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勇気を辞書で引くと、「いさましい意気。物に恐れない気概」と。まあ、こんな感じですね。

今、私が興味を持っているW・チャーチルの言葉です。

勇気とは、起立して声に出すことである。
勇気とは、着席して耳を傾けることである。
勇気がなければ、他のすべての資質は意味をなさない。

酒を飲んで気が大きくなっている状態を、勇気凛々状態とは言わないし、「ハチのムサシ」みたいに太陽に喧嘩を売って死ぬことは、どうでしょう?微妙な感じがします。
時代の流れでは、勇気なんて「不要なもの」となっているようです。

勇気って何でしょうか?必要な時ってあると思いますか?等々。

質問者からの補足コメント

A 回答 (13件中1~10件)

彼氏彼女に告る時は勇気が必要でしょう。

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この回答へのお礼

思い出しますね、あの時を。

失敗じゃなかったんだけど、失敗だと思い込んでしまった…

お礼日時:2023/04/28 13:07

死に隣接する現場で、覚悟を持って、平静に、力の限りを尽くすことだと思います。


熱い心なのに静かさを保っているところが、勇気なのだと思います。

僕らのような普通の人であっても、死に隣接しているという確かな意識を持つことで、勇気を身につけられると思います。

一生懸命、精一杯に生きたと言うにも必要ですし、自他を安らげるにも必要だと思います。

端的に言えば、自分や他の人の死の恐怖を克服するのが勇気だと思います。
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この回答へのお礼

「武士道は死ぬことと見つけたり」(葉隠)

戦乱の世に生きたサムライたちの哲学的結論はここにあったようですね。
私達日本人にはこの心は多かれ少なかれあるでしょう。私にもあります。

しかしー私には「美学」的ニュアンスを感じて、そこにどっぷり浸ることはできない感じなのです。
柔道の木村政彦は、ある時「今なら切腹できる」と思い満足したと言います。
それは、私にはできない凄い境地と言えますが、自分で完結する世界ではないかと思います。

どうせ死ぬのならば、自分の為ではなく、社会の為に死にたいと思う。そうなれば、無為な自爆なんてことは避けるようになり、死の恐怖を克服しつつ、自分の命を大切にするということができるようになるのではないかと。

そんなことを思いました。

お礼日時:2023/04/29 11:15

未体験の世界に入る行為に必要なのが勇気です。


ただ、気力とか気合とか云うように、勇気には強弱が有ります。
究極なのは、死を恐れない行為と云えるのでは?

W・チャーチルの言葉は、政治家の“文系視点”での言葉なので、インテリには気に入られそうですね。

ハチのムサシで思い出すのは、我が敬愛のドン・キホーテです。

ニャンポコさん、キホーテのように風車に突進出来ますか。
私は出来ません。勇気がないから。
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この回答へのお礼

>未体験の世界に入る行為に必要なのが勇気

端的な定義に思えます。

「勇気」には、仰るように強弱、種類などがあり、世間では、亜流も含まれていると思います。

“文系視点”?

私は基本的行動パターンとして、7割の勝算を感じたときに、その風車に突進します。
どうしても7割を満たすことができないと悟ったときは、できる限りのことを考慮に入れ、じっくり覚悟を決めてから突進します。

基本的に私は慎重です。バカなところもあるんだけど…

お礼日時:2023/04/29 11:23

勇気って何でしょうか?


 ↑
善なる行動を起こすとき、
リスクがある場合、それを怖れて
やめる人と
突き進む人がいるわけで
後者が勇気のある人。

計算尽くで善を実行するのが
偽善者。

計算抜きで善を実行して
しまう人は、勇気の王。




必要な時ってあると思いますか?
 ↑
常にあると思いますが。

勇気を出して告白する。
勇気を出して、買い注文を出す(株式売買など)。



『勇気とは、それが必要となるときまでは
 誰でも持っているモノ』
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この回答へのお礼

