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機械論的身体観とは、意識が、機械的身体を一部分一部分すべてコントロールするというもので、つまり「思考する私」が、直接身体を操っているのだとする身体観です。

身体活動を習得するとき、身体活動のプログラムを意識が作成し、習得した後はそのプログラムに従って、ほぼ自動的・無意識的に身体が動きます。
しかし元々のプログラムを作ったのは意識であるので、活動のときに無意識であっても、そのことは機械論的身体観には反しないといいます。

ところが、この身体観では説明することが困難な活動の例もあるのだそうです。

そのような例が、なにか思いついたら、是非おしえてください。お願いします。

A 回答 (5件)

本当は無心の体が感情を支配しているのですが、


支配下の側の心は、其の事情への諒察を拒んでいるのです。
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意識が体をコントロール出来ていると思う事は、一つの間違いが在ります。

神経症の中で吃音や書けいと言うものがありますが、是は『自我意識』が体をコントロールしようとして出来ない例です。

上がり症や対人恐怖なども同じ事が原因となっています。眠る場合にも同じ事が言えます、不眠症と言う場合も『意識』が眠る事を邪魔をしています。精神疾患など全般にも言えます。

人間の心の事を今の精神医学では分かっていない事が前提になっています。『どうして心が苦しくなるのか?』と言う原因を特定出来ていません。分かっていなくて治療が始まっています。この事が寛解と言う限界になっています。

眠る場合一つをとっても、今の医学では眠れないと言う事の理解をしていない事になります。吃音が治ったと言う事を一つの例として上げてみます。

普通の人、健常者と言う人が話をする場合では、話し始めは『自我意識』が話をしようとしますが、話は口が勝手に話をしています。『自我意識は』口を動かす事はしていません。自我意識は『無意識の自分に』任せています。

例えば優勝が掛かった一打を打つ場合ですが、自我意識が出た場合は『体は硬くなって自我意識の言う事を聞かないはずです』優勝できる人とは、自我意識が出ないように打てた人になるはずです。

ここでメンタル面が強いとか弱いということが出てきます。自我意識が打たない時には『誰が?』打つのでしょうか?

心を病む事や、神経症になる事や、自律神経失調症になる事は全て今言った事が関係しています。『意識』が人間の行為を邪魔をしている事になります。

この『意識』が人間の行為を邪魔をしなくなった姿を『東洋では』無の思想或いは、無為自然と言い表しています。人間の意識と意識が出ない時に働いている者が折り合えなくなった時の事を『失楽園』と言います。その反対が天国です。

天国に一番近い存在は幼子と聖書には書いてあります。これは脳の機能分化が関係しています。脳の機能の分化が完成に近くなる事を、聖書では『知恵が付いて天国から追放された』と言っています。

分かり難いながらも、一人の人間の『脳内』には二つの人格が存在している事を意味しています。一人は左脳に存在する人格『自我意識』です。もう一人は、自分が出ない時に働いている『もう一人の自分です。』

つまり人間の障害を起こしている犯人は『心の矛盾や分裂や対立』という事になります。この解消を過去では宗教が担っていた筈ですが、今の宗教にはその力が残っていないように見えます。西洋でも教会離れが進んでいるようですし、東洋でもお寺の存在が心に与える影響を放棄しているように見えるからです。

その代わり精神科医や心療内科の元に集まっているようです。ですが吃音一つでも『原因はわかっていませんが、治療をすれば治ります。薬を出して置きます』と言う言い方になっています。原因がわからなくて治療が始まっています。どうして治るのかの根本が分かっていない事から、寛解が限度になっています。

宗教からの回答なら昔から答えは出ています。心の矛盾の解消は自分自身を知れと言う事になります。自我意識と、自分自身の命そのもの働きが矛盾した事が全ての障害の原因となっています。

それは左脳の意識と右脳の意識という事になります。具体的に言うならば『自我意識=顕在意識』と『無意識の意識=命そのものの意志』という言い方が分り易いかも知れません。
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>>機械論的身体観とは、意識が、機械的身体を一部分一部分すべてコントロールするというもので、つまり「思考する私」が、直接身体を操っているのだとする身体観です。



前半の部分は良いのですが、”つまり”の部分以降の結論は、それだけでは導けないでしょう。つまりは、”意識”ってのが、”思考する私”以外にも、たとえば”心臓の意識、腸の意識、・・”といった各部ごとの不随意筋をコントロールするような意識の存在もありうるからです。

たとえば、会社の平社員にも、もちろん意識はあっても、会社はトップの社長の意識で左右されていきます。新たな社長命令がないなら、社員たちの”意識”で、それなりに会社は運営されてゆきます。トップの社長が、海外で遊んでようが、昼寝してようがいいわけです。

