戦いや恋愛もあったのでしょうか?

また、そんな風景をビビットに描いた本(小説でもマンがでも学術書でも)ありましたらご教授ください。

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A 回答 (8件)

児童文学ですが、


たつみや章 という方の作品で
『地の掟 月のまなざし』がそんな感じみたいですよ。

読んだことないのにお勧めするのもなんですが。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

読んでみようかと思います。

お礼日時:2001/09/09 23:27

病気がうつりました。

^^;

詳しい内容は覚えていないんですが、
昔の番組で(確かNHK)、そんな内容をやってました。
結核だったと思いますが、それまで日本には無かった病気で、
弥生人が持ち込んだとか。
(縄文末期にその病気で骨が変形した人骨が急にかつ大量にみられる
 事からの推論だとか。)

同じようなことは、ネイティブアメリカンと白人移民の間でも起こってますし、
(このときは性病だったかな)
あながちはずれではないと思う。

ちょっと、趣向と違うネタですいません^^;
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この回答へのお礼

いえいえ。
面白いお話ありがとうございました。

お礼日時:2001/09/13 18:52

No.4の回答の続きです。


資料を見つけました~。といってもNHKのホームページなんですが。
今日(9/9)放送したNHK特集「日本人はるかな旅」の放送予告です。(;^^)

このHPによると、弥生人はなんと大陸から移住してきた人たちなんだそうです。
その頃は中国は春秋戦国時代で、既に立派な文明がありましたから、
それこそ文明人と非文明人との出会い、まさにお互いに「未知との遭遇」
状態だったんでしょうね。

NHK特集「日本人はるかな旅」の第五回で放送します。
いやー面白そうだ。ちなみに12/9(日)放送だそうです。

参考URL:http://www.inpaku.nhk.or.jp/nihonjin/schedule_5. …
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この回答へのお礼

今度見てみましょう。

ありがとうございました。

お礼日時:2001/09/10 10:42

 何年を境に、今日から弥生時代だ!と宣言して始まるものでもなかったでしょうから、


縄文人と弥生人の出会いはあったと私も思います。
弥生人というのは大陸から渡来してきた人種なんですね。
原日本人というのは縄文人のことです。
文明的に弥生人の方が圧倒的に進んでいたので、縄文人はだんだんおいやられ、衰退し、
日本のほとんどを弥生人が占めるようになった頃を「弥生時代」と呼ぶのだと思います。

 まあ完全に想像するしかない世界ですので想ったままを言わせていただきますが
弥生人は縄文人のことを野蛮人だとさげすみ(だって石を振り回して動物を追っかけまわしているんですからね)
縄文人は縄文人で弥生人のことをわけのわからない術を使う怪しい輩だというふうに思っていたのではないでしょうか。
ちょっとした喧嘩が闘いになり、闘いになったら弥生人が勝利につぐ勝利で
縄文人はどんどん殺されていったり、弥生人に同化して生き延びたりしたのでしょう。
でも、人種の違いを超えても恋愛があるのですから
やはりそこでは恋愛関係に陥ることもあったでしょうね。

 ちょっと前に日本人の顔を縄文人タイプ、弥生人タイプに分けていたベストセラーがあったと思うのですが
たしかそれに付随して、cse_riさんのおっしゃる学説(?)も喧伝されていたような気がします。
想像するしかない世界のお話ですので、回答に対する自信は「なし」にしておきますね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>まあ完全に想像するしかない世界ですので想ったままを言わせていただきますが

その辺を緻密に想像した作品などをしりたいんですよねえ(笑)
わがままいってすいません。

お礼日時:2001/09/09 23:33

No.2の方への反論ですが、確かに私も学校では「縄文時代の後に弥生時代となる」


と習ったのですが、その後いろいろ勉強して、

「弥生時代の初期に弥生人(?)が大陸から渡ってきて、その後徐々に勢力範囲を
 広げていった。
 縄文人は少しずつ奥地に追われ、アイヌの祖先となった」

という意見に変わっています。これってトンデモ意見ですか?
実際には南方からも人が移住して来たり、弥生人と縄文人の混血とかもあった
はずですから、その過程でいろいろな事件があったんでしょうね。

