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「怒ってはいけない」という宗教の教え(特に仏教?)がやっぱりどうしても分かりません。…いや少し分かる気もするけど、そんな精神的理想論を言ってたらこの娑婆の世界で生きていけないでしょ?
という感じでしょうか。

いじめられっ子がとうとうブチ切れて暴れまくったおかげで、その後いじめっ子は手を出さなくなった、

とか、

学生気分が抜けきらなくてダラダラしてた若手社員を、上司があるとき思い切り怒鳴りつけたことによって、若手社員はようやく魂が入ったようになり、少しはマトモに働くようになった、

とか、人間社会はそんなドラマであふれてますよね?上の様なケースは「怒り」によって停滞局面を打開してるわけです。常識的に考えて悪い展開ではないでしょう。

しかし宗教では「怒り」を抱いてはならないという…それはホントに真実の教えなんでしょうか?すべての人が心に留めるべきことですか?

質問者からの補足コメント

  • いや実はですね…つい最近私生活でも「怒る」場面があったんですが、その後「言いたいことを言ってやったぜ」というスッキリ感と「俺、結構アホなことに対して怒ってたよな…かなりみっともないことしたかな?」という感覚がないまぜになって、かなり奇妙な気分になったんですよね…

    人それぞれ「怒ったっていいんだぜ!」という人と「怒ってはいけません」という人とキレイに分かれるんじゃないか、と思うんですが、私はどっちつかずなんですよね〜ホントに「怒り」に対する私の感覚は矛盾だらけです。

    うまく具体的には言えませんが、過去の個人的経験で「あのとき怒りを爆発させたおかげで結構事態が打開したよな?」と思うことだってあるんですよ。似たような経験のある人もたくさんいるんじゃないか?と思います。

    だからある種の人たちは怒りを必要としてるんじゃないかな〜と思うんですけどね。

      補足日時:2023/07/17 20:27
  • 「怒ってはいけませんよ」と平然と言える人は、そもそもが精神的にハイレベルすぎて、怒りたくなるような人が周りに寄ってこないとか、怒りたくなるようなシチュエーションに巻き込まれないとか、そういうことなんじゃないでしょうか?

      補足日時:2023/07/17 20:28
  • それに…「怒り」に対してグジグジ悩んでるのは何も私だけじゃないんです。

    かのドストエフスキーも「人が怒ってる姿というのはカッコよく見えるものだからな。神様は怒るなと言われるが、カッコよく見えるものだから、怒りを否定していいのか私は迷ってしまう。神様が謎ばかり出すから私は混乱してしまうんだよ」という風な文章を書いています。

    確かに、ビシッと怒るときには怒る会社の上司や政治家を、高く評価する人たちもいます。

    私のかつての大学の先生でしょっちゅうキレまくっている変わったキャラの人がいましたが、見た目の雰囲気はめちゃくちゃカッコいい人でした。女性にもモテモテだったようです。変わった人だから人それぞれ、その先生を嫌う人もいましたが、私は大好きとは言えないけど興味深く見てました。そんな人を見てると「怒ってもいいじゃん」と思ってしまいそうです。

    「怒り」を…どう判断すればいいんでしょうね…

      補足日時:2023/07/17 20:47

A 回答 (9件)

>宗教では「怒り」を抱いてはならないという…それはホントに真実の教えなんでしょうか?すべての人が心に留めるべきことですか?



はい、その通りです。

宗教が「怒り」を抑制するのは、それが人々の争いを呼ぶからです。同様に「欲望」も人々の争いを呼ぶので抑制すべきだとしています。この点は十分に傾聴に値すると思います。

仏教は元々、釈迦が「この世にはなぜこれほど争いが多く発生し、殺しあったり不幸になったりする人がたくさん出るのか?」という疑問と、その解決のためにどうしたらいいか?を考えたことに始まります。

その思想を深めるために釈迦が瞑想し《ありとあらゆる感情を捨てること=解脱》すれば解決する、と見極めたことが仏教思想の根本にあります。
 だから仏教は怒りだけでなく食欲や睡眠欲・性欲なども克服することが「修行」になり、荒行を治めた僧侶は「より解脱に近づいた人」なので高位の地位に就けるし、昔はすべての欲を捨ててその結果即身仏になった僧侶もいたわけです。

