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「食べられる」という表現があるとして、皆さんならそれをどういう意味として受け取るでしょうか?
「食べることが出来る」という可能の意味?
「何者かに食べられてしまう」という受身の意味?
今のような文が宮沢賢治の「注文の多い料理店」に出てきました。
そうです「食べられる」という言葉を可能の意味の「食べられる」だと受け取った二人の男は、危うく山猫に食べられそうになってしまうんです。
こう考えると、いわゆる「ら抜き言葉」はそのような誤解を防ぐ、言語の正当な進化だと思うんです。
皆さんは「ら抜き言葉」を言葉の乱れだと思いますか?それとも正当な進化だと思いますか?

A 回答 (7件)

ら抜き言葉の是非は既に方々で論議されていますが


現代のスピードを是とする社会でこれは半ば既に容認されつつあると考えています。
らを抜かなくとも前後の文脈から「可能」「受身」「尊敬」「自発」を読み取れるというのが定説ですが、もう今その手間とかける時間が惜しまれているのかもしれません。

文章での読み取りだけでなく、実際の日常会話の中で使用する場合はすぐに相手に分かってもらわなければならないのですからなおさら「ら抜き言葉」は非常に理にかなったものだと思えます。

その意味から、私も立派な「進化」だと思うのですが「正当な」とは言い難いです。
言葉は生き物ですし、時代にあわせて変化していくの
は当たり前ですが、それは「正当」か「正当でない」か論じることの出来る性格の物ではないと思うからです。

今の時点では私は「ら抜き言葉」は時代の「必然」だと考えています。
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どういった経緯で変化したのかはわかりませんが、可能のみを表現できるため便利だと思います。


進化と言うのも何か引っかかりますが、新たな文法として吸収しても問題ないと思うので進化といえると思います。
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進化でも退化でもないと思います。


そもそも進化の基準が分からないので(というかないので)どうとも言えません。

「独壇場/どくだんじょう」という言葉はもともと
「独擅場/どくせんじょう」でしたが「擅/せん」という字は「壇/だん」という字とよく似ていたため今では「独壇場/どくだんじょう」が一般的な読み方になりました。

「犬も歩けば棒に当たる」も「思いがけない幸運にあう」という意味ですが本来の意味は「物事をすると災難に遭う」という全くといっていいほど意味が違います。

最近はいろいろ日本語の乱れについて問題がとりざたされますがもそのようなことは既に起こっています。
もう手遅れです。

いまから1000年ほど前の平安時代の言葉は明らかに違います。「古文」という教科もあるくらいですから現代の私たちにとっては本当に不可解で難解なものです。実際に言葉の用法が変わったり新しい言葉が生まれたりしているのですから言葉の乱れというのは矛盾してます。そんなこと言ったら現代の言葉も乱れているということになります。
自分では「キモイ」も「ウザイ」も乱れとは思っていません。これは極論ではないです。

俗に言う「ら抜き言葉」も乱れではないと思います。
自分としては使いやすいです。

ただ自分では「いろいろな意味を持つ」という言葉(犬を歩けば棒に当たるなど)と「1つの意味しか持たない」言葉の(食べられる/食べれるなど)2極化が進むと思います。
でもそれは文句を言ってはいけませんよね。自分たちでそうしたんだから。

2極化が良いのか悪いのかはおのずと分かってきます。結論としては「ら抜き言葉」は今の時点では区別がついて良いと思いますが将来この区別する用法がどうなってくるかが問題になると思います。

長くて見づらいかもしれませんがご了承ください。
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この回答へのお礼

私も「ウザイ」「キモイ」は単なる乱れとは思ってないです。
しかし、言葉というものは必要になって初めて誕生するもの。「ウザイ」「キモイ」などの、軽々しく人を傷つけてしまうような言葉が今の社会でそれほどまでに必要なのかと思うとなんだか虚しくなってきます。

お礼日時:2005/04/29 12:05

質問として出てくる「注文の多い料理店」の中に「ら抜き」の誤解が元でという記述はないように思いましたので、調べてみました。


著作権の切れた本をアーカイブスとしてネットで紹介している「青空文庫」の中に収録されていたので、読み返してみましたが、質問者様のご質問とは異なるように思えました。

いずれにせよ「食べられる」の前には何らかの文が出てくるわけですから、そのような誤解も殆ど(全くとは言いませんが)出てこないものと思われます。

参考URL:http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/43754 …
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 まず、「聞くことができる」という意味の場合を考えてみます。

今現在では「聞ける」というのが普通ですが「聞かれる」といっても意味は通じるでしょう。これをローマ字表記で表わしてみます。

「KI KA RE RU」>「KI KE RU」

 この場合の変化は、2文字目の母音「A」と3文字目の子音「R」が省略されたものと見ることができます。

 さて、これを「見ることができる」というのに適用してみましょう。「見られる」をローマ字表記にし、2文字目の母音「A」と3文字目の子音「R」を省略します。

「MI RA RE RU」>「MI RE RU」

 ご覧の通り「見れる」となりました。

 このように、「ら抜き言葉」は一見一文字を省略しただけのように見えるが、実は内部での変化がたまたま「ら抜き」になってしまっただけではないかというのがわたしの考え方です。
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言語学は素人ですが、


単に言いづらいから、誰かが縮めて言ったのが支持されたのだと思います。正統な進化に近いと思います。

でも、誤解を防ぐために分化したという意見には賛同しかねます。日本語には同音異義語が山ほどあるのに、前後の文脈を手がかりにきちんと聞き分けていますから。

この回答への補足

いえ、私も誤解を防ぐために分化したとは思ってないです。
ただ、誤解が生じる事もあるような表現を一概に「正しい」とは言い難いのではないか、と。そう言いたかったんです。
質問の仕方がおかしかったですね、ごめんなさい。

補足日時:2005/04/28 22:06
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 正当・不当というよりは、人間の声帯により適している(うまい言葉がみつかりませんが)ので定着したのだと私は思います。

要は喋る人々が喋りやすい形に進化したのではないでしょうか。
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