正確な資料は手元にありませんが、「この国のかたち」(著者:司馬遼太郎)とかに
もそのような意見があったように思います。

この回答への補足

現在の学説は縄文人と弥生人の交流はゆるやかに行われたというのが主流のようです。
たとえば、弥生人が縄文人を侵略したというのは異端で極論の学説とされているようです。

しかしながらドラマ的に考えるとまさに「その過程でいろいろな事件があった」
のが、どのような事件かに興味があり、それをビビットに描いたものがないかと探しています。

補足日時:2001/09/09 23:15
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#1で回答したものです。



いや、やっぱり、時代が新しすぎるかな。
「火の鳥 黎明編」は古墳時代が始まる頃の物語だった
ような気がしてきました。

失礼しました。
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弥生時代は縄文時代の後のものなので交わる事はないと思いますが、明治と大正のように。

明治人と大正人が争う事はないですよね。アメリカ人とイギリス人のようにお考えでしょうか。

この回答への補足

たとえば弥生人が縄文人のいる日本に侵略してきたという学説を唱える人もいますね?
トンデモ学説的に今は思われているようですが、ロマンとしては結構あると思うのです。

その辺を想像力たくましく描いた書物や映像などないかなあと思いまして・・・・・・

補足日時:2001/09/09 21:56
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完全なフィクションでよければ...



・「火の鳥 黎明編」 手塚治虫

縄文人と弥生人であるかどうかは議論の余地があります
が、まあ、フィクションなので。ビビッドであることは
間違いないです。
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この回答へのお礼

前によんだことがあります。

ちょっと縄文人と弥生人かはたしかに疑問の余地はありますが・・・・・・

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2001/09/09 21:56

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Aベストアンサー

#3です。

お礼をありがとうございます。

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>どうして混血したのか不思議です。

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>フレール=クレスレットの戦い~の時にイギリスは用意した49両もの戦車のうち、実際に戦闘に投入できたのはわずかに5両であったと聞きました。

 49両中、10両が故障で前線まで移動できず、攻撃開始地点から実際に戦闘に参加したのは14両。戦闘開始で前進中5両が泥濘にはまって行動不能となった、ということでした。

> 第一次世界大戦のソンムの戦いではじめ投入された戦車というのは、ドイツの砲兵にやられたり砲弾でできた穴にはまって動けなくなるなどの情報もありますが、戦車というのはそれ単体では威力を発揮しなかったのでしょうか?

 そもそも、戦車が開発されたのは、塹壕や鉄条網を超越し、歩兵の進撃路を確保することによりこう着する戦況を打開するためで、戦車戦の用兵思想はなかったのです。

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>第一次世界大戦だと防御側は有刺鉄線や塹壕、機関銃などによって圧倒的に優位であったため、あまり戦車は役に立たなかったという認識は合っていますか?それとも、違いますか?

 1917年11月、カンブレーにおけるイギリス軍の戦車大量投入(476両)による奇襲作戦は、それまで何度も失敗していたドイツ軍の前線を一日で突破するという画期的な戦果を挙げました。反面歩兵の協同を欠いた戦車群のみで前進したフレスキエルの戦闘ではドイツ軍野砲部隊により約30両の戦車が破壊されました。

 第一次大戦中の戦車の運用は、戦車の奇襲的な大量投入や、戦車と歩兵、砲兵などの諸兵科の連合的運用という大量殺りく戦へつながり、続いて起こった二次大戦、ついで現代までのきわめて重要な戦訓を生んだといえるでしょう。