リスクを恐れず、善なる行動を起こす人が、勇気のある人だと。賛同します。

告白、買い注文など確かに勇気はいりますね。計算もあるものの、最後はリスクのある賭けですからね。

お礼日時:2023/04/29 11:27

勇気とは中道です、愛の別名です。


勇気の右に憶病があり、左に無謀があるのです

言いかえると勇気の反対は憶病であり無謀でもあるのです
言いかえると憶病な人は無謀である、と言えるのです
言いかえると勇気の反対は無関心とも愚か、とも言えるのです

勇気とは強いとは違うのです
強いだけならライオンやトラが一番勇気があることになる。
強いだけでは無謀になり残虐になる。海では溺れる、山では遭難します

ここからは先生と生徒の会話方式で説明します
  生徒の一人が手を挙げて言った。
「先生、山なんかで勇気ある撤退ってありますよね、これって怖いから撤退でしょう、だって勇気があれば、撤退しないで登るでしょう」、
「そうだね、でも強がっていただけなら無謀登山となり遭難するんだ。登山に多くの知識と正しい判断が必要なんだ。喩え弱虫に見えても、憶病に見えても、知識に裏付けられた決断なら、それは勇気と言うんだ。
 と言う事は、すなわち勇気とは、時に憶病にも見えるということだね。と言う事は、勇気の反対は臆病ではない、無謀と言う事になるね。すなわち勇気とは理性ある正しい行動と言う事にもなる」
 生徒の中にはよくわからないで、首を傾げる子もいたが、先生は分かり易く、ゆっくり話を進めた。
 世の中、強い人間ばかりじゃない。  
 憶病でもいいと思うんだ、怖がってもいい、恐れてもいいと思うんだ」
 生徒の間から声が上がった
「エー先生、憶病者に勇気はないと思うよ」
 先生はしばらく間をおいて、言い切った
「いいかい、憶病でもいい、強がらなくてもいい、恐れてもいい。誰だって怖い時は怖いよ。ありのままの自分でいい。
 でも、正しい事ならば『震えながらでも一歩前に出る』それが勇気と言うんだ。
 此の人を勇者と言うんだ。この人こそ愛がある人だ。
 いいかい、先生の遺言だと思って聞いてくれ。『一歩踏み出す勇気』を忘れるなと言う事だ、勇気と臆病と無謀の差は紙一重だ。
 愛だ愛だと乱発しても、そこに勇気が無ければ忍耐が無ければ愛ではない。  
 もう一度言う、勇者とは、怖がらない事ではない、恐れない事ではない、強がる事でもない、自分の弱い心にムチ打って、一歩踏み出す人の事だ。
 言い返れば『一歩も踏み出せない傍観者には愛は無い』と言う事だ。
 と言う事は、愛の反対は憎しみではない、傍観であり、無関心ということになる」
 一人の女子生徒が手を挙げて言った。
「先生、愛の反対は『憎しみ』って私の辞書には出ていました。私、調べた事あります」  
 先生は躊躇なく言い切った
「『憎しみ』とは、愛が変形したものだ。
 貴方の辞書は間違っている」・・・と
 生徒たちの間からは納得せず。
「えー先生、本当に辞書が間違っているんですか」「間違った辞書ってあるんです」
 教室は大騒ぎになった。
 先生は皆を静止しながら言った。
「あんなに分厚い辞書だ、一か所くらい間違いがあっても不思議じゃないよね」
 生徒は口々に勝手な意見を言っていた。
 先生は更に皆を静止しながら言った。
「でも、試験の時だけは愛の反対は憎しみと書いてくれ」
 教室内はざわついていたが、生徒の中から、
「分かりました先生。見解の相違って言うんでしょう」先生は笑いながら。
「そういう事にしておいてくれ。
 ついでに貴方の辞書には勇気の反対は『憶病』と出ているかもしれない。それも辞書の間違いだ。
 勇気の反対は『無謀であり残忍であり愚である』と言うのが正解だ。
 憶病に見えても、己に勝ち、一歩踏み出す奴は、間違いなく勇者だ。
 何があっても諦めない忍耐の人は勇者だ。
 あ、これも試験の時だけは勇気の反対は臆病と書いてくれ。
 ここで先生が言いたいのは、現実の世界では、理屈を頭で考えて計算しても、その通りに行かない場合がある。と言う事だ。
 時代により、場所により、人により違うんだね。冬山で勇気なんか出していたら、命が幾つあっても足らないだろう。
 又、『七転び八起き』なんてことわざがあるが、先生に言わせれば、懲りない奴の喩えだよ。
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この回答へのお礼

うむっ!

