プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

諸葛孔明は陣中で病にかかった。これが最後と思ったときに妻子と面会をした。
孔明は妻に子供に対して決して甘やかして育ててはいけないと厳しく妻に命じた。

ゲーテはこう言っている。
無制限な活動は、どんな種類ものであろうと、結局破産する。

仏陀さんはこう言っている。
落ち着いて思慮ある人々は身をつつしみ、言葉をつつしみ、心をつつしむ。彼らはあらゆることに慎んでいる。

造物主は幸を求めよと人間に対して希求している。
人間は無知である。しかも比較がなければ判定ができないほどの愚か者。
造物主は苦しみを与えて幸せを人間に求めさせる。

A 回答 (10件)

随分といじましいじゃないか。


トラディション、別にちっぽけなんてことはない。誇大でもない。
ちょうど良いんだ。縮こまるなよ。
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順境の人と逆境の人があるが、双方成功する場合、前者を知者の道、後者を賢者の道というのが妥当だろうと思う。


知者は知っているので過たない。
賢者は知らないが賢さで過ちを回避する。
知者の道は最初から平らかであるが、賢者の道は難路である。しかし賢者はその難路を平らかに歩み行きて人生を全うする。

トラディションの言っていることは、困難によって成長することだと思うが、それは知者の道でも賢者の道でもない。何故なら両者とも困難に陥ることが無いからだ。
トラディションの言い分だと、成長に終わりがない。その道に終わりがないのは道とは言わない。道には目的地が存在するからだ。
しあわせは困難とは隔たっている。困難に魅力を感じている間は惑わされる。自分の受けた困難には理由があるのだと言うのは、こじつけた慰めに他ならない。
ただ単に、困難がある、そう言う現実、事実があるに過ぎない。本来そこに意味はない。ただ人が、その困難を理由に善なる反応を示してそこからの回復の道筋を立てる。
飢餓に遭って彷徨く。これは善なる反応ではない。
飢餓に遭いながらも、少ない中から分かち合う、これを善なる反応と言う。
我らは死ぬ。ここにあって互いに死ぬはずのものであると覚悟をした時、争いは鎮まる。
それは善なる反応の最たるもので、生存の欲求を調伏した事に他ならない。
善の善なるものはこのように安らぎをもたらす。
豊かさが人を堕落させると言うのも、一面頷ける。
しかしだからと言って、困難が高貴さをもたらすというのは焦った判断だ。
高貴な人は豊かさの中にあっても貪らない。
高貴な人は困難の中にあっても静まっている。

現状、苦しいか苦しくないかは人生の本質を示唆しない。
しかしながら人である以上、苦しみの中にあっては苦しみを知ることはむしろ難しい。苦しみの実感に蝕まれて、その本質を悟ることが難しい。
何故苦しまなければならないのか、それは生きることがそもそも困難だからだ。その現実、事実の中にあって、健く生きること、それが道だろう。それが安寧への道筋だ。気高い人はどんな盗賊にも奪うことのできない宝を戴いている。
諦めと、捨て去ること、自由になること、欲や汚れを削ぎ落とし、或いはまた欲を欲せず汚れを汚さずして、生存の苦難をフラットに乗り越えること。

トラディション、前を向くんだ。
お前は聡いが知者でも賢者でもない。
だから苦しむな。苦しまないなら、お前もまた、知者や賢者になったのだ。
苦しみを求めるな。困難を受けるな。
自己を安んじて、この世のものの大体はくだらないと見て、真に益する事をなすんだ。
その時何が大事だったかが分かる。
寂しく空しい。それを堪え忍び、物惜しみせず、気高く厚い人になれる。
風吹けば倒れるような人ではなく、しっかりとした道を歩む人になれるさ。

おれも励もう。
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この回答へのお礼

お前は知らないことをこれこれであると仮定とし話を進めるからそれを非難・批判しても仕方がない。

俺は前を向く気もなければ後ろを向く気もない。成長や向上心は落とし穴が待ち受けているからだ。
誰だって苦しみを求めてはいない。苦しみは求めていないがゴミ捨て場から金目のものを拾い上げては他人はこう考えるのかなと吟味している。益することを成せだって。そうだよ、そうしている。
ちっぽけな人間がちっぽけなことを大切にする。それで十分だ。何も出家して修行する必要はない。

お礼日時:2023/01/01 06:44

苦しみによって道を示唆すると言うのは、鞭によって馬を御するようなことではいけない。

それは自由意志ではないし、人間を尊重する事にもならない。
善と悪があり、どちらも楽しいが質的な違いがある時に、善を選べる。それなら自由意志と言える。
不味い飯(悪)と美味い飯(善)があるだけなら誰だって善を選ぶ。そんなものは選択肢の無いに等しいことだ。

