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武田勝頼は、長篠の戦いで、なぜ織田の鉄砲隊に無謀ともいえる突撃を繰り返したのですか?少し考えれば負けることは、分かったと思うのですが。

A 回答 (15件中1~10件)

弾込めの時間に突入すれば、簡単に


崩せる。

そう考えていたけど、鉄砲の三段撃や
防御柵で、それが阻止されたからだ
と、言うのが一般ですね。

近年は、その見解が疑われているそう
ですが。


ワタシは、鉄砲を主な兵器として使用
した信長と
旧態依然たる戦術に囚われた武田騎馬隊
という図式で考えています。


第四次中東戦争てのがありました。
イスラエルとエジプトの戦争です。

イスラエルの戦車隊がエジプト軍に
突っ込もうとしました。
しかし、戦車隊、壊滅。

エジプト軍は、ソ連から支給された
対戦車ミサイルを装備していたのです。

そうとは知らない、イスラエル戦車隊は
このミサイル攻撃で、あっけなく壊滅して
しまいました。

今まで楽勝だったイスラエルは
この戦争では大苦戦。
核を使用する、なんて話も出ましたが
米国がストップさせました。

それはともかく、この戦闘。

長篠の戦いに酷似していると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。

お礼日時:2023/06/22 15:25

そんなにいっぱい鉄砲があるとは思わなかったのと、映画やテレビと違って馬防柵は横一列にあったわけじゃく点在してたので、そこを抜けると思ったんじゃないのかなと。

イメージ的には馬防柵ってのはただの横に伸びた壁ではなく、近代のトーチカに近いものだったんじゃなかろうか。他の人が「殺し間」って書いてるけど、これって連携された複数のトーチカからの十字砲火みたいなもんだし。
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少し前までは、鉄砲の一斉射撃をすると、次弾を装填する間、無防備だから、一気に距離を詰めて接近戦にするのが定跡でした。


連発は想定外でした。
実際は、徳川の騎馬隊を追っての出来事。徳川の騎馬兵が邪魔になって鉄砲は撃ってこないだろうという甘い読みもあり。
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武田方の後方陣地を信長方に取られ、退路を絶たれ為、強攻突破、突撃せざるをえなかった、また、弾薬の数に圧倒的差がありました。

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諸説入り乱れていますが、一番もっともらしい比較的新しい説では、弾薬の保有数の差が勝負を分けたという説でしょうか。



昔は、バカみたいに騎馬隊連続突撃でバカみたいに倒されていったという、当時の現実を無視して面白おかしく書いた軍記物の作り話が信じられていました。

その後は歴史考証で、武田軍の大半は歩兵で騎馬突撃はほとんどなかったけれど、切れ目なく撃たれる織田軍の鉄砲で接近できずに退却しようとしたところを追撃されて壊滅的打撃を受けたという説が有力になりました。

その後、さらに考証が進むと、実は武田軍も鉄砲をたくさん持っており、武田軍は突撃したというよりも、織田軍に近づいて銃撃戦になったという説が登場しました。
当時の日本は、鉄砲を自前で大量生産して全国に流通しており、鉄砲をたくさん持っていたのは織田軍だけではなかったのです。
しかし、弾と火薬は海外からの輸入に頼っており、そう簡単には手に入らなかったのです。九州の大名が弾と火薬を手に入れるために、領内の女性を奴隷として宣教師に売り渡していたのは有名です。秀吉の九州征伐時に秀吉が知るところになって、宣教師たちが追放されましたね。

この弾と火薬の流通を織田信長が抑えて、大量に保有できたのに対し、武田は弾と火薬を集めるのに苦労していたらしいのです。

というわけで、織田vs武田の銃撃戦は、撃ち合いの末に弾切れとなった武田軍の完敗に終わった。という次第です。
まあ、織田軍は織田軍で、石山本願寺合戦で本願寺側の雑賀衆・根来衆の鉄砲軍団に苦しめられていましたから、鉄砲同士の銃撃戦に慣れていたわけです。
だから鉄砲の数だけではなく、弾と火薬の準備も万端にしなければ銃撃戦には勝てないという教訓が骨身に染みていたのでしょう。それが織田軍の勝因かと思います。
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諸説ありますが、漫画センゴクであった「殺し間」が好きですね。



基本的に騎馬隊の突撃は横一列の一点を集中的に攻撃して突破するのが基本ですか織田軍はワザと弱い部分を作り突破をさせ、両側面に鉄砲隊を配置して斜め方向に打ち込み弾が交差する場所を作ると、両側面から銃を打たれる「殺しの間」が出来上がります。

騎馬隊は突破力には優れていますが転回はある程度の距離や場所が必要なので狭い場所になだれ込めば止まれないのです。

詳しくは漫画を読みましょう。
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信玄亡き後武田家の存亡が勝頼の双肩にかかっていた。

つまり、勝頼は何が何でも勝たなければならない理由があった。勝てる自信もあったし、負ける筈もなかった。

おそらく、勝頼は戦いに臨み楽観していたのではないだろうか。木で作った馬防柵など破るにたやすい。造作もなく押し切れる。鉄砲の玉なぞ当たるはずもない。我が軍団をもってすれば必ずや織田、徳川勢を蹴散らすことが出来るはずだ、と。

結果はともかく、この無謀な突撃は明治の日露戦争、昭和の太平洋戦争で繰り返されることになる。

なぜ無謀な突撃を繰り返したのか勝頼だけにしか分からないでしょうね。
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桶狭間の戦いも奇襲なんてなかったやら、織田軍はもっといたなど、歴史なんて専門家が言いたい放題言っています。


昔の専門家がいい加減なのか、今の専門家が蒸し返して飯のタネにしているのか…

結論から言えば、まともな大名と部下を抱えていれば、質問者さまが
>少し考えれば
の失態は起こしません。
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近年、いろいろな研究がなされてきています。


決して大河ドラマが真実ではありません。

https://news.yahoo.co.jp/articles/3891cd6551f917 …

https://news.yahoo.co.jp/articles/0077532389c1b7 …
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隊列で突っ込んで居るのですから、騎馬隊⇒槍隊⇒鉄砲隊と続いているんです...知らなかったでしょう

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