端的にして分かり易く鋭いご見解です。

特に、勇気とは愛の発露であるという点に感銘します。深い勇気とは、愛から発するものであるから、強い歓びが伴うものなのでしょう。だから、確信を持てるのでしょう。

お礼日時:2023/04/29 11:41

蜂で思い出した。


大昔、会社員でした。
仕事中、開いた窓から
大きな蜂が侵入。熊に譬えるべきだろうか。

上手く窓に誘導して
窓の外に行った時に
窓を閉めて入れぬように仕向けたこともあったが、

2回目に来た時、3度目は困るなあで
窓から入ってあちらこちらを飛び回る蜂を見て
女の子が怯えるので
コンピューターの紙
(スペーシングチャート)を
長い筒のごとく丸め、
これで空中を飛ぶ
蜂をひっぱたき、
床に叩き落とし、
足元でぴくぴく
と震えている蜂を
足に履いている靴で踏み殺した
ことあったなあ。

これは勇気ですか。

ゴキブリも
部屋を歩き回るのを
見つけると
同じように
踏み殺す。

または内輪やスリッパで
引っぱたいて殺す

だから、その後は部屋から
虫が消える。
1匹も見かけず。
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この回答へのお礼

勇気と言うより、身を守ろうとする本能的なものと言えますか。

お礼日時:2023/05/04 09:15

此処は哲学道場でもあるから、、、


寄せられた回答をみて、考えました。

勇気って、バックボーンが必要なんだろうか?と。

表現を変えて、
飾り気のない勇気って、無いのだろうか?とも。

※ Bさんも参加されたし。(“両極”の温暖化も進んでいる筈)
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この回答へのお礼

>勇気って、バックボーンが必要なんだろうか?

と言うより、人間の心情にしても行動にしても、バックボーン的なものが必ずあると思うのです。

「動機」と言うべきものがあると思うんです。

お礼日時:2023/05/04 09:18

母親の子供を思う気持ち。


自身の命を省みず、子供を救おうとする行動。
これを勇気ある行動、としますか?

これは動物的本能に依るのであって、勇気とは違うと思うのです。

勇気は度胸とも、云えるのではないでしょうか。
小心者の私は、大勢の人の注目を浴びるような状況に置かれると、ひるんでしまいます。怖気付いてしまいます。

こうした状況で、平然としていられるのは度胸がある、と云う事になりますが、この度胸の先に勇気と云うものが、、、

と、ここまで考えて見ましたところ、

何やら、勇気にはバックボーンが有るのかも知れないと、思い始めました。

、、、。
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この回答へのお礼

バックボーンと言うか動機と言うか、まず情緒・感情というものがあって(欲望でもいいと思います)、それを叶えたいというところから勇気が湧いてくる、ということかなと。

勇気が湧けば、行動ができる。だから、勇気を出すには、自信とか、切羽詰まった状態とか、吹っ切れた精神性とかが条件になるのであって、度胸と言うのは結果論かなと。

お礼日時:2023/05/05 22:00

勇気には、低俗とか高尚とかがありますか?



有るとすれば、偽の勇気も真の勇気もあるはず。

動物性による勇気は低俗。
理性性による勇気は高尚。

低俗な勇気は偽物。
高尚な勇気は本物。

これでいいですか。
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この回答へのお礼

本物偽物というより、高低はあると思いますね。

小乗的なものより、より大乗的な勇気が立派であると思いますぞ。

お礼日時:2023/05/05 22:03

更に考えました。



何かやろうとするとき、それをすることに自信があれば勇気は必要ないですよね。
自信はないけれどやらなければならない、と云う時に必要なのが勇気だと思うのです。

だから、自分の能力を超えた(自信のない)事柄に挑む時に必要なのが勇気だと思えば、やっぱり未体験の事に〈挑戦〉する時に必要なもの、と云う事になってしまいます。

あとはやっぱり、死を覚悟する時の勇気、ですね。

※ 一応、独り合点しておきます。
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この回答へのお礼

好きな女の子に告白することも、起業をすることも、ある程度以上自信がなければできないことです。相手があればリスクもある。だから勇気が必要だということでしょう。

自信のないことには、あまり挑まないほうがいいと思いますが。

お礼日時:2023/05/07 13:51

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