つまりは、”社長が会社を操っている”とはいえても、”社長が会社の細かな実務をすべて操っている”とはいえないようなものでしょう。


私たちは、しばしば、思考において”論理の飛躍”をしがちです。”原因A”になることを行ったなら、”結果B”が得られる、という考え方、言い方をしますけど、実際の結果は”結果C”や”結果D”もありうるわけです。そして、ある人が”結果Bになる”と言っても、実際には”結果C”になる可能性が90%以上ってこともありえます。

「増税しても使い道を間違わなければ景気は良くなる」という命題の場合、これが正しいことを数学の定理の証明のように、長々と、論理的に説明していく必要があります。が、その命題が”嘘”な場合は、論理的に”証明”を語ることができません。(そして、多くの国民は、これが嘘だと感じているでしょう。実際には、日本だけでなく、ヨーロッパの不況もさらに深刻化させる不況に突入するでしょう)

私たちは、”論理の飛躍”、”結論への飛躍”、”勝手な推論”を見破る必要がありますね。
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>「思考する私」が、直接身体を操っているのだとする



たとえばメルロ=ポンティは、こんな例を出しています。
右手が左手を、左手が右手を、互いに握り合っているところを想像してみてください。

右手が左手をさわっている、と「意識」してみるとします。右手が左手を感覚し、知覚している。と同時に、右手は左手によって触れられ、感覚され、知覚されてもいます。知覚しているのは、右手か左手か。知覚されているのは右手か左手か。
同じ右手が「心」の側になったり、「モノ」の側になったり。
右手も左手も、ともに知覚主体の側でもあり、同時に客体でもあります。

これを端的に言い表したのが、この表現です。

「最大のパラドックスは、私の身体が〈見るもの〉であると同時に、〈見えるもの〉だ、ということである」(p.210『シーニュI』みすず書房)

この右手と左手の二重感覚は、単に自分の内で呼び覚まされるだけではありません。
たとえば、雨の歩道を歩いていて、目の前の人がすべって転倒する。一瞬、自分の全身に緊張が走る。「見ている」わたしが「転倒」を経験するのです。

あるいは、ドリブルからパスへ、そうしてゴール前の選手のシュート、というサッカーの、時間にしてみれば文字通り一瞬の動きが成り立つのも、選手相互が相手の動きと空間的な位置関係を「自分のもの」として把握しているからです。

他人の身体が見えた瞬間、自分の意識の内に「自分」「他人」という意識が生じる以前に、「〈見るもの〉と〈見えるもの〉」の二重感覚が呼び覚まされる。
別の言い方をすれば、ほかの人の身体感覚が、自分の内に乗り移っている、といえます。実際、「拷問」という行為が成り立つのも、サスペンス映画を観て自分の心臓がドキドキするのも、高いところに立っている人を見て足がすくむのも、すべてこの二重感覚です。

知覚し、感覚するものは、同時に、知覚され、感覚されるものではないか。
つまり、身体というのは「一つの両義的な存在の仕方」で存在するのではないか。

西洋の思想史、ひいては科学や法律全般は、「わたしの身体」という言葉に端的なように、身体を所有する「思惟する私」を中心に置いて、発展してきました。
ロックは「身体」を私有財産の筆頭に置いたし、人権思想も「自分の身体を自由にする権利は自分にある」と謳います。臓器の移植や「脳死」が問題になるのも、身体はモノであり、わたしたちを人間として尊厳あるものにしているのは「精神」である、という思いは、いまなおわたしたちに根強いものであるといえるでしょう。

けれども、心身二元論、あるいは機械論的身体論では、この「二重感覚」は説明できません。

メルロ=ポンティが上げるのは、生後間もない赤ちゃんが、育児室で「伝染泣き」する例です。赤ちゃんは空腹感や不快感を直接感じていなくても、誰か別の泣き声を聞くことで、その声がいつも伴っている身体的な「感じ」が同時に否応なく生じ、その泣き声に伝染したかのように、一緒に泣いてしまう。

このように、自他の区分ができていない以前の身体性を、メルロ=ポンティは「癒合的身体」と名づけています。そうして、この癒合的身体は、実は、大人になって、自他の身体が区別されて生きている段階であっても、いつもその基盤として、意識にのぼらない在り方として働いている。だからこそ、わたしたちはこの「二重感覚」を味わうことができるのです。

あれやこれや書きましたが、少しでも参考になるところがあれば幸いです。
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ひとつは、やはり個々人の人格を形成している「心」の存在をどう考えるかということでしょう。


心の独立性を裏付ける最も極端な例として、多くの体験例(立花隆氏の著書にもある)が記録されている臨死体験中に”見られる”心の分離現象が上げられます。もちろんこういったものを当人の仮死前後の記憶における錯覚だろうと解析する人も多いようですが。
私自身は機械論を支持したいと考えています。
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