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信長は九鬼義隆の九鬼水軍に「鉄甲船」を運用させ
「石山本願寺の戦い」において毛利水軍相手に大勝しましたが、
その後の秀吉の時代に
日本の水軍は朝鮮出兵では敵船の「亀甲船」に敗北してしまいました。

どちらの戦闘も
放火戦闘に対する防備の問題と攻撃火器が勝敗に大きく関わると思いますが、
九鬼義隆はどちらの戦闘にも関わり中心的な役割をになっているにも関わらず、
「鉄甲船」の経験は戦闘経験として活かされず、
原理的には「鉄甲船」と同様の「亀甲船」に破れる事に成ったのはどうしてでしょうか?
又、朝鮮の戦役で「鉄甲船」が戦闘に使われなかった理由はどうしてなのでしょうか?

昔から「新兵器」運用の歴史として不思議に思っておりました。
例えば「鉄甲船」は外洋航海に不向きで遠征出来なかった等の理由でしょうか?
御教導お願い致します。

A 回答 (4件)

質問する必要がないくらい十分に調べているようですね。


私はこの分野にそれほど詳しくはありませんが
日本水軍は、鉄砲や弓矢、焙烙という手投げの火炎弾、
焙烙火矢などの武器を使いました。
主な戦い方はこの焼き討ちと接舷戦闘です。
大安宅船には大筒も装備され、砲撃も行ったそうです。

ま、それに対する対抗策が亀甲船なのでしょうね。
装甲などで焼き討ちと接舷を防ぎつつ、砲で攻撃するろいう。

ただこれは近代海戦とは(お互いに)程遠い次元の戦いで
敵に接近してど真ん中で戦うわけですから
亀甲船は特攻船のようなものです。
漆川梁海戦では全滅したように、
性能で戦ったというよりは、根性で戦ったようなところがあります。

ま、帆船時代の海戦というものは逃げ場がないので
世の東西を問わず
根性比べのようなところが多分にあるわけですが。


あと、前回間違ってましたが、
鉄板で装甲された安宅船が朝鮮で戦った記録もあるそうですよ。
それから竜骨を備えた船は、あの時代私の知る限り
日本では造られてないと思うのですが。
信長公記のその記述は長年謎とされてきたやつじゃないのですか?

参考URL:http://www.rekishi.info/forum/forum100/200509111 …
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この回答へのお礼

調べれば調べる程分からないので質問させて頂きました。
史料的に当時の日本側資料も錯綜しているので分かりにくい所が在りますが、鉄甲安宅船と言うものも朝鮮の役に使われたようですね。
教えて頂いたURLでは大変参考に成りました。只、出典資料が並記されていませんので、みなさん基本資料をどこにおいておられるのか大変興味がわきました。
史実には在りませんが、中世型の前期砲による砲撃戦が展開され、性能において有利な朝鮮軍側の砲撃により日本艦船が敗北したのではないのか?
従来型の史説は誤りでは無いのか?
という風に疑問が増えましたので、もう少し調べてみるつもりでおります。

信長公記の記述は数字的にある程度の精度が確認されていますので、前述の全長30間が史実とすれば、日本船の構造ではあり得ない事が、複数の船舶工学系の研究者の指摘している所です。
宣教師等と接触が在り、かなりの物品・情報・資料を入手していた信長が、西洋船舶技術を移入していても不思議で無いように思いますが、その点に関して「全長30間」と工期以外に決定的証拠は在りません。

御指摘頂いた御回答大変参考に成りました有り難うございました。

お礼日時:2005/10/11 13:13

鈴木眞哉「戦国15大合戦の真相」中で、九鬼水軍は本当に鉄甲船で毛利水軍に勝ったのかということにたいして疑問を呈しています。

実際、九鬼家の家譜にはそのことはふれられていないそうです。
また、秀吉は甲板上を全て鉄板でおおった造ったそうですが、重みにたえかねたのかさけて沈没した船もあったそうです。
その意味では、いわゆる「鉄甲船」は、実際の使用にたえられるものではなかったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