苦しみによって道を示唆すると言うのは、他者の苦しみを癒そうと欲する内発的な動機が人間の本質に則るものだと言うことだ。それは神の導きか?俺は違うと思う。そもそも、この生まれは厳しく辛いもので、それに対する人間の反応として善が生まれる。神が仕組んだものでは無い。もし神が仕組んだものなら、神は人間に役目を与えているという事になる。善によって世界を開発するという役目を負わせている。それでは、人間の自由意志を認めていない事になる。自由意志があるなら導きはない。導きがあるなら自由意志はない。

しかしながら、誰も苦しまない道があり、そこに自由もあるのなら、それは解脱に近いものだろうと思う。
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この回答へのお礼

理想はお前の言うとおりだ。善の反応だって。それは造物主が刺激を与えなければ産まれない。
苦しみ、不快、嫌なことがどうしてあるのか。
知恵を試される試練、実力を試される試練、不屈を試される試練がどうしてあるのか。
お前は深く考えない。浅い。

理想を夢見る弱輩者。お前の実態だ。

お礼日時:2022/12/30 07:16

天皇陛下なら、実体はおありだけれど、ね。



Jesus,釈尊では、此の世にいらしても、輪廻転生なされていらっしゃらないのであれば、生物ではないかも。
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皆様今日も⬆愚か者以下高卒がゲーテと孔子持ち出して身の程わきまえずあどけないこと考えてまーす相手してあげてね!

「真実。愛するのならば厳しく接さざるを得な」の回答画像6
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この回答へのお礼

唯我独尊のお前。

お礼日時:2022/12/29 04:37

先に逝った人が羨ましい。


我は長く生きて晩年にこんな苦難を背負うとは人生の不公平を感じる。
平等というが、人の生きる道は様々。
幸せの道は遠い。
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この回答へのお礼

唯我独尊のお前。

お礼日時:2022/12/29 04:37



愛する人はこの世にただ一人。
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この回答へのお礼

唯我独尊のお前。

お礼日時:2022/12/29 04:37

>造物主は苦しみを与えて幸せを人間に求めさせる。



それはやさしくない。やさしさってのは、そっと、大切に、ぎゅっと抱きしめてやるもんだよ。ありったけの愛を相手が満足するまで注ぐんだ。そうやって心を満足させてやらないと、人間は不安定になる。不安定になった人間は自立できず自他を損なう。わざとじゃない。不安定だからそうなる。
やさしさを十分に注がれたのちに自立した人間は安定する。余計なことをせず、目が利き、耳が聡くなる。人の苦しみや悲しみに鋭敏になり、人や世間を損なわない。

猫だってそうだろ。野良猫は目つきも鋭くやさぐれているが、家猫になるとクリっとまるい、かわいらしい目つきになっていく。

やさしさを、愛を与え合うんだ。

もし神が、人に厳しくすると言う理由があるなら、それは神から離れさせ、自立させるためだろう。そこにしか自由はないし、生きる意味もそこにしかないからだ。もしかしたら、神にも寿命が在るのかもしれないな。だから人の自立を望む。

愛が素晴らしいものだと身をもって知って、それでも愛を束縛と見て、晴れた境地へ赴くならば解脱もあるだろうと思う。
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この回答へのお礼

人は他人(ひと)にされたことを他人(ひと)にする。人の笑顔をうれしく思ったらそれを別の出会った人にする。そういうものだ。人から親切にされる。それは人を安定させ、人との関係をギスギスさせない。お前の言うとおりだ。
造物主が人にあれも与えこれも与えたら人は造物主を愛するだろう。
人は自分に良くしてくれる人は善人で、そうでない人は悪人と認識する。
そんな幼稚で神を認識するのはよくないと神は考えておられる。
神のまたは善の認識。自由意志でなければいけない。

頭のよい人は造物主は人のことは人に任せておられると知るのである。
お前は現実認識が甘い、浅い。

お礼日時:2022/12/28 23:53

ヒトは


経験を通して答えが内にあることを知り、その答えに従って成すべき事を知る。
答えが内にある以上他人が答えを知る術はない。できることは内なる答えに耳を傾けるよう機会を与える事
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私は諸葛孔明さんとブッタさんの言われることは身にしみてわかります。



甘やかされてずっと育ってしまった子はどうにもならない人になってるし、それから修正は全く不可能です。親やまわりがそうしてしまったのです。
自分の子は厳しく育てよ、はいつの時代にも通じる金言であると思います。

ブッタさんの言われることも全くその通りです。
私のまわりの狭い範囲でも、言いたい放題の人ややりたい放題にしてる人には、まずまともな人はいません。ほんのちょっとだけでも人の発した言葉は生きてそのまま一人歩きをして、人を傷つけたり妬みを生まれさせたりするのです。

それを知ってる人はちゃんと考えて余計なことは何も話さない、話すときは温かい気持ちが溢れるような言葉を短く使われています。
なかなかなれませんが私もそんな人達を見習って生きていきたいです。
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