてまで仕える必要などない存在と思考を切り替えたのでしょうか。

 所詮は、藩主・県知事と庶民は無縁です。せいぜい役人が伝統的武家組織の慣習に従って俸給を受けていた・・程度では?


2、3に関しては、中央公論社の日本の近代シリーズが最適でしょうね
http://www.chuko.co.jp/zenshu/zenshu_junre_77346 …

1に関しては、服飾史の専門本でどうぞ
下着や性風俗ならそれなりに回答できるんですけどねw
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この回答へのお礼

詳しい回答、有難うございます。
大きな戸惑いがあったのは、士族やそれに近い人であったのですね。また、藩主や県知事に対する人々の感覚というのも、士族などとは違いがあったということも驚きでした。
それから紹介いただいた書籍も図書館などにありそうなので、読んでみたいと思います。
大変参考になりました。有難うございました。

お礼日時:2012/09/29 16:02

最近、「逆説の軍隊」という本を読んだのですが、なかなか面白かったです。

要は帝国陸軍の歴史なんですがね、いうまでもなく、新政府軍というのは薩摩軍と長州軍を中心とした「藩兵」だったわけです。
で、明治維新で近代国家建設となったら、これを「国軍」にしなければなかったのですが、これが大変な苦労だったようです。というのも、考えてみれば当然ですが、藩兵というのはそれぞれの藩に所属しているのですから、忠誠の対象はあくまで藩であり藩主なわけです。それがいきなり「国に忠誠を誓え」といったところでピンとくるわけがない。いってみれば宇宙人が攻めてきそうだから「地球連邦軍」を創設したけど、今まで日本に忠誠を誓っていたのに、いきなり地球人民すべてが対象で、韓国軍や中国軍とも仲良くやれっていわれたってそりゃなかなかうまくいくはずがありません。

なにしろそれまでいかにも中世的な封建制度だった江戸幕府からいきなり近代国家を作ろうというのですからそりゃ生みの苦しみは伴います。面白い話が、それまでの「年貢」から「税金」に変わったわけですが、そのとき「血税」という言葉を用いたのですね。ところが「血」と表現したのがまずかった。みんな「血を抜かれる」と思ったのです。で、あるとき役人がある村にやってくると「血を抜きに来たぞ!」と騒ぎになり、そのまま暴動に発展したというので穏やかではありません。まあそういう混乱はあったわけです。
それでも明治5年には新橋~横浜間に鉄道が作られ、翌明治6年には銀座煉瓦街が作られたのですから、泥縄式の改革で金もなかったのに新政府の人たちはよく頑張ったと思いますよ。

私は思うのですが、日本人のいいところは恐ろしいまでの切り替えの早さだと思うのです。江戸時代の価値観と明治近代国家の価値観というのはまさにパラダイム・チェンジと呼ぶべきものだったのですが、各種混乱はあったものの、逆にいえば20年かそこいらで新しい価値観が広まっていくのです。外国の場合はこれがなかなかできなくて何十年も内乱をやったりするのが多いのですけどね。例えばアフガニスタンはイスラム的封建主義から近代国家に移行することができなくて、外国の思惑に左右されているとはいえここ40年くらいずーっと内戦が続いています。
日本人は敗戦で同じようにパラダイム・チェンジを突き付けられるのですが、あまり知られていないのですが、あのマッカーサー元帥が日本に降り立った直後、日本中からマッカーサー元帥宛にファンレターが殺到したのだそうです。戦後すぐの朝日新聞がそれまでの戦争賛美の報道から一転、「これからはふたつのキューの時代だ。サンキューとエクスキューズでいこう」と言い出したのは有名ですが、それって要は国民の気持ちを代弁したものだったのですよ。ほんの数ヶ月前までは文字通りに殺し合っていたのに突然「やーやー、これからは仲良くいきましょう」って切り替えられるのですから。
皮肉屋のチャーチル卿はそれを見て「日本人は喉笛にくらいつくか、ひれ伏すかのどちらかだ」と半ばあきれ気味にコメントを残しているのですが。

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83 …
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この回答へのお礼

回答、有難うございます。
西洋化に二十年も三十年も混乱しているのが明治時代かと思っていましたが、意外と受け入れられたところもあるんですね。日本人はそういうところには強いようですね。私だったら無理…、と思いますが、実際にそうなってみるとけっこう受け入れることができたりするのかもしれません。
書籍も図書館にありましたので、今度借りに行きます。
大変参考になりました。有難うございました。

お礼日時:2012/09/30 09:25

>すぐに国の西洋化を受け入れたのでしょうか?



という事実はありません。頭の中は江戸時代と変わっていない。だから学制反対一揆、解放令反対一揆、血税反対一揆、地租改正反対一揆と何でも反対しまくりだったのです。

>1.その頃、軍や政府は洋服を着用する人もいたようですが

データがありませんが明治維新直後の庶民には関係ない話です。明治5年に「爾今、礼服には洋服を採用す」という太政官布告が発せられ、公式の式典では洋装が正式と定められましたが、そんなの庶民には関係ない。

洋服伝来の歴史|東京都洋服商工協同組合
http://www.yohfuku.or.jp/history1.html

>2.天領や幕府に味方をしていた藩の人々は、

そんな人々は存在しない。旗本の一部が逆賊になっただけで、庶民には関係ない。庶民が興味があるのは、これから年貢はどうなるのかってことだけです。

>3.江戸末期の藩主は

藩主に仕えていたのは藩士だけですが、版籍奉還で失職しました。これからどうやって身を立てようかと自分のことだけで精一杯でした。
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この回答へのお礼

回答、有難うございます。
人々が心配だったのは、藩や政府など上のことより、まず自分の生活だったのですね。回答を見させていただいて、確かにそうだろうなと思いました。
紹介いただいたサイトにも詳しいことが書いてあり、大変参考になりました。
有難うございました。

お礼日時:2012/09/29 18:12

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