御回答有り難うございます。
御指摘の書籍は所有しておりますが、その説には疑問を持っております。
複数の一級資料に第二次木津川合戦の「鉄甲船」の記述が存在する事と、
九鬼義隆は関ヶ原で西軍に属した為、九鬼家の義隆の記述はかなり削除されていると言う事実があり、
その点から鈴木氏の指摘にはかなり疑問が残ります。

織田信長が石山本願寺攻めのために新造した3ミリ厚鉄板装甲の安宅船。
装甲重量のため、非走行型より鈍重。前方と両舷に計三門の艦載砲あり。

というのが「鉄甲船」のほぼ客観的なスペックなようです。
鉄甲船の機動性の無さに関しては御指摘の通りかと存じます。

お礼日時:2005/10/11 13:24

鉄甲船の役割は大阪湾の海上封鎖です。


海の上の要塞といったものです。
いくら鈍くても火力は半端でなく、相手兵士に恐怖心を与え、戦意喪失させたのです。

あと村上水軍の得意な戦法を完膚無きまでに叩き潰す。
これは武田騎馬を撃破したときと同じです。
相手に自信のある戦いをさせない。
戦意を喪失した軍隊は赤子をひねるだけでよい。
元々織田軍は弱兵です。三河兵一人に尾張兵は三人の死者がいる。とは全国に響いていました。
では同数で敵軍に勝つには、相手を弱らせれば良い。
相手が戦意を喪失したら、弱兵でも統率が取れれば勝てる!!というわけです。

それが目的なので戦略目的を果たした鉄甲船は解体されました。
元々鉄の延板を張り合わせただけなので簡単に分解できる物だったそうです。
この船の為に鉄の価格がかなり高騰したので早く目的を達して解体した鉄を市場に戻して市場を安定させる必要があったので「残す」なんて出来なかったと思います。

経済効率上、誰も作らなかっただけです。
一隻沈むだけでも鉄の経済打撃はかなりのものです。
そんな高価な兵器は危険な外洋ではとても使えません。

私は物理は得意ではないのですが、鉄の船に浮力を与えるにはかなりの大きさと、鉄がいるそうです。
砂鉄しか取れない日本でこれだけの鉄は集めるのに相当な金がいります。
軍隊は経済に依存します。
経済を破綻させるような軍事行動は出来ないのです。

補足:歴史上「新兵器」で勝敗が決した戦いはスペインのインカ帝国制覇の時くらいです。
そりゃ石器時代の武器と火薬の近代兵器じゃ話になりませんからね。
原爆はあの時既に日本の制海権、制空権は連合軍に落ちて勝敗は決してました。
原爆は99%の勝利を100%にしただけです。

子どもでも理解できる説得力を付けるために「新兵器」を表現してるだけです。

ちなみに朝鮮出兵は朝鮮国土を灰燼と為し、補給物資食料を原住民から全て奪い取り、、世界で稀に見る焦土作戦をしての勝利です。決して「亀甲船」ではありません。

朝鮮は国土を焦土に出来るのですから、民衆から鉄を徴収するのも容易い。
織田信長はあくまで「金」で市場流通してる鉄を集めましたが、朝鮮は「権力」で神社だろうが生活用の鉄鍋であろうが奪える物は奪い集めたのです。

そりゃ略奪して作った「亀甲船」は残りませんよ。李朝の汚点なんですから。

日本は驚いたんじゃないですかね?
かなりの経済力が無いと作れない鉄の船を用意したんですから。経済力も無く、軍も弱く、国土を焼いた国がそんな物を隠し持ってたんですから。

徳川と仲良くしたのは争うほど国力が無かったのもあるでしょう。
焦土と化した国は戦略上何の価値もありませんからね。
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鉄甲船で外洋に出ることは不可能です。


