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意識と認識と云う言葉は一般、同じ用法をされていのでは?と思っているので、そのことの確認と提案をしてみたいのです。辞書的にもあまり区別はされてなさそうなので。

仏教では識とは、知る事であると云い、6っつに分けています。眼・耳・鼻・舌・身・意の六識です。
これで思う事は、この六識は感覚作用ですよね。意に付いても〈感じる〉と云う感覚作用だと云えると思うのです。

そこで、この六識は感覚作用なので〈認識〉と云う表現を使います。感知したと云う事です。
認識とは生物が持つ感覚作用だと云いたいのです。

そうして、このような作業をしていると云う事を〈知る〉、という働きの事を認識とは区別して〈意識〉と云わなければいけない、とも云ってみたい。 
これは、人間だけが持つ能力です。(高等な哺乳類なら少しばかり、こうした能力を獲得しているかもしれません)

人間は、感覚(認識)を意識(自覚?)し、意識したものを理性が受け止め、反応して行動(意力)する、と云う“形式”の内に有るのではないでしょうか。

感覚・理性・意思、という三つの働きですね。(記憶と云うのが?ですが)

再度の提案ですが、認識と意識という言葉は使い分ける〈べき〉ではないでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 画像を変えました。

      補足日時:2023/05/12 20:38
  • 私のもやもやは、ベストアンサーによって、ある程度消えたような気がします。

    回答を下さった皆様、有り難うございました。

      補足日時:2023/05/14 11:42

A 回答 (25件中21~25件)

ご返信ありがとうございます。


再度拝見させていただきました。

まず、

>認識とは生物が持つ感覚作用だと云いたいのです。

認識自体は機械でも可能です。
例えば赤と青を認識して区別できます。
ご質問はその認識に生物的な
意識レベルまで落とすことがテーゼに含まれているのではないでしょうか?
例えば盲目の人間でも意識下になくとも危険なボールなどを避ける事が言われています。
ブラインドサイトですね。

>感覚・理性・意思、という三つの働きですね。(記憶と云うのが?ですが)

感覚はセンサーであり
理性は脳で起きる思考のカテゴリだと思います。

意識はおっしゃっるように
使い分けを思います。

体内外部を問わず、でてきた情報の
受け皿としての意識と

何かに意識する・・・
つまり能動的なフォーカスとしての
用法は異なると考えています。
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この回答へのお礼

こうしていろいろな意見を頂いてみると、何やら混然としてきますね。

自分でも、認識とは感覚作用だ、と云っている最中に、、、
理性に依る判断(それら二つのものは全く別物、と云ったような)に対しては、認識と云う言葉を使う事は不自然ではない、と云う事に気付きました。
感覚作用だけだ、とは云えないと。

ただ、この例に合わせて〈意識〉を使おうとすると「そのように心掛けようとしている」と云う〈行為〉に対して意識と云う言葉を使うので、やはりこのあたりは掘り下げて見たくなります。

結論と行為、ですね。

でも何やら、国文法の世界に迷い込んでしまったようで、チョット難しい。

お礼日時:2023/05/12 19:01

>認識と意識は使い分ける


賛成です

>認識とは生物が持つ感覚作用
勘違い間違い思い込みに〇〇はこうだったという感覚か記憶になる?

>意識
3食しっかり食べる野菜中心炭水化物を控える運動をする等考え?信念?
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この回答へのお礼

一つ前のお礼欄で使った〈認識〉に付いて、何か思うところあったら、お願いします。

お礼日時:2023/05/12 16:23

認識の最後のプロセスを意識が


受け持つと言う棲み分けでしょうか?
また、意識すると言う表現での意識は
受け皿である意識の拡張解釈で
能動的認識と置き換えても良いかも知れませんねぇ。
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この回答へのお礼

私の頭は単細胞だから、複雑なのは苦手です。

認識と云う働きと意識と云う働きは〈全く別物〉と云う認識??です。

ここで使った〈認識〉って、なにやら意味深ですね。
敢えて〈考え〉と表現しませんでした。

※ 思索して見ようっと!

お礼日時:2023/05/12 16:21

意識する、と云うのは注意を向ける場合にも使う言葉。


認識する、と云う言葉は深く理解する場合に使う。
動物でも意識はする。けれども、認識するまで行くのは人間がほとんど。
だから図表で表したら、大きな意識する、と云う括りの中に小さな認識する、と云う言葉が含まれている感覚で捉えたらイメージ的にわかりやすい?
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この回答へのお礼

気になる、注意が向く、と云うのは〈物の存在〉に対してではないから、認識するではなくて、意識すると云ったほうがいいような?

理解とは、理性の働きに〈依存〉するのでは?

だから、「動物でも・・・」と云うところは認識と意識と云う言葉を逆に使いたい。

そして認識が先で意識が後、と捉えたほうが良いような?

お礼日時:2023/05/12 16:12

【九識】



識・・・対象を認めて、その異同を知り、分別領解する心の作用を意味する。

・眼識
・耳識
・鼻識
・舌識
・身識
   、、、以上、五識。

・意識 
意根が法境に縁して物事を判断し、推量する心の動き、及びその結果生じた識をいう。
法(記憶、思考など内的な対象)を縁としておのおの区別、異同を知る識である。

・末那識
  思量と訳される。思い量るという意。意識の奥で絶えず活動しつづけ、強く深く自我
に執着する心の作用をいう。

・阿頼耶識
  前七識の根底基盤となる深層の心をいう。一切法を含蔵するので蔵識といい、一切の
現象を生ずる根源となる識である。染浄の二法が含蔵されている。

《染浄の二法》
・染法⇒九界
・浄法⇒仏界

・阿摩羅識
  第八識の奥底に究極的実在として真浄識、根本浄識を立てて第九識すなわち阿摩羅識
とする。染浄を超えた清浄無染の根本識である。天台宗では仏界をあかすゆえに根本
浄識の第九識を心王とする。

・九識法性とは、法界であり、法界とは十界であり、十界とは諸法であり、諸法の当
体が本有の妙法蓮華経とされている。すなわち九識法性とは迷いの衆生に本来具足す
る仏智であり、衆生の悟りの生命即南無妙法蓮華経の当体であることをいう。
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この回答へのお礼

五識とは、感覚作用までの事を云っているに過ぎないのではないでしょうか。
六番目の識も、精神の感覚作用と思います。

だから、異同を知り分別了解すると云うのは、理性の働きに拠るところであって、認識と云うのは客観物の存在に反応する、と云う感覚作用までの働きである、と云いたいのです。

さらに考えて見ました。
七識以降に付いては、認識された客観物は記憶というカンバスに置かれ、意識を使って理性がそれを〈料理する〉。
また七識以降は、記憶の深浅の〈状態〉を語ったもの。
と、こんな風に。

でも、こうして考えてくると記憶って何だろう?なんて、さらに興味が湧いてきます。

お礼日時:2023/05/12 15:57

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