資料:歴史群像 欧州戦史シリーズ『WWⅡ ドイツ軍装甲部隊全史Ⅰ』 学習研究社 2000年

>フレール=クレスレットの戦い~の時にイギリスは用意した49両もの戦車のうち、実際に戦闘に投入できたのはわずかに5両であったと聞きました。

 49両中、10両が故障で前線まで移動できず、攻撃開始地点から実際に戦闘に参加したのは14両。戦闘開始で前進中5両が泥濘にはまって行動不能となった、ということでした。

> 第一次世界大戦のソンムの戦いではじめ投入された戦車というのは、ドイツの砲兵にやられたり砲弾でできた穴にはまって動けなくなるなどの情報もありますが、戦車というのはそれ単体で...続きを読む

Q縄文人の特徴の地域差

日本の人々が日本中を移動しはじめたのは交通機関が発達した明治以降ですよね?
それまでは各都道府県の人々は長い歴史の間あまり移動せず、
各地方ごとにある程度傾向が残ってたと聞いてます。
本土の真ん中あたりが一番弥生の血が濃くはしっこに行くにつれて縄文の血が濃くなると。
具体的には北海道のアイヌ、沖縄の琉球王国の人々を筆頭に
東北や北関東の一部、九州の一部などにかなり縄文人の血が濃い人々がいたと聞きました。

でもよく考えるとアイヌ民族と琉球人って同じ縄文系でも特徴は全然違いますよね?
アイヌと東北の縄文の血が濃い人々も特徴は全然違いますよね?
ということは大昔の縄文人でも結構な身体的特徴の地域差があったのでしょうか?
教科書の様な縄文人は背が低いが手足が長い顔は四角とかそこまで均一的だったのでしょうか?
ある地方は全然縄文人の特徴が当てはまらないほど卵型の顔が多かったり
足が短い人が多かったりしたんじゃないでしょうか?

縄文人の身体的特徴の地域差ってどれくらいあるのでしょうか?

Aベストアンサー

●アイヌ民族と琉球人って同じ縄文系でも特徴は全然違いますよね?
○琉球地域だと中国大陸や東南アジアの人々との交わりがありますが、北海道地域だと北方ロシアの人々の交わりがあります。
 そういう長い歴史の中へ変質していったのでしょう。

 縄文系の顔云々という話がありますが、良好な形で残っているものは少なくまた出土地域も偏っている(関東ではほとんど事例がない)ので細かい傾向は不明です。
 

Q歴史小説 ※西郷隆盛又は薩摩藩を中心に描かれたもの

歴史小説 ※西郷隆盛又は薩摩藩を中心に描かれたもの

幕末の良い歴史小説を探しています。
西郷を中心に書かれているものか又は薩摩藩を中心に描かれているものでお薦めなものはないでしょうか?

薩摩藩が大好きな方。是非、紹介してください。

Aベストアンサー

1.「西郷と大久保」  海音寺潮五郎著   新潮文庫 昭和48年6月発行
2.「兵児一代記」 (へこいちだいき)  海音寺潮五郎著  講談社 昭和51年2月発行
海音寺潮五郎は「わたくしは、1901(明治34)年に薩摩の山村に生まれました。先祖代々の薩摩人です。明治34年と申せば、西南戦争から24年目です。当時の薩摩には西南戦争に出たおじさん達が多数いました。ですから、その頃の薩摩の少年らは、その人々から西南戦争の話を聞き、西郷の話を聞いて育ちました。聞かされても、そう感銘を受けない人もいたでしょうが、わたくしは最も強烈深刻な感銘を受けつづけたようです」
と書いていますように、実際に体験者から自らが聞いた事をもとに小説にしています。