>上の様なケースは「怒り」によって停滞局面を打開してるわけです。常識的に考えて悪い展開ではないでしょう。

近代的な資本主義は「物欲を最大化することで発展する経済構造」なので、宗教的な教えとは相性が悪いとはいえます。

しかし、ダラダラした部下を上司が叱る、こともあれば、単に機嫌が悪い上司が感情をコントロールできなくて当たり散らすこともあるわけです。

また社会が物欲を刺激する仕組みをもっているために、未成年が金を得るために犯罪を犯したり売春に手を染めたりする、という負の側面も存在します。

なので「自分の欲望を抑制し、コントロールする」能力を身に着けるために、宗教を参考にできることはたくさんあると私は考えます。

>いじめられっ子がとうとうブチ切れて暴れまくったおかげで、その後いじめっ子は手を出さなくなった。

これも同じで、そもそもいじめっ子が宗教的な規範で自分の感情をコントロールできるなら、いじめられる子供がでないわけで、包括的にみて宗教的な抑制は意味があるといえます。

また、いじめられっ子がいじめられないようにするときに「ブチ切れて暴れる」という「怒り」が必要かどうか、という点でも疑問があります。
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この回答へのお礼

大変興味深いご意見、ご解説の数々、みなさん、ありがとうございました!

お礼日時:2023/07/24 21:48

基本的に少なくとも近似としては


怒るのが好きな人はいないと思います。

だから精いっぱいは怒らせ合いにならない世の中を
めざすことには意味がある。
つまり怒ることが嫌いな人間同士で
怒らせ合って世の中を暮らしにくい悪循環にしてしまわないように。
それで怒ることに対するワンクッションとしての
戒めとしての言葉が必要になる
ということなんでしょうね。

成長の段階の未熟な時期には
まだ全方向の傾向が強く、怒らせ合いになりがちです。
社会としてもより安心して暮らせる世の中でないほど
怒らせ合いになる傾向が高い。
そういう現実を丁寧に一歩一歩改善していく
前傾のバイアスをキープしていくことの大切さ
ということになると思います。

成長の未熟な時期の構造的限界を
精一杯揺らぎで抑える育成が機能している社会を維持して
大人の社会を子供の段階から成長した個人が構成するような
たすきリレーの感覚が求められると思います。
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それは違うと思います。


仏典に「尼倶律陀は、時に応じて大いに瞋りを生じた」等とある
更に
尼倶律陀長者は氏神に向かって大悪口、大瞋恚を生じて大願を成就し
とあります

少々難解な文証ですが、分かりやすく言うと
「瞋恚(怒り)は善悪に通ずる」とある。
感情にまかせた私憤は、自身も他人も傷つけることが多い。しかし、仏法を破り、民衆を苦しめ、信徒を蔑む「大悪」への怒りは、「正義の怒り」であり、「大善の怒り」である、と言うのが仏教です
 悪への正義の怒りは「善」、エゴの怒りは「悪」。怒りそのものが善いとか悪いとかは言えません。善悪は「関係性」です
 たんに、怒ってはいけない、批判してはいけない、というのではない。「瞋恚」すなわち「怒り」は、善悪の両方に通じると教えられている。
 

悪への怒りについて少々
「大善を嫉(ねたみ)、衆愚(しゅうぐ)にほめられることを喜び、大悪に反対する勇気もなく、大善に親しむ雅量(がりょう)もないところに小善たる特質があるのです。
 あるいは悪を好まぬだけの心はあるが、善をなすだけの気力のないのは、個人主義、利己主義、を脱しきれないからである。
 すすんで悪いことはしない。かといって、積極的に善いことをするわけでもない。ただ可もなく不可もなく、世間体を気にしながら、大きな悪には黙って従い、大きな善には嫉妬する──こんな人生は、結局は悪である。大悪に反対しなければ大悪をなすのと同じである。与同罪(よどうざい)となる、というのが仏法の基本です。
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多くの場合、いつも怒鳴りまくっている、やたらと暴力行為に及ぶというような人は、まず嫌われ、敬遠され、そして排除されるということになりがちです。

 たまには厳しく、状況次第で厳しいというのとは、評価が違います。 
「強面の人は内面とのギャップでモテる!優しい人が多い傾向も!」というように感じてしまう人もいるようですから、ガチガチ厳格・叱責と強勢がいつものことではダメなのでしょう。

> 大学の先生でしょっちゅうキレまくっている変わったキャラの人がいましたが、見た目の雰囲気はめちゃくちゃカッコいい人でした。女性にもモテモテだったようです。

たぶん、その女性は、先生の見た目しか知らない、キレまくっているのが先生のしょっちゅうなのだとは感じてないのでしょう。 
上司でも、先輩でも、親でも、取引先でも、「しょっちゅうキレまくっている」と感じた時点で、嫌いになるでしょう。