マストがなかったとも言われ(異説あり)、
ガレー船同様にろで進む船なので
沿岸を離れることは無理でしょう。
重心が高く、常に転覆の危険がありました。

亀甲船も有名ではありますが、実際の戦闘では
大して活躍してません。
ほとんどは体当たりの衝角戦法で、数も少なく、
李舜臣は板屋船の上で指揮を執って戦死したと言います。

鉄甲船にしても亀甲船にしても装甲は不十分で
火砲、特に大砲の砲弾を防ぐ力は全くないと言っていいです。
鉄砲、特に火炎瓶のようなものを防ぐ、防火板に近く、
その活躍は織田信長得意の心理戦の産物であって、
実際にはこけおどしです。
ま、全般的に日本には海軍が存在しませんでしたし、
フンドシで小船にのっただけの水軍ですから
こけおどしで十分だったわけですが、
鉄甲船の戦闘は船の性能で勝ったというより
相手の意気を挫いたという程度です。

実際、もし大砲が日本で発達していたら、
鉄装甲の船ということより
より機動力があり操船しやすい船が発達したでしょう。
欧州ではそのようにして大航海時代がきました。
強力な大砲があれば、鉄板なんか無意味なわけですから、
素早く動き、いいポジションで砲撃するという方に
頭は向くわけです。

ところが日本も朝鮮も大砲という世界標準の新兵器を
自らのものにしておらず、海軍では後進国でした。

それで両国ともにドンガメのような不恰好な船を作って
戦場に送ったわけです。

この回答への補足

丁寧な御回答有り難うございます。
ただ、亀甲船は口径11.9センチ砲等の大砲を40から74門装備しており、かなり効果的な火力を充分備えており、鳴梁の海戦では日本軍船330に対し朝鮮軍13という状態でありながら、事実上亀甲船が日本軍船の重包囲を圧倒的火力で殲滅しています。鳴梁の海戦の被害は朝鮮側0に対し、日本側は撃沈だけで30を数え、軍船の多くが炎上大破し、来島通総戦死、藤堂高虎重傷と言う散々な物でした。
この時、日本軍が使ったのが弓矢による攻撃と敵接船乗船による白兵戦です。しかし、朝鮮軍は大砲火力と機動力による近代海戦に近い戦闘を行いました。
こうして、日本のシーレーンの基本が脅かされるわけですが、しかし、日本軍は既に信長が大船建造を可能にし、浮き砲台に近いとは言え鉄甲船による銃器による海上攻撃を経験しているのですから、遠征戦のエキスパートの秀吉が兵站上最も重要な制海権の確保を、軽視したとはとても思えませんし、浮き砲台の鉄甲船を部品にして移送し現地で組み立てれば、海戦で簡単に敗北するような事は無かったと思います。また、砲火による機動力を主にした鉄砲を主要火器とした戦闘も行っていません。朝鮮の役では陸戦であれだけ鉄砲を使いながら、海戦では弓矢を使った戦闘しか行っていません。

資料では「信長公記」では1973年に信長が建造した大型船は全長30間のサイズが在り、わずか40日で建造した事に成ってます。
記録の数値を信じるなら、これは明らかに部材を他で加工し、和船構造では無くガレオン船の龍骨構造を組み立てたと考え無ければ、サイズ的にも工期的にも理解不可能であると思われます。和船の船底材は構造的に17間が限界ですから、外国からの技術知識が入ら無ければ「信長公記」の記述が間違っていると言う事に成ります。
第二時木津川合戦でも信長は強力な火器で海上を封鎖し、毛利水軍を撃滅しています。
こうした順序が歴史的に逆なら分かるのですが、海上での銃撃戦とガレオン船建造技術をもっていた日本軍が旧式の戦術に固執した結果、砲撃戦を展開した朝鮮海軍に敗北した事が、時計の逆戻しを見ているようでやはり理解出来ません。

補足日時:2005/10/08 16:03
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