3.「人斬り半次郎 幕末編」 「人斬り半次郎 賊将編」  池波正太郎著 新潮文庫 平成11年8月発行

Q縄文人と弥生人の戦争

縄文人は1万年以上まえから列島に移住し、そのうえにBC1000年ごろから米作技術をもつ弥生渡来人がやってきた とされているようです。初期渡来人が縄文人を奴隷化、占有化、あるいは殺戮した ということは起きなく 平和的融合が進み そののちBC100年以後小国の戦争が始まったようです。対立は縄文人対弥生人ではなく 混成対混成のように思われます。世界史的には文明化された人種が未文明の人種を圧倒していくことは よくあることとおもわれます。
そこで質問ですが
(1)なぜ列島では縄文人と弥生人が平和的に融合したのか
(2)列島での戦争の始まりの原因はなにか
です。

列島で起きたことは 世界史的に例外ではなく どこでもいつでも 条件が整えば起きる という普遍的な回答をお願いします。

Aベストアンサー

(1)
 私は、縄文人が狩猟を中心にしていたことから、それほどの人口密度はなかったと考えています。

 そこへ、少しずつ弥生人が入ってきたと考えます。

 周囲が海ですから、当時の造舟技術からして、大人数が大規模に入ってきたとは考えにくいのです。

 「元朝」の時代の元寇でさえ、台風の季節を知らなかったのですから、めったに来日できたはずがありません。

 ・・・ 少し入ってきた人が、鳥獣のいない(縄文人には興味がない)平地見て、少し土地を耕して米などを作る。

 最初はおそるおそる眺めあっていた縄文人と弥生人の間に、交易がおきたでしょう。

 今でも、旧インカ帝国あたりの山岳民と平原民は物々交換をしています。縄文人は鳥獣を出し、米や野菜と交換するというようなことが当然おきただろうと思われます。

 すると、相手は怖い存在ではないとわかり、友好関係も生じ、縄文人と弥生人と言ったところで、アフリカ系とヨーロッパ系ほども違うわけではありませんから、当然交配もおきたことだろうと思います。

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 その点、朝鮮半島は、中国側から一気に大量の文物、人間が入ってきますので、一方は駆逐されるであろう、と考えるのはごく自然な考えだと思いますよ。


(2)
 これは、どこでもありがちですが、土地と農産物でしょうね。

 現代と比べれば、誰も住んでいないと言っていいほどの人口であっても、またいかに豊葦原瑞穂の国とは言え、耕地にできる土地は限られていたはずです。

 土地の奪い合いになったことでしょうし、土地は十分確保しても、環境によっては洪水や日照りで人を養えない状況にもなります。

 縄文時代のように、広範囲にパラパラと人が住むのではなく、耕作のためにかなりの人数が集まって住むのですから、人が飢えれば目に付くし、見ればなんとかしなければならないと思うのは当然です。

 そうなれば、他から奪おうとするのも当然のなりゆきでしょう。

 土地がない、人が余る、食べ物がない、などなどの条件が整えば、世界のどこでもその種の戦争はおきます。

(1)
 私は、縄文人が狩猟を中心にしていたことから、それほどの人口密度はなかったと考えています。

 そこへ、少しずつ弥生人が入ってきたと考えます。

 周囲が海ですから、当時の造舟技術からして、大人数が大規模に入ってきたとは考えにくいのです。

 「元朝」の時代の元寇でさえ、台風の季節を知らなかったのですから、めったに来日できたはずがありません。

 ・・・ 少し入ってきた人が、鳥獣のいない(縄文人には興味がない)平地見て、少し土地を耕して米などを作る。

 最初はおそるおそる眺...続きを読む

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小説と事実の関係は小説によって異なると思いますが、司馬遼太郎の風の武士にあるやすらいの国とか紀伊国屋とか伊賀の忍者などの真実性はどのぐらいでしょうか。

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>>小説と事実の関係は小説によって異なると思いますが、

私も歴史小説を書いていますが、極端に言えば、「虚」が90%。「実」が10%位だと思ってください。
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と言う趣は取り入れますが、何せ、その当時に生きていたわけではないですし、実際に見たわけでもありませんから・・・。
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映画 レッドクリフ パート1を 見て
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