仁王とか、アニメのキャラでも、俳優でも、怒りの表情が顕わなのが好まれることもあります。 でも、自分の実生活で自分に怒りをぶつけてはこないと分かっているからでしょう。 

> ビシッと怒るときには怒る会社の上司や政治家を、高く評価する人たちもいます。

怒るべきとき、状況、相手に対し《いつでも優柔に接している》と、(上司や指揮官・幹部)が見えたら、そのような(上司や指揮官・幹部)を信頼する人は減るでしょう。 ですが、怒るべきとき、状況、相手に対し、《バットで殴る、足蹴にする、鞭でたたきのめす、張り倒す、除名にして排除する》などの行為に即でるのであれば、そのような(上司や指揮官・幹部)を信頼する人はいないでしょう。 状況と対応の妥当性を、それなりに判断しているのです。

> 「怒る」場面があったんですが、その後「言いたいことを言ってやったぜ」というスッキリ感と「俺、結構アホなことに対して怒ってたよな…かなりみっともないことしたかな?」という感覚がないまぜになって、かなり奇妙な気分になったんですよね…

【状況と対応の妥当性】に気がかりなところがあったのでしょう。
通常の状態で、鳴った電話にすぐに出ないとか、電話対応の言葉使いや気遣いにちょっと改善すべきことがあったとか、軽微なことで、メチャ切れたのであれば、もしかしたら自分の状況がイライラだった、自分の抱えている個人的な不平不満を当たり散らすことで解消したなどのことがなかったのかを気にしているのかもしれないです。

ただたんに、怒ることや、怒り方だけに注目してないで、もっと全体状況を見た方が、何を考えるべきかが見えてきます。 {結構アホなことに対して怒ってた}のであれば{みっともない}し、"スッキリした"というのは、ただの自分の鬱憤晴らしのウエートが大きい可能性があります。 
鬱憤晴らしが100%になると、電車の中で見かけたカップルやカッコイイ奴を突然刺し殺すというようなことも起こしかねないです。

> 「怒り」を…どう判断すればいいんでしょうね…

ネット上で、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%92%E3%82%8A …
アリストテレスは次のように述べた。
「然るべきことがらについて、然るべきひとびとに対して、そしてまた然るべき仕方において、然るべきときに、然るべき間だけ怒る人は賞賛される」(アリストテレス『ニコマコス倫理学』)
ベンジャミン・フランクリンは次のように述べた。
「怒りにはいつも理由がある。ただし、正当な理由はめったにない」

怒りは、多くの場合、自分が困窮し続けていて我慢できない状況になると、心中で沸き起こってくる(沸騰してくる)ものです。 
仕事が上手くいかない、暑くて堪らない、生活苦が続いて抜け出す見込みがない、他人が利益を得て自分には何も来ない、人が自分を理解してくれない、自分が無視され排除されていると感じる、大事な場面で失敗が続く、家族からもダメ出しされ続けている、、、、
怒りをどう判断するのかはあまり重要なことにはならず、怒りを起こしにくい状況をどう作るのかを調べて試す方がより重要です。

> 精神的理想論を言ってたらこの娑婆の世界で生きていけないでしょ?

ことわざでも、相反する内容のものが結構あります。
理想論だって一つではないし、一つの理想論をみても、その反対の理想論もあるでしょう。
https://yattoke.com/2018/08/28/opposite-meaning- …

旧約聖書を読むと、神は怒りまくっているように感じます。怒っている対象は、イスラエル、神を祀っている人々です。 イスラエルを滅ぼすというようなことも言ってます。 イスラエルは、この怒る神を祀って、ひたすら神に滅ぼされる日を待つのです。
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いじめっ子は怒りを抑えて反撃をするのが良い。



怒りに任せた反撃では勝てないと思う。
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教導の怒りという教えがありますよ。


人が間違った方向にいくのを止めるため愛がある怒りならば善であり
自分のために見返りがある怒りならば仏性ではないようです。
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笑ってはいけないも大変です


戒律やら決まりやらありますからね
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怒り、は邪、マイナス的なの感情になり、そこから憎悪、暴力に繋がりやすくなりますし、怒りを受けた相手に不快、怯え等として影響しますし

、自分の身体的にも血圧が上がる、血管が詰まるだとかの不健康の原因に繋がりますし、全てマイナス要素に繋がるからですね
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信仰している人にとっては真実かもしれませんが、


宗教の教えが何千年も変わらない方が
嘘くさいというか、変だと思います。
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